月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。
ゴルフは国内最大のスポーツ産業だが、その基礎をトーナメント、ゴルフ用品等の世界で形作ったのが大西久光氏である。現ゴルフ緑化促進会理事長、日本ゴルフツアー機構では理事(前副会長)を務める。住友ゴム工業の常務時代には、当時無名だったキャロウェイゴルフを日本に紹介、世界の大手メーカーになる下地を作った。
大西氏は、自身の半生をどのように振り返るのか。その足跡は、国内ゴルフ産業の発展史と重なるだけに興味深い。
毎週火曜日掲載
暴れん坊はゴルフをやれ!
ぼくがゴルフを始めたのは、父親の影響が大きかったですね。
昭和30年、関西学院大学へ入ったときは体重が54キロでしたけど、力はめっぽう強かったのでレスリング部に入りました。ところが、普段は何も言わん父親が、このときばかりは反対した。気性の激しいぼくがレスリングやったら手がつけられんと思ったのか、精神修養にいいからゴルフをやれと・・・・。おじんのスポーツは嫌やったけど、あの頃の時代は父親に権威がありましたからね、不承不承従ったわけです。
当時よく回ったのは、阪神競馬場の中に仁川ゴルフ場というのがありましてね、一日150円でプレーできました。まともなロストボールが200円だったから、そりゃもう、ボールは恐ろしく高価なもんですよ。当時は今と違って、ボールの芯に糸ゴムを巻き付ける「糸巻きボール」だから、トップすると中のゴムが飛び出してくる。
そんなボールを50個くらい集めてきて、自宅に網張って練習をした。グローブは高いから軍手です。それに父親からもらった名もないクラブ・・・・、最初はドライバーと5番アイアン、8番アイアン、それとパターで始めました。
当時はミズノさんのお店にもゴルフ用品はなかったですね。元町(神戸市)に小さなゴルフショップがあって、ここにもサラはなかったと思うな。それで中古クラブを1本ずつ買い足すわけですが、新しい番手が増えるのは嬉しかったですね。最初はバンカーショットも8番で打っていましたが、サンドウエッジだと簡単に出せる。そうやって一本一本増えていった。
大西氏が大学3年時にカナダカップ(1957年、霞ヶ関CC)が開催され、中村寅吉、小野光一の日本チームが個人、団体ともに優勝を遂げた。それが第一次ゴルフブームの発火点だが、他社に先駆けてクラブの国内生産に踏み切っていたミズノも、当時の年間生産量は1万8869本(ミズノ調べ)とわずかなもの。産業としてのゴルフ市場は夜明け前の様相だった。
カナダカップを観戦した大西氏は以後、競技ゴルフに没頭する。4年時にはゴルフ部主将、同年の関西学生選手権ではその後日本アマを6度制する中部銀次郎氏と2回戦で対決し大勝した。同大会は準優勝、この年の関西学生リーグで優勝を果たすなど、着実に頭角を現していった。
中部さんとの戦いは、今でも鮮烈に覚えていますよ。彼はぼくより5歳年下で、高校生なのになぜか大学生の試合に出場していた。その理由は謎ですが(笑)、前評判は物凄く高かった。恐ろしく上手いというか、ショートゲームが明らかに違うんです。こっちは18歳から始めたでしょ。つまり腕力がすでについているから、右手と左手の感覚に苦しむわけですね。
彼の場合はジュニアの走りですから、左右が違和感なくひとつに合体している。この差はあまりに大きかったですね。
でもね、会場となった廣野GCの15番で、ぼくが中部さんを退けた(4&3)。スターティングホールでダブルボギーを叩いたときは、泥水のような汗が体中から噴き出したりして、それこそ、うわ~っとなりましたが、不思議なのは2番ホールからの集中力です。
ぼくの視界から銀ちゃんが完全に消えてしまったのです。もう、勝つも負けるも関係なく、どんどん無心になっていって、やることなすこと全部上手くいく。人づてに聞いた話なんですが、あとで銀ちゃんはこんなことを言っていたそうです。
「プレー中、大西さんがヘンなことを言ってるんです。あいつが神の子なら、俺は仏の子や。負けてたまるかっ!て・・・・」
まあ、そんなわけでゴルフにどんどん没頭して、いずれ全日本アマを取るんだと、明確な目標もできました。
だから大学の先生も「大西君、卒業したらプロになりなさい」というわけです。
プロの地位は極めて低かった
ただ、僕にしてみれば先生の言葉は心外でしたね。学卒のプロは鈴木照男さんが最古参ですが、昭和30年代には大学を出た学士プロなんかいませんし、今と違ってプロの地位は極めて低いものでしたから。
杉本英世さんが日本オープンに優勝したときなんか、賞金は50万円だったかな。当時のゴルファーは実業家とかお偉いさんばかりだったので、大半のプロはお金持ちにべったりで、クラブ磨きや靴磨き、グリップ交換をやらされるなど「なんでも屋」みたいなもんですよ。
「ブルジョアスポーツ」って言葉は嫌いやけど、今の中国と同じでね、一握りの金持ちが現れて、その人たちの社交・社用に重宝されていた。ほとんどのゴルファーは経営者だから、プロはクラブハウスのレストランにも入れなかった。そんなわけで、プロになる気なんか毛頭ありません。
で、卒業を控えて悩んでいたら、廣野のハンデ2だった大橋貞吉さんがダンロップへ来いと誘ってくれたんです。というのも、ぼくが大学4年のときにダンロップはボールの生産を始めたばかりで、大橋さんは販売の責任者でした。以前から親交がありましたし、ゴルフを通じてぼくの人柄もご存知だった。あの誘いは本当に嬉しかったし、二つ返事で入社しました。
大西氏が日本ダンロップ護謨(現住友ゴム工業)へ入社したのは1959年で、同社がゴルフボールの生産を「再開」した翌年に当たる。
住友ゴム工業が国産初のゴルフボールを生産したのは1930年(当時は英国資本の極東ダンロップ)で、大沢商会が販売代理店となっていた。ブリヂストンの国産1号ボールが1934年のこと。極東ダンロップは英国ダンロップが開発した『ダンロップ65』の輸入も始めるなど、市場開拓に意欲を見せるが、第二次世界大戦の影響でゴルフボール事業はほどなく閉鎖に追い込まれている。
その後、同社は長らくゴルフ市場から離れるが、再開に踏み切ったのが1958年で、大西氏が入社した前年に『ダンロップ65』を復活させていた。
戦後の荒廃期を脱してゴルフ市場は活気を取り戻すが、輸入量の少ないゴルフボールは米軍施設内の売店(PX)や闇ルートで細々と流通するに過ぎず、当時の価格で平均的には1ダース1200円と高値だった。
ダンロップは国内生産に踏み切って、流通量の底上げを目指す。当初はボール工場の建設を住環境のよい四国などで検討したものの、結局は神戸工場の3階に製造ラインを設置する。ただし、販売価格はかなり高価だった。
返品の山で茫然自失
『ダンロップ65』は1個350円で発売しました。これはもう、かなり高額ですよ。当時はゴルフ場で飲むミルクが15円、西宮CCのメンバーフィが700円だったから、如何に高いかわかるでしょう(笑)。ゴルフ場の理事長も林に打ち込んだボールを必死になって探したし、ある人がインドへボールをもっていったら、宝石の原石と取り替えてもらったという。これ、本当の話ですよ。嘘みたいな本当の話がごろごろある。
ただ、品質は今とは比べ物になりませんでしたね。どんなに上手く打っても9ホールもてばいい方だし、プロも2個で1ラウンドが鉄則でしたから。
それにしても、当初は全く売れませんでしたなあ(苦笑)。先行したブリヂストンの『Qボール』(250円)と『Gボール』(150円)が安さもあって、市場の人気をさらっていたのです。そこでぼくは、350円を300円に下げるよう進言したわけですが、あの頃は(贅沢品に課せられる)物品税があったでしょ。価格改定すると課税額を変える必要があるから返品をくらって、それが山積みになってしまったわけですよ。
中にはBSの箱に入って戻ってくる物もありましたな(苦笑)。
初夏だった。当時のダンロップはタイヤ以外を特殊用品課と称して、自転車チューブとゴルフボールを一緒に扱っていた。言ってみれば窓際ですよ。
その窓際の会社の隅に狭いスペースがありましてね、在庫の山に囲まれてしまった。大橋さんと顔を見合わせて、まさに茫然自失。二人とも大汗をかいていましたよ。まさか、その直後に大逆転があるとは知る由もなかった。
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