「昭和」ゴルフ市場を振り返る ミズノ元副社長 堂湯昇編(3)

「昭和」ゴルフ市場を振り返る ミズノ元副社長 堂湯昇編(3)
[archives key="蔵出しインタビュー" order="200" previousWpId="" nextWpId="" body="GEWは、激動の昭和ゴルフ史を記録に残す「シリーズ温故知新」を掲載してきたが、今回は2003年8月号の記事をお届けする。ミズノ元副社長の堂湯昇氏を取材した3回目だ。

前回の2回目は、地域のスポーツ店主に「ゴルフとは何か?」を教える活動を紹介したが、今回はゴルフ市場が爆発的に伸びる中で、積極的なプロ契約や、異業種の参入、専門量販チェーンの二木ゴルフと取り引きを開始した秘話を含め、往時の激しい変転を振り返る。

ゴルフ用品市場は、それまでの牧歌的な様相から、一気に巨大市場へと歩み始めた。なお、文中の数字、企業名などは取材時のままであることを留意願いたい。"][/archives] [back_number key="200308"][/back_number] 昭和40年代半ばからは、いろんな会社がゴルフ市場に入ってきて、それこそ群雄割拠の様相を呈しました。特にホンマさん、マルマンさんは個性的な社長が旗を振って、「それ行けッ」てなもんですよ。だけどこっちは、まがりなりにも市場を開拓してきた自負がある。簡単には負けられんという気概がありましたなあ。 そこで、他社に負けないために一計を案じます。何かと言えば、販促予算の作り方です。ゴルフ事業がスポーツジャンル別の「専品制」、つまり事業部をベースにしていたことは前回も話しましたが、これをより明確にするものです。 ゴルフの場合は養老工場の出荷本数に対して小売り1000円、卸売りで700円の広告費をプールして、これを元に年間の販促予算を計上した。つまり、売れるほどゴルフ事業の販促予算が潤沢になるというわけです。 メーカーの宣伝はかなりの販促効果が期待できる。ゴルフ用品を宣伝することは、ゴルフそのものを宣伝することと同じです。異業種の参入が相次いで世間の注目が集まったことも相乗効果になったでしょうし、我々だけではなく、各社が積極的に宣伝しました。 国民の目がゴルフに向いてきたという実感はもの凄くありましたし、昭和48年頃はちょうどオイルショックでしたけど、この時ミズノの生産量は年間226万8000本で、ひとかどのビジネスになっていました。 48年といえばカーボン素材を使ったシャフト、色が黒いからブラックシャフトと呼んでましたが、『プラズマ』が印象深いですね。ウッドが4万9800円、アイアンが1本4万円、フルセットで47万円、これがむちゃくちゃ売れましてね、社内は俄然、沸き返ったものですよ。

ゴルフ場の開場ラッシュ

昭和48年は、ゴルフ産業にとって一大エポックの年に位置付けられる。この年にオープンしたゴルフ場は104コースで、前年の49コースを大幅に上回り、初の「年間100コース増」を達成した。延べゴルフ場入場者も3000万人の大台を突破、昨対17.6%増を記録している。 翌49年は更に拡大の足を速める。新規ゴルフ場154カ所、延べプレー人口3800万人台(13.9%増)、50年には166カ所が開場している。国内ゴルフ場数が1000カ所の大台を突破(1093カ所)したのもこの年だった。 時代の後押しを受けたミズノは51年に契約プロ51名を抱え、他社の追随を許さぬ地盤を造った。52年にはセベ・バレステロス、ナンシー・ロペス、ローラー・ボーなど世界のビッグネームと契約を交わし、看板プロの樋口久子が「全米女子プロ」を制覇したのも同年のことだった。 あの頃は、本当にビッグニュースに溢れていましたなぁ(笑)。特に樋口プロのメジャー制覇は小野・中村組のカナダカップ優勝に匹敵する大記録でしょ、ゴルフ場の開場ラッシュと相俟って象徴的な出来事でしたよ。 ただ、ゴルフ事業が安定して売り上げや利益を確保するようになったのは、昭和55年以降です。それまでは市場作りを急いだ時期だけに、やはり持ち出しというか、先行投資の部分も多かった。55年から平成5~6年までが、社業としても急速な成長を記録した時代です。

1本8万円のシャフト

この間、私自身が肝に銘じたのは、量の商売に走ることなく、品質や技術開発を疎かにするなということです。初代・利八社長の社是に「良品安価」がありましたが、良品とは何か、それはひとえに品質ですから、このことは物凄くこだわりましたね。 やはり商売だから「相手をやっつけろ」という競争心は当然ある。だけど物量が増えれば不良品の問題も発生する。その可能性が高まるから、浮かれず王道を歩むんだと、率先垂範したわけです。   苦情に対しては真っ先に私自身が動きました。ある朝9時に浜松のお医者さんからクレームが入った。私、直後に代品を抱えて、昼過ぎにはお客さんのご自宅へ到着しましたよ。そりゃ、先方さんも驚きますな(笑)。私が素早く動くことで、社内の意識を徹底させたつもりです。 ブラックシャフトに保険を付けたのもミズノが初めてなんですよ。あの頃アルディラ社の『アルダエイト』というシャフトを採用しましてね、飛ぶけど折れた。不良率はたしか1~1・2%じゃなかったかな。 何回もアメリカへ飛んでアルディラの幹部と話し合い、結局は保険で対応しようと。だから高い、1本8万円ぐらいで売りました。ミズノは品質で王道を行く、この意識はあらゆる細部に徹底したもんですよ。

アメ横に好印象はなかった

「王道」にかけるミズノの意識は流通面にも及んでいた。ひとつにはアメ横(上野御徒町)との取り引きに難色を示したことだ。それは、アメ横の大型店が戦後のPX(米軍基地内の売店)の横流れ品から発祥し、以降、あらゆる生活物資を大量に安く販売して、荒々しく勢力を伸ばしたこともある。 この地に創業した「二木の菓子」は昭和46年にゴルフ市場へ参入し、54年には系列初の郊外店(大宮店)を出店。58年には10号店を達成するなどチェーン展開に拍車を掛けたが、それでもミズノは静観して、安易に取り引きを始めなかった。 が、新興勢力の台頭は二木にとどまらない。マルマンゴルフは56年、記録的ヒットとなったメタルウッドの『ダンガン』を発売し、二木ゴルフをメインパートナーに販売攻勢を仕掛けてきた。 大量生産が可能なメタルウッドと、大量販売の専門チェーンは相性が良く、大量生産・大量販売を確立した。そのため、当時東京支店の責任者だった片山彰氏(元専務)は堂湯氏に対し、二木ゴルフとの口座を開くよう矢の催促を送ったという。 ミズノは大阪出身の企業やから、やっぱり西が強いんですよ。私がやっとった頃は東西のクラブ売り上げが4対6で西が強かったと思いますが、だから「東を攻める」という考えは、正直言えば強くなかった。関東でシェアを上げるんだと、そういった使命感はそれほど強くなかったんです。 あと、私自身、アメ横という商圏には好印象がなかったんですよ。ある出来事があって、それが何かは言えませんが、個人的には躊躇していました。東京はたしかに大きいんやけど、それより北の東北部はさして大きくないですよね。日本列島をきっちり東西で分けて戦略を考えることに、さして意味も感じなかったし………。

二木さんは「男やなぁ」

だけど、東のシェアを上げようと思ったら二木さんを避けて通るわけにはいきません。東京の片山君からも矢の催促を受けましてね、「まだですか! 早く決断して下さい」と(苦笑)。もう、毎日のように急かされて。 それでも躊躇していたのは、ミズノが二木さんと取り引きしたら専門店さんへの影響は半端やない。大袈裟ではなく、ミズノ製品のボイコットを予想したし、あの頃はそんな時代やったんです。 ただ、いつまでも返事を引き延ばせない。結局、東京でシェア取るには二木さんしかないとなりましてね、片山君に山の上ホテル(東京御茶ノ水)で食事をセッティングしてもらって、初めて二木社長(故一夫氏)とお会いしたんです。 こちらの考えは、ミズノにはミズノの立場がある、過激な売り方されたら困るという腹があったんですが、そんなことゴチャゴチャ言う必要はありませんでしたなぁ。多くは話さなかった。 初対面で椅子に座って、二言三言………、それで「分かりました」と手を握った。この人は「男やなぁ」と思いましたね。随分早く亡くなられて………、51歳だったですか? 本当に惜しい人物を亡くしましたし、業界にとっても大きな損失やと思ってます。 取り引きは58年の2月からですが、二木さんは当時からゴルフ市場にしっかり根付くことを意識されていた。心配だった専門店さんのボイコットもなく、二木さんとの取り引きで大型チェーンとの先鞭を付けたわけです。