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瀬古さん、喉元過ぎても熱さ〝忘れず〟

満薗文博のPenぺん草紙 満薗文博

この記事は弊誌月刊ゴルフ用品界(GEW)2020年5月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。
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「喉元過ぎて熱さ忘れる」が本来の使い方である。直接的には、熱いものを飲み込んでも、喉元を通り過ぎたら熱いのを忘れてしまう、ということである。転じて、苦しかったことも、時間、月日がたてば忘れ去ってしまうことの例えとして使われる。

40年も前に、あの煮え湯が喉元を通り過ぎた苦しみを、瀬古利彦さんは忘れていなかった。1980年、当時24歳の瀬古さんが、2020年の今、63歳になった。

1980年。初夏5月24日、24歳だったこの若者は、どん底にたたき落とされた。その日、日本は夏のモスクワ五輪のボイコットを決めた。ソ連(当時)のアフガニスタン侵攻が端緒となり、これに抗議した米国のカーター大統領が西側諸国に五輪ボイコットを呼びかけたのだった。

「政治とスポーツは別物」と言われるが、実際はそうとばかりは言い切れないことは多くの人が知っている。それにしても、この80年モスクワ五輪に限れば、政治とスポーツの表裏一体ぶり「東西冷戦」が露骨になった大会となった。あえて、当時の日本政府の首脳・幹部、スポーツ界幹部の名をここでは記さない。愚かな行為を恥じて生きなければならなかった人たちを、いまさらここでさらすこともないだろう。

当時、私は、金メダル候補だったレスリングの高田裕司さん、柔道の山下泰裕さんらの涙の抗議を取材した。当然、マラソンの金メダル候補だった瀬古利彦さんも取材した。悲しかったはずなのに、瀬古さんは人前で涙を見せずに言った。「残念ですが、これで選手生命まで奪われたわけではありませんから…」。

柔道の山下さんは、次の84年ロス五輪で金メダリストになった。しかし、瀬古さんは体調不良から14位でゴールした。さらに、最後の気力を振り絞った88年ソウル五輪で、瀬古さんは入賞に届かず9位に終わった。実にフルマラソンの国際大会で15戦10勝の戦績を残す瀬古さんが、ことオリンピックにはそっぽを向かれ続けたのである。モスクワが、不運の始まりだったのか。

どの世界もそうだが、とりわけスポーツ界において「たら」「れば」は禁句とされる。瀬古さんが走らなかったモスクワ大会の後で、私はあえて、瀬古さんの師・中村清さん(当時早大・SB食品監督)に聞いた。

「出ていたら、瀬古は勝っていましたね。もっとも、走っていないから…。まあ、よほどのアクシデントがなかったら、私は勝たせていました」。モスクワのほとぼりが冷めてから瀬古さんにも聞いた。「勝っていましたね…」。

年配の方なら、中村清−瀬古利彦の特異な師弟関係を耳にされたことがあるだろう。中村さんは、瀬古少年が四日市工高時代、中距離から長距離へと進む過程で、その非凡ぶりに目を付けた。瀬古さんを早大に誘い、英語の点が足りなくて入試に失敗すると、米国に留学させ、1浪の末に早大入りを果たさせたほどだった。私は、当時から中村−瀬古ラインを知る人間である。中村さんは、瀬古さんを東京・千駄ヶ谷の中村邸の離れに住まわせ、当時「トイレ以外は一心同体」とまで言われたほどの師弟関係で結ばれていた。そのトレーニングは激しさで知られ、あっという間にライバルたちから「世界ナンバーワン・ランナー」と呼ばれるまでにのし上がった。

私は多くのレースを見たが、本当に強かった。モスクワ五輪は、まさに、その頂点で訪れ、そして霧散した。

見えざる敵に瀬古さんの信念

モスクワでは、人間どもがしでかした愚かな決断が、瀬古さんらに〝煮え湯〟を飲ませた。だが、それから40年。今度の敵は人間ではない。肉眼では見えず、声も発しないウイルスである。人間ども同士の愚かな行いは「話せば分かる」かも知れないが、新型コロナウイルスは正体不明、人間社会に得体の知れない不気味さをもたらし、いまだ終息の気配を見せない。今年2020年東京オリンピックは、中止ではなく、前代未聞の1年延期が決まった。

昨秋の話。国際オリンピック委員会(IOC)が、強引にマラソンの開催地を東京から札幌に変更させたのを受けた会見の席で、日本陸連のオリンピックプロジェクトリーダー、瀬古さんは、あるエピソードを明かした。代表たちは、大東京を日の丸を付けて走るのを夢見ていた。すでに代表を決めていた服部勇馬もその一人だった。「服部君が僕に言ってくれました。『瀬古さんがモスクワ五輪で走れなかったことを思えば、(札幌に代わっても)オリンピックで走れる自分は幸せ者です』と。涙が出ました」。

だが、試練は続いて、今年に入って新型コロナウイルスの出現である。オリンピックが1年延期となって、マラソン代表も、再び騒ぎに巻き込まれた。代表に決まっている選手をそのまま1年後も代表とするのか、という問題である。しかし、議論が持ち上がるや、瀬古さんは敢然と言った。

「男子3人、女子3人。懸命に努力して勝ち得た6人の権利を守ってあげたい」。1年延びたことで、新たな有力選手が現れるかも知れない。だが、瀬古さんは、自ら考案した選手選考で勝ち得た6人の切符を無駄にしてほしくなかったのだ。40年前、代表に決まりながら、赴くことのなかった自らのモスクワ行きの切符は霧散した。彼らにも悲しい思いはさせたくない。

瀬古さんの全盛期を支えたシューズが現存する。広島県世羅郡にある修善院は、韋駄天の石像が建つ禅寺である。住職の神田敬州さんは「駅伝の世羅高」OBで自らも走る。寺は「靴供養」でも知られる。歴代の名選手のシューズも奉られ、瀬古さんのものも、ここにある。神田さんが「瀬古さんの涙と汗が染みこんだものです」と言う一足(写真)を紹介しておく。
40年後。瀬古さんは「喉元過ぎても熱さ」を忘れていなかったのである。


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ライター紹介 ライター一覧

満薗文博

満薗文博

1950年2月6日、鹿児島県いちき串木野市生まれ。鹿児島大学卒業。中日新聞東京本社(東京中日スポーツ)では88年ソウル、92年アルベールビル、同年バルセロナ、96年アトランタなどオリンピックを現地取材したほか、各種大会を取材。報道部長、編集委員を経て、現在スポーツジャーナリスト。大学講師。

著書に「オリンピック・トリビア」(新潮社)、「オリンピック面白雑学」(心交社)、「オリンピック雑学150連発」(文芸春秋社)、「小出義雄夢に駈ける」(小学館)、「ゴールへ駆けたガキ大将」(東京新聞)、「羽生結弦あくなき挑戦の軌跡」(汐文社)など。執筆協力作品に「見つける 育てる 生かす」(中村清著、二見書房)、「小出義雄監督の人育て術」(同)など。

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