「昭和」ゴルフ市場を振り返る ミズノ元副社長 堂湯昇編(1)

[archives key="蔵出しインタビュー" order="200" previousWpId="" nextWpId="" body="GEWは、ゴルフメーカーを退職したOBを訪ね歩き、過去の市場の成り立ちを振り返る「シリーズ温故知新」を以前掲載した。今回は、2003年6月号から取り上げたミズノ元副社長の堂湯昇氏のシリーズを再掲する。
戦後すぐのスポーツ市場は「ゴルフをよく知らないスポーツ店主が多かった」など、まずは「ゴルフとは何か?」を説明することから始まっている。今、ゴルフ業界の糧となっているこの市場は、そんな先人の努力の上に成り立っている。語り部の話に、耳を傾けよう。"][/archives]
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昭和26年の春、私は福井県の敦賀高校を卒業して、すぐに美津濃(ミズノ)へ入社しました。終戦から6年が経っておりましたが、ひどい就職難だったことを覚えています。
ただ、私自身はさほど就職に苦労しませんでしたな。兄が美津濃に勤めていて、先生もそれを承知していた。「だから行ってこい」「そうですか」ってなもんでね、えらく簡単に決まりました。前年の9月に内定をもらって、田舎から大阪へ出て来たんです。
大海を見たい、その一心でしたよ。父親は三男坊の私を地元に置いときたかったようですが、どうしても行かせて下さいと。一生懸命頼みました。入社は3月15日、今でもよう覚えとります。
だけど、4月最初の日曜日、実家へ「もう、いやや」と泣き言をいったもんですよ。なんせ食料事情が悪かった。敦賀湾の新鮮な魚を食べ慣れた私にとって、社員寮の食事は耐え難く、都会と田舎の食料格差を痛感したものです。
福島区には新入社員の寮があって、50人ほどが寝起きする。麦飯と味噌汁と漬物に、おかずが一品・・・。半月で3キロぐらい痩せたもんですよ(苦笑)。仲間は田舎出の子供が大半だから、寮で酒飲んで語り合うとか、そんなことはありません。何よりも、飯でしたなぁ。
星は十倍、我まず二倍
美津濃は当時からスポーツ用品の日本一で、高いけど良品を作るイメージが強くてね。私も少年野球やってたので美津濃のグラブを使ってました。
初任給は7000円、これは中の下だったでしょう。戦後、国家復興に邁進していたあの頃は銀行、炭坑、繊維、証券などの会社の給料が良かったですな。スポーツ業界も上り調子で、国民の体力向上に貢献しよう、復興の一翼を担うんだと、そんな熱気に溢れてました。
当時の本社ビルは淀屋橋の8階建てで、現在は直営ショップの本店になっています。そこで月1回、創業者の利八社長が訓示をされる。「星は十倍、我まず二倍」……。自分で思う倍働けいうことですよ。
大変プライドの高い方で、天皇陛下への思いも強かった。進駐軍に占領されて、人間宣言をして国民を救って下さったと、そんな話をする時は必ず涙を流されて。国家国民ということについて、強い責任を感じておられた方でした。
大阪の本社勤務は150人ほど、全員で訓示を聞きましたよ。神田には東京支店もありましたが、これと大阪工場、養老工場を合わせても500人程度の会社でね、だからトップの思想が末端の隅々まで染みわたる。
国家観をもって貢献しろ、良品を作れ、プライドを持って仕事しろと、𠮟咤激励されたものです。家族的な会社でもありましたなぁ。
札束の厚みは30センチ
私が最初に配属されたのは、小売部の「外売東部」いうところで、御堂筋から東地区の会社や学校へ砲丸、槍、マットや跳び箱、ユニホームなんかを売ってました。
学校以外にも営業しましたが、企業は京阪電車が大きかったぐらいで、大半は中小零細です。野球大会やるからグラブ持って来い、バットはないか。企業にすれば、福利厚生の意味合いですな。
和気藷々とスポーツをやって、労働の活力に変えていく。地方出身者が多くてろくな遊びも知らんから、スポーツが大切な役割を担っていたわけです。
月に70〜80万、場合によっては100万円ほど売れましたね。聖母女学院というのがありましてね、ここは沢山買うてくれましたな。払いはいつも現金だから、帰りの札束は30センチほどの厚みになりましたよ(笑)。
カナダカップ優勝で一変
私がゴルフ部に移ったのは昭和32年の4月です。当時は本店の小売りが中心で、営業は松本儀一さん、修理は高木誠一さんが責任者でした。ゴルフ部員は総勢20人、昨日まで砲丸とか売ってたのがいきなりゴルフをやれ、という。最初はワケも分からなかったし、随分苦労したものですよ。
美津濃の創業は明治39年(1906年)だが、ゴルフ用品の扱いはウイルソンと代理店契約を結んだ昭和6年に始まっている。「新着御案内」という当時のカタログには『ライダーカップ』のアイアン78円、ウッド48円など。ボールは『スポルディングKroフライト』が1ダース14円50銭、『ダンロップ』が11円50銭とある。
「一九三一年の素晴らしいクラブと用品で御座いますので何卒品薄と相成り申さざる内に是非一度御一覧御用命の栄を賜り度く此段御案内申し上げます」と記述してある。
その後昭和8年に尼崎工場でクラブ製造を開始(国産1号商品・スターライン)したが、第2次世界大戦が勃発して翌年から「ゴルフ品製造販売禁止令」が公布され、開戦から8年間、クラブ製造の中断に追い込まれる。
養老工場はプロペラを製造、尼崎工場は戦火で焼失。終戦後クラブ製造を開始するが、鳩山内閣では「官僚ゴルフ禁止令」が出されてもいた。
当時の美津濃にとってゴルフ品は、微々たる売り上げに過ぎなかったし、相変わらずトレシャツ・トレパンが主力商品でした。
ゴルフ市場が飛躍的に伸びたのは、昭和32年のカナダカップ(現ワールドカップ)からですよ。当時「鍋底不況」ではありましたが、霞ヶ関CCで日本が個人・団体で優勝して注目された。敗戦国が、ゴルフで世界を制したことは、日本人に大きな喜びと自信を与えたものです。
ただ、それにしてもこの年のゴルフ売り上げは、全社の10%強じゃなかったかな。カナダカップ効果で養老の生産も伸びましたが、年間の生産量は1万8869本という記録が残ってます。今の時代と比べるとね、ビジネスというにはあまりに規模が小さかったですな。
ゴルフ専品部設立
この頃、美津濃のゴルフ部は小売りが中心で、卸はやってなかったんですよ。街にゴルフ専門店がないからやりようもない。うちの淀屋橋本店の3階に60坪ほどの売り場があって、自社で作ったクラブをそこで売っていた。つまり美津濃は、メーカーでもあり、ゴルフショップの老舗でもあったわけですな。
卸売りを本格化したのは「ゴルフ専品部」のスタートからで、昭和37年に体制ができました。ゴルフのメーカーとして「ショップに売ろう」となったわけです。
この時、お前が責任者になれと言われて部長付を拝命し、細々と卸売りが始まります。まあ、地方のお店がたまに買いに来る程度で、ダンロップのボールが1ダース6500円、ブリヂストンで3200円。今と大して変わりませんな。東京支店は翌年、大阪管轄で専品部を設置することになります。
今となれば、スポーツのジャンルによって「事業部」を分けてますが、専品制度は事業部制の走りなんですよ。利八社長が「ゴルフ、野球、シューズ、スキーはスポーツ発展のために力を入れる」と宣言して、市場育成を目指しました。専品部隊はその種目の製造、卸、小売り、広告を一貫してやるんだと。
このあと電器の松下が事業部制を導入したので、うちは他産業に先駆けての英断でした。
専品部の設置と前後して、同社のゴルフ事業は活発化する。イタリア、豪州へクラブを輸出したり、池田内閣の「所得倍増計画」や貿易自由化で外ブラ流入が本格化するなか、美津濃は大証二部に上場。
この時クラブ生産は月産約1万本へと達していた。ポリエステルヘッドの開発や、マダガスカルにクラブ輸出も始めている。1964年の東京五輪で近代化に弾みがつき、スポーツブームが到来した。
専品部になって力を入れたのが、「ゴルフ」そのものの啓蒙活動です。カナダカップの優勝で注目はされましたが、スポーツ市場全体で見ればゴルフなんか微々たる規模でしょ。
まして地方のスポーツ店は見向きもしなかったし、ゴルフビジネスの将来像を描く者もおりません。まぁ、一部の金持ちのスポーツ、社交という意識が大半だったし、そんな現実がね、スポーツ店主がゴルフを扱うのを躊躇させた。二の足を踏ませたわけですよ。
やっぱり地方の売り場は野球が中心で、店主は高校野球の出身者や地域のスポーツ関係者が多かった。こういった人達にどうやってゴルフを知らしめるか、これが最初の仕事だったし、なかなか大変なことでした。(つづく)