月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。
ダンロップのゴルフボール事業を軌道に乗せた大西氏は、国内の流通展開を盤石にするため代理店網の整備を急いだ。さらに間髪を入れず、プロゴルファーの「興行」にも力を入れる。高いシェアが頭打ちになり、さらに成長を遂げるには市場規模そのものを拡大する必要があったからで、プロ大会の拡大に本腰を入れた。
住友ゴム工業は、タイヤを中心とした物作りの会社である。その中に「興行師」が一人紛れ込んだような形になり、周囲の反発が激しくなる。新たな事業予算は拒否されるケースが多くなり、生来の気の短さから辞表を叩きつけることになった。
毎週火曜日掲載
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上司より高級なクラブで飲んでいた(笑)
昭和39年の秋、ぼくは東京赴任の5年間を終えて神戸本社へ戻りました。戻ったというよりは、「強制送還」に近いですな。遊びすぎた(笑)。
当時のぼくはアマ競技に没頭していて、それが仕事でもありました。千葉CCのクラチャン(2回、西宮CC8回)だったので、会社では平社員ですけれど、ゴルフ場ではチャンピオンなわけですよ。ゴルフ場のメンバーは企業の社長が多くて、可愛がられた。
大きな声じゃいえませんが、月給が1万5000円の時代で1回のニギリが同じ額ということもありましたし、銀座の一流クラブへも毎晩のように連れて行かれた。上司よりもいい所で飲んでるから、「大西は遊びすぎだ、ヒラ社員のくせに」となるわけです。もともと図々しい性格が、あの頃の体験で輪をかけて図太くなりました。そんなわけで本社への「強制送還」は、まあ、当然だったかもしれませんな(笑)
ただ、本社のトップはさすがに怖かったですねえ。その前年、英国ダンロップは住友電工に経営権を移譲して、子会社の住友ゴム工業が発足していました。社長は井上文左衛門さん、専務が下川常雄さんで、いずれも親会社からの出向です。お二人とも明治生まれの気骨があって、聳え立つ山のようなもんですよ。「企業は社会の為にあれ」「浮利を追わず」といった住友イズムが徹底されておりました。
折半出資で代理店網を急拡大
タイヤが主流の会社にあってゴルフは傍流の存在ですが、「浮利」という扱いではなかったですね。あの頃のボール生産は24時間のフル操業で、いくら作っても欠品でした。定価300円の商品を代理店へ200円で卸しますが、それでもメーカーの利益は100円取れる。作れば作っただけ売れるから、経営トップもゴルフに理解を示したわけです。
この機に乗じて、ぼくには次のプランがありました。神戸に戻って進言したのは、『ダンロップ65』のブランド力をゴルフ用品全般に広げることです。で、ヒラの私が専務に直談判することになりましたが、とにかく下川さんは怖い方で、会議で一喝された社員が卒倒したこともあるほどです。それだけに腹を括って臨みました。論法はこうです。
ゴルフ場の売店は9割抑えました。これだけシェアを取ったのにボールだけではもったいないと思います。ここにソックス、ウエア、キャディバッグなどを乗せれば市場開拓を促進できます。これにより、ダンロップ・ブランドを拡大しましょう!
こちらの思いが通じたのでしょう、進言は受け入れられました。用品の生産はいずれも外注ですが、昭和40年代前半には、2週間に一度の割合で「スポーツ企画会議」も始まります。窓際の「特殊用品課」が、いよいよ組織的に動き出したのです。
ゴルフ用品の拡大政策は結果的に、代理店制度を加速させることに寄与した。同じ流通経路に様々な商品を乗せれば代理店の売上アップに貢献できるからだ。逆にサイズや色柄の多様性で在庫管理や売れ筋の把握に苦しむが、ボール単独の展開から総合企業への脱皮を意欲的に目指した。
代理店網の構築を周到に行っている。まず、「直系代理店」は地域の有力者を口説きながら折半出資の形をとった。ダンロップスポーツ中部は1968年(昭和43年)に自動車関連部品商社の東郷産業と住友ゴム工業の共同設立。東郷産業は住友電工の取引先で、その縁から始まったもの。大沢商会とミズノ経由で供給していた北海道にはダンロップスポーツ北海道(共同出資)を設立するなど、一気呵成に進展した。
こういった代理店の開拓も、ぼくの大事な仕事でしたね。当時はミズノさんが強力な小売りチェーンを持っておられ、BSさんはダンロップへの敵対心で流通整備に力を入れていました。ボールのシェアは8割以上がダンロップですが、本業のタイヤはBSさんが5割のシェアですからね。企業規模も遥かに大きいし、ダンロップ何するものぞ! の気概がありましたな。
だけどね、このときぼくは違うことを考え始めていたんですよ。ボールの利益をゴルフ業界へ還元して、マーケットをでっかくすることです。小さな市場でごちゃごちゃやっても仕方ない、ボールの利益があるうちに金をどーんと投資して、ゴルフ人口を増やそうと考えたわけです。
「興行師」誕生
話は多少前後しますが、神戸に戻ったとき、個人的には重大な決意を固めていました。ぼくのアマチュアとしての目標は日本オープンの優勝でしたが、接待ゴルフとの二股もあって「クラチャン止まりがせいぜいかな、そろそろ現役を引退しようか」と、そんな気分になっていたんですね。
そこで昭和40年の2月、上司にフィリピンオープンへ行かせてくれと頼んだら即座に却下されて(苦笑)。「いいかげんにしろッ」てなもんですよ。それで休暇を取りまして、親父からの借金で出場しました。
驚いたのは、そこにチチ・ロドリゲスが出ていてね、当時の日本オープンより遥かに活気があったんです。その様子を写真に撮ってレポートを出して、直後の4月には台湾オープンに出場した。これが現役最後の試合です。前の晩に紹興酒を飲みすぎて、成績はまあ、そこそこでした(笑)。
ゴルフ人口の拡大は、こういった海外の風景がベースになりました。中村寅吉さんの協力で一気にボールのシェアを取ったように、ゴルフの普及はプロ戦略が有効だと、確信めいたものがありました。プロの試合を盛り上げれば、ゴルファーはもっと増えるはずだと。そこで手始めに自社の冠大会を始めたのです。
1969年(昭和44年)、住友ゴム工業は同社初の冠大会「ダンロップゴルフトーナメント」を開催した。賞金総額は400万円、優勝賞金が100万円。同社の井上文左衛門社長(大会会長)はパンフレットで「日ごろダンロップゴルフ用品をご愛用いただいているゴルファーの皆様へのプレゼントです」と語っている。
目玉は全英オープンを5度制したピーター・トムソン(1954年~3連覇)の出場で、日本勢は中村寅吉を筆頭に和製ビッグスリーの杉本英世、安田春雄、河野高明(同大会優勝)らが参加するなど、まさにゴルファーへの「プレゼント」だった。
翌昭和45年、ぼくは初めてマスターズを観戦し、そして魅せられました。日本でもこんな世界を作って、第二、第三の「寅さん」を生み出さなければならないと、興行の世界にどんどんのめり込んでいったのです。
この年から下川さんが社長に就任されましてね、またもや直談判に伺いました。和製ビッグスリーと住友ゴムの共同出資で「ビッグスリーエンタープライズ」を作りたいから、承認して下さいというものです。資本金は100万円だったかなあ、やることは豪州のプロ4人に日本のビッグスリーとジャンボを加え、総勢8人が「日豪対抗戦」をして歩く。
言ってみればどさ回りですな(苦笑)。1人当たり20~30万円をゴルフ場から出してもらい、ギャラリーは500人も入れば上出来でした。
これはもう、本当に忙しかったですよ。1週間で5県回ったこともあるほどでね。徳島から熊本、宮崎をフェリーや電車で行くわけです。今でも印象深い光景は、田舎の寂しい駅のホームで、ジャンボが空を眺めていた。あの頃は煙草を吸わなかったんじゃないかな。トーナメントも少なくて、「どさ回り」が本業みたいなものでした。これから先、どうなっていくんだろうと。田舎の駅で、不安があったのかもしれませんなあ。
まあ、いつまでも「どさ回り」をやってるわけにもいきません。そんなわけで翌年、ぼくは思い切った興行を打ちました。
ダンロップのユーザー組織(ゴルフメイトクラブ)を強化するために、ジャンボが出場するニュージーランドPGAの観戦ツアーを組んだのです。一人39万円で10日間、飛行機をチャーターしましてね、総勢123名です。たしかトヨタの『パブリカ』が39万円だったから、自動車と同じ値段ですよ。飛行機のチャーター代は4000万円で、団長は糸山英太郎さん(元衆議院議員)にお願いしたのです。
ところが、これが大問題に発展した。土壇場でね、会社が「認めない」となったわけです。社内の突き上げがあったんでしょう、「興行師の大西に好き放題やらせるなッ」というわけで、これには本当にまいりました。
いよいよ進退窮まって、だったらオレが自腹を切ってやろうじゃないかと。自宅を担保に2000万円借金して、どうにか実現に漕ぎ着けた。でね、羽田に来た上司に辞表を叩き付けたわけですよ。13箇条からなる激烈な上層部批判を書き込んで、そのまま飛行機に乗り込みました。
帰国して1ヶ月ほど経った頃、下川さんに呼ばれましてね。「会社を思って辞めるのは筋違いだ。もう1回やってみろ」と。あの一言は本当に嬉しかったし、私を救ってくれましたねえ。
ところで、このときニュージーランドPGAを制したのはジャンボです。国内で112勝の彼が、唯一海外で勝った試合です。
月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年3月号「シリーズ温故知新」掲載
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