月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。写真は文章と直接関係ありません。
今回は日本プロゴルフ協会の分裂騒動に関わる話だが、回顧録の冒頭が片山晋呉への批判で始まるのは示唆的だ。2005年6月号に掲載した記事ながら、試合会場での振る舞いを厳しく問い質している。そのことを含め、激震が走った「分裂騒動」を振り返ろう。
毎週火曜日掲載・写真提供大西久光氏
忘れられない片山のタスキ
片山晋呉プロがダンロップフェニックスで優勝(2000年)したときの光景を、私は苦々しい思いで眺めていました。おどけた調子でタスキを掛け、コメディアンのように振舞う姿。世界に通用する一流のトーナメントを作りたい、その一心で頑張ってきた我々の心情を、逆撫でされたように感じたのです。
今年のマスターズ(2005年)はタイガー・ウッズが見事な復活優勝を遂げました。ファンが喝采を叫ぶのは、不調に苦しんだウッズがようやく大輪の花を咲かせたからで、そこに人々は感動する。片山君がマスターズで優勝して、あのハッスルポーズをやりますかね。できないでしょ。私が手塩にかけて育てたダンロップフェニックスだから言うのではなく、どの大会も同じですよ。彼はプロスポーツの本質を理解してないと思いますね。
最近、男子ツアーの凋落が指摘されます。いろんな要因がありますが、私はハングリー精神の欠如や本当の下積みを経験していない選手が増えたからだと思うんですよ。以前、青木功プロに、あなたはプロ入りして7年間、まったく勝てなかった。なぜですかと尋ねたことがあるんです。青木プロの答えはこうでした。
「俺は最低の生活をしてきたから、プロになれて安心した。だって、飯が食えるんだから……。それじゃいかんと気付くのに、7年かかったということだね」
今のプロは大卒が多く、フェアウェイを歩く姿も先輩後輩の談笑とか、まったく緊張感が足りません。そもそも大学でゴルフをやれるのはお金持ちの子供が大半でしょ、下積みを知らない世代なんですよ。丁寧にサインをするよりも、ハッスルの方が受けると考える。去年、男子ツアーの半分以上を少数の外国人プロが制しましたが、これも頷けることですね。彼我のハングリー精神は、決定的に違いますから。
プロアマで靴を脱いだハミルトン
それがファンサービスにも表われます。かつてトッド・ハミルトンとプロアマ(太平洋御殿場)で回ったとき、18番で池に入れた彼は靴を脱いでウォーターショットを披露しました。これがビタリと寄ってバーディー、我々が優勝したわけですが、同伴アマの感激は並大抵ではありません。もちろん私も嬉しかった。彼は10年も日本で下積みを続け、とうとう全英にも勝ってしまった。そのとき御殿場で一緒だったアマチュアは、まるで我がことのように喜びましたよ。
日本のプロは、決して靴を脱ぎません。主催者が大金を投じてトーナメントを開催するのは、その背景に視聴者やギャラリー、つまり消費者がいるからで、そのことを日本の男子プロは分かってない。スポンサーが離れるのも当たり前です。
そういった不満は、かなり以前から持っていました。ゴルフ界を盛り上げるにはプロの意識改革が必要だし、組織力を活かした長期ビジョンやスポンサーの投資効果を高める施策が求められる。だからPGAの改革も、避けて通れないものでした。
なぜ分裂に至ったのか?
1999年12月、トーナメント界に激震が走った。PGA(日本プロゴルフ協会)からトーナメント部門が独立し、JGTO(日本ゴルフツアー機構)が発足したのだ。傍目には急転直下と映ったため、内部分裂やクーデターとも報じられた。対立は守旧派のPGA幹部と改革派の選手会という構図だったが、事態を複雑に見せたのは既得権益の存在で、個別の利益誘導も指摘されるなど泥仕合の様相を呈す。
最大の問題は、大会スポンサーで構成されるGTPA(ゴルフトーナメント振興協会)がPGAに預託する公認料の扱いだった。独立によって1社1000万円、30社で計3億円とも言われる資金の大半がJGTOに移管される。PGAは苦境に立ち、さらにトーナメント収益がなくなれば成立基盤さえ危うくなる。新旧の激しい攻防が勃発し、その矢面に立ったのが大西氏だった。
実は分裂の2年前、GTPAの有力委員とPGAの幹部が集まって、トーナメント政策委員会を作っていたんです。私が毎月の会議で主張したのはトーナメント部門とインストラクター部門の分割で、それによって個々の事業プランを描くこと。ここには経理の分割案も含まれていました。
PGAは文部省認可(現文部科学省)の社団法人ですから、最終的に経理は一本です。しかし部門別の採算を明確にしないと、事業戦略が描けません。PGAには4000人の会員がいて、8割強がツアーとは違う世界で働いています。大半はインストラクターですけれど、部門を分けて専門化すればゴルフ場支配人やプロショップなど、彼らの職域を広げられる。つまり単にトーナメントの活性化ではなく、双方の充実が目的でした。
調整は難航しましたねえ。PGAの幹部は政策委の席上で「前向きに善処する」と言うんだけど、次回には白紙撤回です。そういったことが延々と繰り返され、痺れを切らして独立となった。
選手会をまとめていた倉本昌弘プロと島田幸作管理委員長(初代JGTO理事長)が独立派の急先鋒です。ある人からパーティーで「首謀者は大西だ、乗っ取りはけしからん!クーデターだ」と面罵されたものですが、これはとんでもない誤解ですよ。乗っ取るならもっと前にやれたはずだし(苦笑)、私の持論はPGA内部での分割であって、独立論者ではなかったんです。
改革派も急進派と穏健派に分かれていて、私は後者の立場だから、急進派に叩かれることもありましたよ。
同時に、GTPAとPGAの対立も深刻な状態になっていました。公式競技のスポンサーはGTPAに加盟して、トーナメント界全体の発展を話し合う。ところが、PGAは独自ルートの営業で未加盟スポンサーの大会枠を拡大するなど、2部リーグみたいなことをやり始めた。これでは全体の足並みが揃いません。
たとえば、試合ごとにテレビ局が違っても、前週の優勝者やこれまでの流れを解説すれば、視聴者の興味を喚起できる。スポンサー企業も他社の試合に協力して、ギャラリーに喜んでもらえます。その結果、トーナメントへの投資効果が高まるでしょ。GTPAはそういった役割を担っているし、だからPGAの独断専行は近視眼的に映ってしまう。
より本質的な問題を言えば、企業経営者のGTPAとツアープロ出身のPGA幹部は体質的にそりが合わない。いずれにせよ、あの状況での独立は避けて通れないものでした。
2000年にスタートしたJGTOは、改革の原資を「イーヤマツアー」の導入に求めた。ツアー全体の冠スポンサーに電子部品メーカーのイーヤマ(本社長野県)を迎えるというもので、欧州の「ボルボツアー」が先例だ。
契約期間は3年、金額は単年度5億円。同社の売り上げは当時739億円(99年3月期)で、その6割が海外市場だったから、会社の知名度や信頼感を高めるのに「日本ツアーのスポンサー」は魅力的と考えた。JGTOは2000年から始めた「ツアー選手権」に「イーヤマカップ」のタイトルを付け、全試合に「イーヤマツアー」を表記するなどを提案した。
が、既存スポンサーの反発は予想外の激しさを見せた。自社大会に「イーヤマ」を表記することへの抵抗感は各社に根強く、「大会ポスターに『イーヤマツアー』は付けない」など、足並みが乱れたのだ。
これにより、一連の制度を導入した大西氏は窮地に追い込まれる。JGTOはGTPA、プロゴルファー、有識者(各4名)などで理事会を構成したが、GTPA側の大西理事は直後の3月に職を辞すことになった。
月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年6月号「シリーズ温故知新」掲載
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