「昭和」ゴルフ市場を振り返る ミズノ元副社長 堂湯昇編(2)

「昭和」ゴルフ市場を振り返る ミズノ元副社長 堂湯昇編(2)
[archives key="蔵出しインタビュー" order="200" previousWpId="" nextWpId="" body="GEW2003年7月号に掲載した「シリーズ温故知新」の記事。ミズノの大番頭と呼ばれた元副社長・堂湯昇氏(故人)が昭和のゴルフ市場を振り返った。随所に、同社の書庫から引っ張り出した歴史的資料を挿入した価値ある追想記でもある。

初回の前回は、堂湯氏がミズノ入社からゴルフ事業の責任者に指名されたところまで。今回は「ゴルフとは何か?」を街のスポーツ店主に教える苦労から始まった、同社ゴルフ事業の草創期を主に語る。

当時の堂湯氏の発想と行動が、その後のゴルフ市場をつくっていくのだが、今はミズノ社内でも、そのことを知る人はほとんどいない。なお、数字、肩書等は当時のまま掲載する。"][/archives] [back_number key="200307"][/back_number]

ゴルフ専門店はなかった

前回触れましたが、美津濃のゴルフ事業は「専品部」(昭和37年設置)をきっかけに本腰を入れました。 それ以前は自社で作ったクラブを自社のショップで売るという自己完結の商いでしたが、国家復興の一助として新しいスポーツ文化を創造するんだと、そんな利八社長の号令でゴルフが重点種目に選ばれて、専品部の編成となったわけです。 私はゴルフの責任者として、スポーツ店巡りを始めました。当時はね、ゴルフ専門店なんかありませんよ。そこで大阪の担当者4~5人でめぼしい売り場に当たりをつけて、根気強く歩きました。 めぼしをつけたのは、売り場に余裕があって気候風土がゴルフに適してる地域。さらに進取の気性に富んでる店、というところやね。 東京支店は大阪の翌年、昭和38年に専品部ができましたが、まずは「西」で実績を作ろうやないかと。電車を乗り継ぎましてねえ、いま思えば本当に難儀なことでしたなあ。 九州と四国で各10店、東海地方が15店、山陽で10店ぐらいです。雪の多い北陸と山陰は合わせても5店舗ほどだから、全部で50店程度ですよ。皆さん、ゴルフクラブを見るのも触るのも初めてやから、不思議そうな顔をして、首をかしげながらいじってましたなぁ(笑)。

即席レッスン会

営業時間が終わってから、店主と膝詰めの商談が始まるんです。商談というか、ゴルフってのはこういったスポーツなんですよと。店の裏庭に簡易ネットを張りましてね、グリップはこうでアドレスやテークバックはこうするんやと。 こっちも褒められた腕前じゃありませんが、まあ、即席レッスンをやるわけです。 私が入社した昭和26年には既に美津濃本店(淀屋橋)のゴルフ売り場にスクールがあって、週2日、商社とかのお偉いさんが習いに来てた。石角武夫さん、上堅岩一さんというプロがおられて、24球で30円のレッスンだったんです。 そんなことがあったので、私らも見様見真似で覚えてる。これを店主にやったわけです。 夜中にああでもないこうでもないとやったもんですわ。それでね、興味を示してくれたのは若い店主が多かった。大半が二代目で、野球が強い学校で選手だったとか、地元のスポーツに影響のある人達です。彼らをまずはゴルファーに仕立て、そこから普及するんやと。そんな狙いもありましたねぇ。 静岡のコハマスポーツさんはゴルフが大好きで、スポーツ店とは別にゴルフ専門店を立ち上げました。熊本では、体育堂さんが前向きに取り組んでくれました。ぽつりぽつりと賛同者が現れて、徐々に「流通」の体を成してきた。 で、これを広げるために一計を案じたんですよ。ゴルフショップに宣伝部の人間を連れて行ってね、映写機で店内を撮影する。4~5店舗の映像を15分ほどに編集して、それを取引店を集めた展示会で上映したんですわ。 「こちらのお店ではこんなふうにやってます。皆さん、参考にして下さい」と。 大阪会場で400店、東京で250店ほど集まって、「ほう、そんなもんかいなあ」と。真剣な顔が並んでいたし、具体例を見ることでゴルフの商いはそんな感じかと、身近になったはずですよ。

堂湯氏が書いた心得

このとき強調したことは、ゴルフと一般スポーツの違いです。ゴルフは年齢層が高いから丁寧な応対が求められる。そのことを繰り返し繰り返し、粘り強く説明したもんです。 昭和37年4月1日、ゴルフ用品の物品税は第1種甲類1号の5割課税から、第2種甲類2号の4割課税へと減税された。しかし、スポーツ用品の中でもゴルフ用品は「金持ちのスポーツ」ということで、希有の高額課税だった。 ゴルフ場には「娯楽施設利用税」も課されていた。当時ゴルフ人口は200万人程度とされ、ゴルフ場数295、延べ入場者数が735万人程度だから、数字面でも数少ない「富裕層の娯楽」であったことがわかる。 同社が販売店向けに発行していた小冊子「美津濃卸部通信」(昭和38年3月1日号)には、堂湯氏が書いた次の一文が残っている。 「ゴルフはやはり、地についた知識がなくては効果ある販売は難しいものです。大抵のゴルファーは熱心にゴルフ場通いをされ、ゴルフクラブについても大変なウンチクを傾けます。 それに対していささかも動揺することなく正しい知識で対応しなければなりません。(中略)特にゴルフは一国一城の主が多いスポーツですから、お客様の自尊心を傷つけないよう注意しなければなりません」 接客の心構えを事細かく説くところに、当時の時代相が窺える。

6年で4倍の生産量

このようにね、まずは「ゴルフ」を店主に知らしめることから始めました。昭和30年代の後半は、そこに精力を費やして、その後昭和40年から大掛かりなマーケティングを始めます。 ひとつにはゴルフ品メーカー初のツアー競技「グランドモナーク大会」や、新人プロの登竜門「ミズノプロ新人」の開催です。 イベントによるゴルフの啓蒙は専品部の発想で、いずれも昭和40年にスタートした。特に「グランドモナーク」は、創業60周年の記念行事ということもあって、本社の8階で派手な前夜祭をしたもんですよ。 成果は上々でした。二代目の健次郎社長がスポニチの上層部と懇意だった関係で、毎日放送、毎日新聞の後援を頂いたんですね。これで露出度が高まって一気に弾みがついたんです。 今でこそ、プロ契約やイベントで物を売るのは当たり前ですけどね、多少の自負を交えて言えば、美津濃が「イベント販促」の草分けでした。 昭和43年には樋口久子プロと契約を交わしましたが、この年55万本を生産しています。流通戦略も功を奏して、昭和45年頃からですな、街中にゴルフ専門店が目立ち始めて、取り引き件数も伸びている。 この年は大阪万博が開かれたし、2年後には札幌オリンピックも控えていました。田中内閣の「日本列島改造論」が道路事情を向上させるなど、目に見えて近代化が進むわけですよ。 この手元の資料によると、第1次オイルショックの昭和48年には生産量が226万8600本になっとりますなぁ。僅か6年で4倍の生産量に膨れ上がったわけで、まぁ、物凄い成長を感じたし、天井知らずで伸びていった。

異業種の大型参入続々

昭和40年代に同社のゴルフ事業は躍進する。45年に「ミズノトーナメント」を立ち上げ、翌46年に100万本の大台を突破(133万本)、47年に大証一部へ上場し、この時契約プロは27名を数えている。 昭和49年にジョニー・ミラーと岡本綾子、50年には中嶋常幸と契約を交わした。相次ぐプロ契約は、異業種の大手企業参入が刺激になった面もある。 46年にマルマンとダイワ精工、47年にはブリヂストンがスポルディングとの合弁を解消してブリヂストンスポーツを立ち上げるなど、業界の様相が一変する。プロの争奪戦にも拍車が掛かり、美津濃は足場固めを急いでいた。 手元に昭和48年の資料があるんですが、これを見ると当時のシェアは1位ミズノ、2位マルマン、3位がダイワ、4位ダンロップ、5位にBSとなってますなぁ。うちのシェアは3割ぐらいだったと思うけど、最盛期は半分の5割を占めておりました。 それが4割3割と落ちるもんやから、心中穏やかじゃなかったですよ。 特にホンマさんは、いろんな意味で気になる存在だったですねぇ。プロ戦略が上手でしょ、だから上級者のロコミに定評があったし、うまいやり方するなあと。

王道は品質

ただ、あそこの価格政策には疑問を感じておりましたな。売値をいきなりど~んと下げるから、ゴルフクラブってのは定価からそんなに割引くのかと、ゴルファーが思うじゃないですか。業界全体の信用に関わるわけですよ。 上代もね、うちが5万円ならホンマさんは7万円。「ウチは踏み台にされとるなあ」とぼやいたもんですよ(笑)。 もうひとつ、マルマンさんも刺激的でした。刺激的というのは、あそこの「小売り優遇政策」ですよ。これだけ売ったら海外旅行に連れてきますと大盤振る舞いされていて、まあ、各社ともそれぞれ旗を振って、市場にアピールしとったわけです。 こっちも商売だから、「やり返せッ」という気分がないでもない。だけど「美津濃は王道を行く」という信念があって、それは品質への責任ですよ。 ある朝9時に浜松のお医者さんからクレームが入りましてね。私、その日の昼過ぎには代品を抱えて、ご自宅の玄関をノックしておりました。