1. 寅さんとの契約金は「10万円」 ゴルフ産業を創った男(2)

寅さんとの契約金は「10万円」 ゴルフ産業を創った男(2)

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dunlop65

月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。


住友ゴム工業へ入社した大西氏は、1個350円の高額ボール『ダンロップ65』の販売不振に苦しむことになる。ブリヂストンの低価格ボールに対抗するため値下げを行い、それが裏目に出て在庫を抱えてしまった。しかし、そこから怒涛の巻き返しがはじまった。

毎週火曜日掲載

 

窮地を救った恩人は寅さん

ぼくが入社したのは昭和34年ですが、その前年に発売したばかりのゴルフボールは、在庫の山を築いてしまった。先行していたブリヂストンのボールに対抗するため、値下げをしたのが原因ですよ。

あの頃は物品税があったでしょ、価格を改定したことでショップから返品をくらってしまい、それが瞬時に山になったというわけですな。まあ、茫然自失の状況ですが、翌年に大逆転があろうとは、まったく思いもしなかったですねえ。 

この年の7月13日。値下げの問題を整理したあと、私は神戸本社から東京へ赴任しました。関西は上司の大橋貞吉さん、関東はぼくが営業を担当するということで上京したわけですが、まあ、そのオフィスっていうのが溜池(赤坂)の傾いたビルでしてね…。東京の上司は特殊用品(ボール、自転車チューブ等)の課長だから、ゴルフを知らんわけですよ。ということで、好きなようにやらせてもらいました。

たとえば、赴任してすぐ千葉CCの会員権を200万円で買ってくれるなど、新入社員には異例の待遇でした。だから、ダンロップの「契約プロ1号は大西だ」とか言われまして、年間100日はゴルフでした。

日曜はほとんど試合に出ていたし、平日もゴルフ場で過ごしている。まあ、セミプロみたいな扱いですな。さすがに上司も「大西君、毎日はまずいだろう」と叱るんですが、あの頃は「エンターテイメントフィー」というのがあって、要するに接待交際費のことですね。上司の予算を、ぼくが好き放題使っていた(笑)。

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの中村寅吉さんが砧(世田谷区)にいらっしゃいました。東京への赴任直後、週に3日は通いましたね。ぼく自身、学生時代は競技ゴルフでそこそこの成績をあげていたので、プロの世界も承知している。そんなわけで、ダンロップのボールを売るためには、プロから訴求しようと考えたのです。いわゆるトップダウン戦略ですな。「寅さん詣で」はその伏線ですよ。

で、翌年からプロの月例会を真剣に回り始めました。関東月例に20ダース入りのカートンを3つ担ぎ、電車を乗り継いで運ぶとかね。いま思えば大変な重労働ですが、評判は上々だったですね。

あの頃のプロは社会的な地位がもの凄く低くて、ボールを手に入れるのも四苦八苦でしょ。今はメーカーから当たり前のように支給されますが、当時はまったく違います。ぼくが持ち込んだ『ダンロップ65』は1ダース3600円でしたが、これを2200円で販売したら飛ぶように売れるわけですよ。

一人1回1ダースが条件でしたが、「頼むからもう1ダース売ってくれ」と拝むように言われる。もちろんキャッシュオンデリバリーです。帰路は荷物がなくなる代わりに、財布が膨らんでおりました。

Dunlop65 1958年モデル
Dunlop65 1958年モデル

契約は年10万円とボール提供

今やメーカーの「プロ戦略」は当たり前だが、それは大西氏の当時の成功に端を発している。同社は1959年、中村寅吉プロとボールの使用契約を交わしたが、国産品としてはこれが第1号契約で、直後のカナダカップ(豪州大会)で使用した。

中村プロは当時、岡山県のボールメーカー、ファーイーストと関係が深く、『トラピート』の商品名でボールを販売していたが、ほどなく住友ゴム工業へシフトすることになった。契約に対する社会的な認識は未成熟で、中村プロへは「年間10万円程度の支払いと製品提供」が行われた。

1957年にカナダカップ(霞ヶ関CC)を制した中村プロの影響は絶大だった。当時、国内のプロゴルファーは150人ほどで、中村プロの号令一下、大半のプロが『ダンロップ65』を使い始めた。

当時は「外ブラ」の天下でしたな。クラブはスポルディングやウイルソンの時代だし、我々の『ダンロップ65』も、英国製は信頼されるけど日本製は信頼されない。生産機械は輸入品で、糸ゴムを作る技術も難しかったわけですよ。

主流だった「糸巻きボール」の製法は、10倍に伸ばした糸ゴムを芯に巻いて、インパクトの瞬間12倍になるというものです。その伸縮率で飛ばす仕組みなんですが、伸ばし過ぎると硬くなる。つまりコンプレッションが不均一で、大きさについても同様です。

Dunlop65 1966年モデル
Dunlop65 1966年モデル

それと、原価に対して40%の物品税が課せられていたでしょ。たしか7掛けで卸したと思いますが、1000円のボールが1400円になるわけです。そこまで高いとPX流れの外国品になびいてしまう。というわけで、我々の『ダンロップ65』も当初は旗色が悪かったのです。

こういった流れを一変させたのがプロ戦略です。中村さんの口利きもあって国内プロのほぼ全員が『ダンロップ65』を使い始めた。プロの周りにはトップアマがいますよね。彼らの口コミが一斉に伝わったおかげで在庫の山は瞬時に消え、作れば作るだけ売れました。

で、代理店にはぼくが分配しました。三越さんの担当者から「頼むから40ダース売ってくれ」といわれたり、「仕方ないですなあ」とか言いながら、分配して差し上げたわけです。殿様商売みたいなもんですよ(笑)

印象に残っているのは戸塚CC(神奈川県)の売店ですね。ガラスケースに置く商品はダンロップだけにしてくれとお願いしたら、本当にやってくれましたよ。

その後、代理店制度は急ピッチで進みます。マツダゴルフや銀座ゴルフ、日本ゴルフや日東スポーツ、双葉ゴルフなどと連携を深めた結果、一気にゴルフ場ルートの9割以上を抑えてしまった。このとき、全国シェアは8割を超えたはずです。住友ゴムはタイヤの苦境で赤字会社でしたけど、ボールの利益で立ち直った。ボールはね、窓際の特殊用品課が扱っていましたが、社内の利益頭になったのです。

成功の要因は、第一にボール事業を始めたこと。第二はゴルフブームで、第三は寅さんの協力です。ダンロップにとって寅さんは大恩人。本当に感謝しております。

ところで、ぼくは昭和39年に神戸本社へ戻るまで、東京で5年間を過ごしましたが、この間発想したのはボールで作ったブランドを拡大する方法でした。

当時のトップアマにはBSの三好徳行さん(1953年~日本アマ3連覇)がいらっしゃいましたが、ボールはダンロップを使われていた。一般のゴルファーも新品を買えるひとはダンロップ、手が届かないひとはロストボールといった二極化で、もの凄い商品力を確立した。そのパワーをゴルフ用品全般に広げようと考えたのがひとつ、さらには「第二の寅吉」を作ってピラミッドの頂点を磐石にして、一気に底辺を拡大する考えです。

当時のプロ契約は宣伝広告の範疇ではなく、彼らを援助するという形でね、関西では橘田規さんに白羽の矢を立てました。

こういった戦略は結果的に、プロに凄く喜ばれましたね。中村さんや橘田さん、戸田藤一郎さんにしましても、プロの社会的な位置付けは格段に低かったわけですよ。さらにその下は推して知るべしで、プロゴルファーの生活は楽ではなかったのです。だから「頑張ってダンロップと契約できる選手になるんだ」と、ある種の夢といいますか、野球のドラフトみたいなもんですな。ダンロップとの契約が彼らの目標になる。プロゴルファーに活力を与えることができたと自負しています。

1963年(昭和38年)10月、英国ダンロップは保有していた日本ダンロップの経営権を住友電工へ移譲し、住友ゴム工業が発足した。経営陣は日英の幹部が混在したが、これにより日本企業としての足場を固める。同社は以後、人材育成や労使関係の協調、変わったところでは社内の「英語公用制度」を廃して日本語を公用語に改めるなど、英国支配からの脱皮を意欲的に目指した。

タイヤとボール工場の近代化(スペース拡大、無人化、連続化)も、この流れに連なったものだ。当時はスモールボールとラージボールの2種類があり、生産比率は前者が8割、後者が2割で、各倍増の計画が持ち上がる。

市場環境が好転し、1957年に116箇所だったゴルフ場は1962年に330箇所、同年のゴルフ場入場者は378万人だったが1965年には1126万人へと激増する。ゴルフブームの波が押し寄せ、強気の計画を後押しした。

月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年2月号「シリーズ温故知新」掲載

 


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片山哲郎

片山哲郎

1962年8月3日生まれ、東京都出身。
「月刊ゴルフ用品界」(GEW)を発行する株式会社ゴルフ用品界社の代表取締役社長兼編集長として、ゴルフ用品産業及びゴルフ界全般の動向を取材、執筆。2014年4月に日本ゴルフジャーナリスト協会の会長に就任(現任)。

ほかにインタラクティービ(J:COM)番組審議会委員(現任)、ゴルフ市場活性化委員会マーケティング委員(現任)、大学ゴルフ授業研究会理事(現任)。

信条は「人の至福は健康で長生きすることであり、これに寄与できるゴルフは『善』である。善なるゴルフ産業が健全発展するために、建設的な批判精神をもち、正確、迅速、考察、提言を込めた記事を書く」――。

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