「昭和」ゴルフ市場を振り返る ミズノ元副社長 堂湯昇編(4)

[archives key="蔵出しインタビュー" order="200" previousWpId="" nextWpId="" body="GEWの2003年9月号に掲載した「シリーズ温故知新」をウェブ記事として再掲する。ミズノ元副社長の堂湯昇氏が語る4回目。同社は戦後、国家復興をスポーツの面から担ってきたが、ゴルフを強化種目のひとつとして注力した。
当初は全国のスポーツ店に「ゴルフとは何か?」を説明・教育しながら市場育成を図ったが、ゴルフ量販店の全国展開を目指す二木ゴルフとの取引を皮切りに、売り上げが急速に伸びていく。
同時に、メーカーの異業種参入と大型量販店の参入で、競争が激化。ゴルフ市場は一気に戦国時代に突入した。そのあたりの様子を、裏話を交えて堂湯氏が語ったもの。なお、文中の数字、社名、取引関係の状況などは取材当時のままであることを留意願いたい。"][/archives]
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急成長は二木との取り引きで始まった
量販店さんの登場がゴルフビジネスの景色を変えた、今もそんな印象が強く残っておるんですよ。先鞭を付けたのは二木ゴルフさんで、昭和58年の2月に取り引きが始まりました。
一言でいえばオッ!という驚きでしたな。なんせ取引金額が半端じゃない。具体的な額は言えませんが、一般の専門店さんとは桁が違ったわけですよ。
それだけではありません。二木さんは年間の供給計画をきっちり提示されてくる。仮に数億としましょうか、すると何月にこの商品をこれだけ欲しい、次に中押しでこれをいくら、何月にはあの商品でつなげましょうと………、実に緻密でダイナミックなんですよ。
二木さん以前にこういったやり方はなかったし、だからミズノにもきっちり供給する義務が発生する。いい加減と言っちゃ語弊がありますが、生半可な気持ちじゃ対応できんわけですよ。
多少の自負を交えて言えばですね、当時ミズノは商品力が強かったしブランド力もありました。ミズノを置いてあることで、二木さんの信用力やショップとしてのブランドが高まった効果もあるでしょう。つまり小売りとメーカーの相乗効果です。値段もきちんと適正を守って、相互理解が深まりました。
ミズノはこれをきっかけに、量販店との取り引きを加速します。二木さんと取り引きを始めた4カ月後、58年の6月にはアルペンさん、翌年の7月にヴィクトリアさんとも始まった。
アルペンさんとはスキーを巡る駆け引きというか、スキー用品の販売力は半端じゃない。一方、ミズノのスキーは強くない。だから我々はスキーを売って欲しい、逆にあちらさんはミズノのゴルフが欲しい。そんなやり取りで取り引きが深まりました。
シントミゴルフさんとは平成4年の11月に契約して、実際に商品が並んだのは12月からです。他社と比べて遅かったのは、シントミさんの経営方針が大きかった。
というのも、あそこは自社ブランドの商品を積極的に販売して、ナショナルブランドには前向きじゃないという姿勢があったからです。それでなかなか取り引きに至らなかったわけですよ。
まあ、今では大半の量販店さんとお付き合いがありますが、例外的にはつるやゴルフさん、こことは未だにご縁がありません。
カーボンヘッドでヤマハと競う
いずれにせよ、二木さんと始まった頃はゴルフ事業部の隆盛期でしたね。前年の57年にはカーボンヘッドの『ヴァンガード』を発売しました。カーボンヘッドはゴルフ市場に参入したばかりのヤマハさんと我々が、どっちが早く発売するかで競い合った商品ですが、これが爆発的に売れました。
この年、ミズノの販売本数は230万本で、前年比40万本も増えましてね、今となれば信じられん伸び率ですよ。ゴルフ市場が急拡大して、量販チェーンとの取り引きで一気に増えた。そう考えれば両者の取り引きには必然性があったと思いますね。
昭和50年代の後半は、第二次異業種参入が相次いだ。代表的なのがヤマハ、ヨネックス、横浜ゴムで、これらは一様にカーボンヘッドの新規性で消費者への訴求を目論んだ。
これにより大手企業の資本力を背景にした大量宣伝が勃発して、大量生産・大量販売も加速する。こういった市場の近代化を支えたのが量販店グループの存在だった。
二木ゴルフはミズノと契約を結んだ58年に10店舗を構えていたが、61年に20店舗、63年に30店舗、平成3年に40店舗、翌4年には50店舗まで拡大した。当初「アメ横との取り引きに躊躇していた」(前号詳述)ミズノはしかし、量販店との連携を急速に強めていった。
これは第一次異業種参入(マルマン、ダイワ精工、ブリヂストンスポーツ等)の企業群と、第二次異業種参入の企業群が激しく衝突した結果でもある。好景気と大量宣伝が社会の世間の注目を集め、ゴルフ人口を拡大し、昭和が幕を閉じる63年には、ゴルフクラブの世帯間普及率が31.7%に達していた。
2週間の催事で4・5億売った
昭和60年代の熱気が如何に凄いものだったか、これを物語る材料には事欠きません。
例えば名古屋の松坂屋さんです。「中日クラウンズ」「東海クラシック」という地元の大きな大会があるときは、強烈な売り出しをやるわけです。61年の「クラウンズフェア」は2週間で4億5000万円も売りましたよ。
これ、ミズノだけの実績です。ウチだけの商品でそれだけ売れたということは、トータルの売り上げはもっといく。フェアに合わせてオリジナルクラブ(ゴールドノバ等)も作りましたし、松坂屋さんの仕入れ責任者で西脇さん(友彦氏、元松坂屋常務)という豪快な方もおりましてなぁ。
西脇さんとウチの養老工場(岐阜県)で落ち合って一緒に倉庫に入っていく。在庫をざあっと調べてね、よしっ、今度の売り出しはこれで行こうってなもんですよ。数億円のビジネスが瞬時に決まる。その代わり「売り出しはミズノ中心でやってくれなきゃ困りますよ」と、しっかり条件を付けましたがね(笑)。
その後スーパーの台頭もありました。ニチイさんやダイエー系のパシフィックスポーツさんが中心だったですが、こちらへの商品供給は、ゴルフ専門店に出す商品とは別のブランドで対応しました。
ミズノはそれこそ、物凄い数の商標を持っとるでしょ、そのリストをバンッと出して「こん中から好きなの選んでください」と。社内に特販部というのを設置して、今はチェーンストア事業部という名前やけど、完全な縦割りで対応しました。
こういった流通別のブランドを合わせると、かなりの数になりましたが、特に混乱はありませんでしたな。
ただし、スーパーとの関係は長くは続きませんでしたよ。最盛期でも売り上げの1割に届かなかったし、売れなきゃ引き上げるのがスーパーでしょ。そもそも長続きする関係じゃなかったんです。
メーカーと小売りの力が逆転
同じことは百貨店にも言えますな。デパートはいわゆる百貨です。なんでも置いてある。売れるとなれば力が入るし、売れなくなると縮小する。大阪はミナミで心斎橋の大丸さん、キタは阪急イングスさんという両巨頭がおられたわけですが、今ではゴルフの停滞が否めませんな。
その意味で専門店、ここはゴルフだけで飯を食う、ゴルフが唯一の生命線だけに、メーカーとしても共存共栄の本陣と見るわけです。専門店がなければ業界は立ち行かない、本来はそんな役割を担っているはずなんです。
あのぉ、このあたりで一度、きちんと総括する必要があるかもしれませんなぁ。単独系の専門店と、チェーンの専門量販店の役割を、我々メーカーはどう考えたか……、この点についてです。
今、専門店が弱体化してますが、ひとつには量販店との比較において、専門店はそれほど強くなかった、そんな印象があるんです。
小売市場全体の動きで象徴的なのは、ダイエーの売り上げが三越を抜いた頃から大規模小売りチェーンが強大になって、スポーツの世界もどんどん食われ始めた。公正取引委員会が「再販価格の維持はいかん」と物凄く強く言い始めて、流通における競争がどんどん活発になったんです。
つまり、メーカーと小売りの力関係が目に見えて変わってきた。
メーカーの数が増えて競争が激しくなれば、我々も売り上げと利益の確保に走らざるを得ませんね。専門店としっかりやらなきゃいかんと思いながら、数字が欲しいから量販店にも供給する。そういった流れで、いつしか専門店に来るお客さんは道具にこだわる自営業者、量販店のお客さんはサラリーマンという形が出来上がって、大衆が量販店を支持したわけです。
ただね、量販店が強すぎるとバランスが悪くなるじゃないですか。ですから我々も、専門店支援を試みました。一例が『マスターズ』という商品です。これを専門店用のブランドとして量販店には卸さない、だからしっかり売ってくださいと、宣伝も沢山しましたよ。
だけど結果的に失敗したのは、期待したほど量が伸びなかったからですよ。なんぼ知恵を絞っていい物作っても、量が出なけりゃ続きません。専門店の在り方に、多少首をかしげました。
概して専門店は、底が浅い。言う意味は、財力的に問題ある、あかんかったらすぐにやめてしまう。根強いファンを持たれていたグリーンウェイの保国さん(隆氏、故人)も、一時は工房に特化しました。小売りの大資本化に着いて行けんから、あの道に入らざるを得なかったわけです。
もちろんプライドを持って努力してる専門店も多いです。だけど一方では、努力が足らんお店があるのも事実でしょう。