[archives key="蔵出しインタビュー" order="200" previousWpId="" nextWpId="" body="前回に続き70~80年代のゴルフ用品市場を振り返る。創刊500号を迎えた「GEW」2019年10月号に掲載した記事を、ウェブ用に再掲するもの。知られざる業界の歩みを回顧する。なお文中の社名、役職、数字などは取材時のまま。"][/archives]
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列島改造論とバブルの萌芽
第一次ゴルフブームの到来は1957年。「第5回カナダカップ」(現ワールドカップ・霞ヶ関CC)で中村寅吉・小野光一組が個人(中村)と団体で優勝したのが発火点だ。日本人がスポーツで欧米の選手を負かすのは痛快事。以後、ゴルフ人気は急上昇する。
そのあたりの様子は、日本ゴルフ場経営者協会の資料に明らかだ。
カナダカップ優勝年のゴルフ場数は116、延べ入場者は193万3000人に過ぎなかったが、2年後には160コース、333万5000人となり、1000万人の大台突破は1964年、さらに1970年には2000万人に達している。
以後、オイルショックや田中内閣の「日本列島改造論」(地方と首都圏を高速道路網で結ぶ近代化政策・1972年6月〜)など、国内経済は派手な浮沈を繰り返しながらゴルフ場建設に拍車がかかる。
「改造論」は地方と都市の格差是正を目指す一方で、高速道路網の広がりによって二束三文だった地方の土地が高騰。その後、80年代半ばに本格化するバブル景気の伏線となるわけだが、本誌創刊の1978年は景気の乱高下が激しい時代だった。
この年、青木功が「世界マッチプレー」に勝って年間獲得賞金6000万円超の新記録を樹立。その前年には樋口久子が「全米女子プロ」を制して「チャコ・ブーム」を巻き起こしている。1978年のゴルフ場数は1371、入場者は4787万7000人で、翌年5000万人の大台を突破した。
大手企業の参入ラッシュ
70年代はゴルフ用品産業の潮目が大きく変わった時期でもある。それ以前は先述の「国内御三家」(マツダ、アリガ、銀座ゴルフ)から枝分かれした零細企業が点在し、関西では森田ゴルフなどの老舗から独立した者が多く、それぞれが地域の需要をまかなっていた。
ところが、70年代に入ると大手資本が陸続と参入して市場の風景が一変する。
マルマン(71年6月・現マジェスティゴルフ)、ダイワ精工(71年12月・現グローブライド)、アルペン(72年7月)、ヴィクトリア(72年10月)、ブリヂストン(同)、ゼビオ(73年7月)、藤倉ゴム工業(73年7月)などが代表的だ。
ちなみに国産第1号のゴルフクラブはミズノが1933年に製造した『スターライン』と言われており、1930年には極東ダンロップ(現住友ゴム工業)がゴルフボールを自社生産。その4年後にブリヂストンタイヤもボール製造に踏み切るなど、いずれも戦前にゴルフ事業を立ち上げている。
ところが、戦争がはじまると工場が接収されて軍需工場になり、ゴルフ事業の中断を迫られた。戦後も日本のゴルフ産業は復興せず、「舶来御三家」(ウイルソン、スポルディング、マグレガー)の隆盛期がしばらく続いた。国内メーカーの台頭は、70年代まで待たねばならなかった。
70年代に大型企業が参入したのは、ブリヂストンのこんな構想に代表される。同社は1971年1月に「脱タイヤ」の長期構想として1)住宅、2)海洋、3)スポーツ・レジャー、4)自動車関連部品に進出することを宣言した。
「スポーツ」はスポルディングを傘下に収める米クエスター社との折半出資(資本金3億円)で、1972年10月にブリヂストン・スポルディング社を立ち上げたが、その5年後にブリヂストンが全株式を買収して、ブリヂストンスポーツが誕生している。
同時期に「太平洋クラブ・マスターズ」が国内初の1億円大会(72年)を開催。このとき優勝したゲイ・ブリューワーは「ブラックシャフト」(カーボンシャフト)を使って注目を集めた。
ジャック・ニクラウスの「ダンロップフェニックス」(74年)参戦も話題となるなど、ゴルフ市場での出来事はことごとく大手企業の参入意欲を刺激した。事業の多角化と「ゴルフ」との相性は抜群に良かった。
『ダンガン』で市場が一変した
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DANGAN[/caption]
70年代のゴルフクラブは、柿材のパーシモンウッドとシンプルな鍛造アイアンが中心だった。マジェスティゴルフの杉山健三最高顧問は、マルマンがゴルフ市場へ参入したときの様子を知る数少ない職人の一人で、往時をこう振り返る。
「当時はマグレガーのウッドをコピーするように削ってましたよ。最高の素材は北米ミシシッピー川流域産の柿材で、参入後しばらくはパーシモンの時代が続いたんです。『いいカオを作れッ』て怒られて、必死に削ったもんですよ。
それが一変したのはメタルヘッドの『ダンガン』です。一気に市場が変わりました」
マルマンがステンレス製のメタルウッド『ダンガン』を発売したのは1981年だ。正式発売は82年という説もあるが、同社は81年に銀座ゴルフ商会で『ダンガン』を試験発売しているため、本誌では81年を『ダンガン』の発売年とする。
この製品が市場に与えた衝撃は、超弩級だった。
それ以前、ゴルファーはクラブの「カオ」(流麗な木目と形状)と打音を重視しており、金属音を発する『ダンガン』は懐疑的に見られていたが、物珍しさと「理論武装」、さらには大量宣伝が加わって予想外のヒットを飛ばす。
当初は月間5000本の販売目標だったが、発売直後に1万5000本に引き上げた。翌年には推定10億円の広告費を投じて「SPSS理論」を提唱。これはフェース面の6対4の位置にスイートスポットを統一するもので、ゴルフクラブの優劣を理論で競う「理論武装」の先駆けとなった。
それ以前、ゴルフクラブは「いいカオ」という工芸品的な要素が重視されたが、『ダンガン』以降は様々な開発理論を謳う「工業製品」へと一変した。
この成功に同業他社は大いに慌てる。なぜなら当時は、ヘッド素材の柿材を大量に在庫するメーカーが多く、その代表格が「クラブは工芸品」を主張する本間ゴルフだった。
本間敬啓社長はメタルを「おもちゃ」と中傷して、マルマンの片山豊社長と激しい舌戦をメディアで繰り広げる。GEWの古い誌面にもその「舌戦」は刻まれており、いずれ機会があれば紹介しよう。
メタルが普及すると大量の「柿在庫」が残り、経営悪化を招いてしまう。これを解決するためにパーシモンヘッドにメタルフェースを装着したり、柿材の中身をくり抜く「中空パーシモン」に異素材を充填するなど、苦肉の作も現れている。(つづく)