創刊40周年特別企画~後世に語り継ぎたい我が社の魂~

職人と技術者の相克が生んだ魂の言葉 サイエンス&アートが向かう次の世界

職人と技術者の相克が生んだ魂の言葉 サイエンス&アートが向かう次の世界

杉山 健三 マルマン株式会社 最高顧問

業界の「風雲児」であった。1981年にメタルウッドの『ダンガン』を世に出し、パーシモン時代の幕を引いた。1990年にはチタンウッドの投入でミズノと「世界初」を激しく競い、バブル時代の「トップシェア宣言」を巡っては他社の反感を強く買った。創業者・片山豊(故人)は戦闘的なシェア主義者であり、ゆえに様々な軋轢を生じさせた。

その荒波をクラブ職人として潜ってきたのが杉山健三であり、急成長時代の近代化を技術者の筋野秀樹が担ってきた。二人は水と油―。その衝突の物語は、サイエンス&アートの魂そのものだ。


取材が終わり、別れ際に握手をした右手は肉厚で、包み込むような柔らかさをもっていた。1947年元日生まれ。半世紀をクラブ職人として過ごしてきた。マルマン最高顧問、杉山健三は往時の思い出をこう語る。

「ぼくがこの世界に入ったときは、ヤスリとノミ3本をわたされて、毎日パーシモンブロックを削っていました。粗削り、研磨などの工程を経て、最後は手の平でヘッドをぎゅうぎゅうと磨く。手の油を擦り込むようにして、一日4~5本が限界でした」

おかげで、当時は手相が消えてしまったと豪快に笑う。70歳、今も活力は衰えていない。

マルマンゴルフの設立は1971年6月だった。時計バンドやライターなど、金属加工を主業務とするマルマンがブームに着目して参入を遂げた。が、以後の10年ほどはアイアン主体の展開で、捗々しい成果もみせなかった。

これが一変したのは1981年、業界に先駆けてメタルウッド『ダンガン』を発売したことによる。パーシモン時代は流麗な木目が人気の手工業品だったが、メタルウッドが一変させた。

「マルマンはそもそも金属加工の会社なので、ライターや時計バンドの総力を傾けて開発しました。これが登場する以前、社業は厳しかったわけですが、『ダンガン』が爆発的に売れましてね、工場も一気に拡大。生産ラインの近代化を手掛けたのが筋野専務です」

筋野 秀樹 マルマン株式会社 専務取締役 製造・R&D本部長筋野 秀樹 マルマン株式会社 専務取締役 製造・R&D本部長

筋野秀樹は杉山より8歳年下になる。同社が開発精神の礎としている「サイエンス&アート」は、職人・杉山と技術者・筋野の融合によるが、当時はことごとく折合が悪く、何かにつけて衝突した。ノミと手の油でやってきた杉山の身体には、クラブの手触りが骨の髄まで染み込んでいる。近代化は、それを否定する側面がある。

「怖かったですよ。体の大きな杉山が、掴みかからんばかりに怒鳴ってくる。わたしは生産技術職として入社したので、職人の手作業が無駄に見える。だから必死に対抗するわけで、二人が衝突するのは必然でした(笑)」

杉山は、工場で4日間徹夜して昏倒した武勇伝の持ち主。筋野も工場に缶詰めとなり、生産ラインの工夫に明け暮れた。

筋野の入社は、まさに「ダンガン特需」の真っ最中だった。1973年に松戸工場(千葉県)を立ち上げていたが、『ダンガン』を契機に近代化を進め、トヨタの看板方式を採用するなど、「東洋一のクラブ工場」といわれる陣容になった。手掛けたのが筋野である。

水上走行理論

杉山と筋野は次第に認め合っていく。パーシモンのインパクト音に慣れたゴルファーは高すぎるメタルの金属音に不快感を示し、それを解決するために話し合う。

「パーシモンの音に近づけるため、ヘッドに発泡ウレタンを入れました。その密度が緩いほど柔らかい音になる。杉山はその度合いをキツキツじゃなくてフワフワだと。何度もやり直して解決しました」(筋野)

様々な面で『ダンガン』はクラブ業界の旧態を変えていったが、そのひとつが「理論武装」というものだった。パーシモンではあまり意識されなかった慣性モーメントに着目した「Moment of Inertia理論」を掲げ、メタルの利点である設計自由度の高さを「理論」でアピールする。パーシモン時代にはなかった訴求方法だ。

『ダンガン』の投入で、マルマンは前年の年商100億円から5割増の成長を宣言し、推定10億円の宣伝広告費を投じて一気に足場固めを狙う。「ゴルフクラブは工芸品」と主張していた本間ゴルフはマルマンを「玩具メーカー」と揶揄し、これを受けたマルマンも素早く反撃に出るなど、トップ同士の場外戦も話題を呼んだ。

パーシモンを市場から一掃した『ダンガン』シリーズパーシモンを市場から一掃した『ダンガン』シリーズ

以後、マルマンは急速に勢力を伸ばしていく。バブル時代にはミズノとマルマンが市場の半分を双方25%ずつ占有し、マルマンの「トップシェア宣言」に対してミズノが猛反発する一幕も。マルマンは市場の風雲児であり、「かなり調子に乗ってました」と筋野が笑う。

杉山が続ける。

「あの頃は『マルマンのトップ営業マンのボーナスは立つらしい』と業界で噂されたほどでした。松戸工場は社員200人、アルバイト200人で、やればやるほど給料が上がる。片山イズムの経営で会社は急成長したのです。ぼくらにとって片山は、神でした」

片山豊(故人)――。マルマン創業の総帥であり、猛将のひとであった。その片山が唱えたのが「水面走行理論」である。右足が沈む前に左足を出す。これを高速で続ければひとは水面を必ず走れる。

理論ではない。気合である。そのようにして、バブル時代は毎月のように新商品を出した。

「ある日、片山社長に呼ばれて聞かれました。おい杉山ッ、ゴルファーはどこで球を打つんだ?」

フェースのトゥ寄りで打ちますと答えたところ、だったらそこがスイートスポットになるように首を伸ばせ。 ‥‥‥?

「スッポンみたいに首を伸ばせッ。すぐやれッ!」

社長室を飛び出した杉山は3日3晩、ほぼ徹夜で考える。

「片山社長の閃きが商品になるまで、半年ほどだったと思います。遅いと怒鳴られるどころではなく、下手したらクビですが、当たればど~んと報奨が出る。ぼくはキャッシュで4回もらいました」

そのようにして『スッポン』が誕生し、さらに首を伸ばした『スッポンET』へと続く。これは、映画ETの主役だった宇宙人の姿に酷似していた。

首長の異形が注目を集めた『スッポン』首長の異形が注目を集めた『スッポン』

「高反発」の命名者

1990年――。この年、業界にとって大きな革新が起きている。チタンウッドの登場だ。ミズノが世界初のチタンウッドと銘打った『ミズノプロTi』(18万円)を記者発表したのが同年3月のこと。マルマンは5月に『スッポンTAPチタン』(20万円)を発売するが、両者の先陣争いは激しさを増し、筋野の記憶によれば「世界初の発売」は、マルマンがわずかに早かったとなる。

その後、チタンは軽比重金属の特徴を活かして大型・薄肉化するが、その過程で反発性能を発見したのもマルマンが他社に先んじたという。業界は過去四半世紀、「高反発」という売り文句に支えられたが、この言葉も、

「うちが最初です。あの頃はフェース裏側にリブを付けて補強するのが常識でしたが、当社は逸早く薄肉化による反発効果を主張して業界からバカにされました。でも、大学との共同開発に投資して高反発メリットを確立したのです。業界が『高反発』で稼いだことを考えれば、貢献度は高いはず」

いずれにせよ、金属加工の優位性、研究開発への多大な投資、そして強固なシェア主義によってマルマンは急成長を遂げていく。総帥・片山は戦闘的なシェア主義者であり、①プライスリーダー、②参入障壁、③技術的優位性を確立するには、何よりシェアが重要だと主張して憚らなかった。

それは、成長市場で有効に働いたが、一度縮小局面に転じると大きなシェアをもつ企業はより大きな影響を受ける。以後、マルマンは経営難に陥って、スポンサー企業を幾度か変え、辛いリストラを経験する。杉山がこう述懐する。

「何より辛いのは部下を切ることでした。あの経験だけは二度としたくない‥‥」

筋野は感謝の念を強くした。

「台湾・中国のベンダーを含め、多くのひとに助けて頂いた。感謝してもし尽くせません」

『マジェスティ』の挑戦

マルマン マジェスティー

この間、同社を救ったのは『マジェスティ』の存在でもある。初代のデビューは1991年4月。他社を寄せ付けない高級ブランドとして地歩を固めており、筋野によれば、職人としての杉山の感性が課題解決に寄与したという。

「『マジェスティ』は優れた機能性と高級感あるデザインが不可欠です。チタンヘッドで光沢を出すのは難しかったのですが、杉山が特殊な紙ヤスリ(トライザクト)を見つけて解決しました」

また、チタンにイオンプレーティング(IP)を施したのも同社が先鞭をつけたという。杉山が社員の労をこうねぎらう。

「時計バンドのメッキをしている子に研究させ、たった一人で2~3年、IPの表面処理をやらせました。そのような努力が『マジェスティ』の光沢を支えています。300~400度の炉に入れて、何回も何回も繰り返す。出来るまでやる。言い訳を許さない。それが片山の遺訓です。だからぼくもうちの子たちには、絶対に言い訳を許しません」

マルマン マジェスティー

筋野は杉山のこの姿勢を「こだわり抜く覚悟」と表現した。

サイエンス&アートを標榜するマルマンは、次の課題を職人と科学の高次の融合に定めており、その初代モデルが『ジ・エイス』だった。八代目までは100%CAD設計だったのだが、

「『ジ・エイス』からは感性重視に変わっています。手作りの物は本当に微妙なところがCAD解析できない。そこでモデルの原型は感性で作り、性能や耐久性を高めるためにCADとFEMを使う手法です。自動車メーカーのマツダはパテモデルをクラフトマンが作ってCADに落とし込む。いわゆる先祖帰りですが、科学が進歩するほど職人の感性の素晴らしさがわかってきた。その意味で杉山の存在は、非常に大事です」

杉山イズムの継承者は、着々と育っているという。「杉山学校」でしごき抜いた結果、

「ウッドで3人、アイアンを含めてトータル6人が育っています。手の平で触ればダメなところがわかる、そんな人材が育たないと夢のある会社になりません」

科学と職人。衝突し合うふたつの感性が物作りを支える。(文中・敬称略)

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