日本のゴルフ界とクラブ市場の歩みを総括する(3)

日本のゴルフ界とクラブ市場の歩みを総括する(3)
[archives key="蔵出しインタビュー" order="200" previousWpId="" nextWpId="" body="前回は1981年、マルマンが発売したメタルウッド『ダンガン』の衝撃を振り返った。創刊500号を迎えたGEW2019年10月号に掲載した記事を、ウェブ用に再掲する。なお文中の社名、役職、数字等は取材時のまま。"][/archives] [back_number key="201910"][/back_number]

二木ゴルフの出店ラッシュ

当時、国内最大手のクラブメーカーだったミズノは、メタル・ブームに乗り遅れた。そのため急遽、米国からメタルウッドの『クリーブランド・クラシック』を年間5万本輸入する突貫作業に追い込まれている。 メタルウッドの好調は、同時期に硬いツーピースボールが登場して「糸巻きボール」の需要を一部奪ったことも一因だった。硬いボールを打つとパーシモンヘッドに傷がつくため、メタルウッドとツーピースは相互補完するように市場での認知度を高めていった。 同時に、『ダンガン』のヒットは専門店にも影響を及ぼしていく。それまでの「舶来御三家」中心の品揃えから、売場の意識が国内メーカーに向き、国産ブランド台頭のきっかけになった。 それ以上に大きかったのは、ゴルフクラブが手工業品から大量生産が可能な工業製品に脱皮したことで、受け皿として専門店のチェーン化に拍車がかかった。当時マルマンのクラブ職人だった杉山健三最高顧問が振り返る。 「パーシモンを削っているとね、たまに虫食いが出るんですよ。最高の素材で、いい仕上がりだなあと思っていても、アレが出るとがっかりする。それでひと回り小さなスプーンに削り直したり、廉価品に格下げするわけですが、メタルは均一に作れるので大量生産に最適でした」 好況とプレー人口の急拡大も「出店ラッシュ」の背景にある。1985年のゴルフ場数は1496、入場者は6815万9000人に膨らんでいた。 その兆しを敏感に察知した二木ゴルフは「脱アメ横」を掲げて郊外進出に本腰を入れる。1979年の大宮店を皮切りに83年に10号店、3年後に20号店となり、40号店に達したのは91年。大量生産・大量販売の幕が開き、メタルウッドも快調に売れた。

ヨネックスがJGAを訴えた

当時最大手のミズノはメタルの波に乗り遅れたが、それには理由があった。同社はこの時期、カーボンウッドの商品化に注力していたからだ。金属音のメタルよりもパーシモンに近いフルカーボンのヘッドに可能性を見出し、こちらを優先していたのだ。 この時期、虎視眈々とゴルフ市場への参入を狙っていたヤマハもカーボンウッドを研究していた。ヤマハは『ダンガン』のブームと同じ82年に『フォーカス』と『EX』を発売して、初年度20億円を売り上げたが、この成功には同社のスキー、テニスラケットのカーボン技術が貢献している。 ヤマハとのカーボンウッド開発競争に躍起だったミズノも『ヴァンガード』を投入して、これも成功を収めている。単一商品としては、同社の販売記録を塗り替えた。 さらに釣り竿で世界一のダイワ精工、ラケットのヨネックスもカーボン技術で追随し、80年代前半のクラブ市場は素材革新に沸き返った。ウッド市場は一時、メタルとカーボンが対峙する形で二分されることになる。 ところがその後、業界はひとつの「事件」に釘付けになる。ヨネックスがJGA(日本ゴルフ協会)を東京地裁に訴えた、前代未聞の「カーボンアイアン騒動」がそれである。顛末を簡単に振り返ろう。 1985年4月、JGAはヨネックスとダイワ精工が発売したカーボンアイアンに対して「金属主体のヘッドに異素材を使った物は規則違反」との指摘をした。同年10月1日に指摘内容を一部撤回し、ヨネックスの『カーボンアイアンB型』のみ適合としたが「ただしJGA主催競技では使用禁止」との条件を付けた。 その理由は「不適合のA型と適合のB型は見分けが困難」というものだったが、これに激怒したのが米山稔会長で、本誌の取材に怒りを爆発させている。 「冗談じゃあない。こっちは命賭けでやってんだよ。区別が困難とか、そんないい加減なことで禁止されちゃ堪らない。絶対に退かない、徹底的に戦いますよッ」 それで東京地裁に訴えた。前代未聞のことであり、ゴルフ界に君臨するJGAが肝を冷やした瞬間だった。敗訴すれば、莫大な損害賠償が請求されるからである。 結果はJGAが折れる形で「和解」となり、翌86年2月以降「公式競技」での使用を認めた。先行発売した「A型」は返品・回収等で莫大な損失を被ったが、ヨネックスは損害賠償を見送っている。GEW2001年10月号で、米山宏作社長が当時の心境を振り返っている。 「JGAを訴えたのはウチが初めてでしょう。あの頃ゴルフ事業の売上は8億円しかないのに、ヘッド交換等で12億円以上費やした。違反ヘッド(A型)を指摘されてから3か月で97%回収して、適合のB型に切り替えたんです。 そりゃもう、全社挙げて必死でしたよ。倒産の噂も流されましてね。ヨネックスブランドの威信を賭けて、ゴルフ市場から逃げなかった。 逃げたら負けだし、ラケット事業にも影響が出る。それで翌期は倍以上売って、翌々期は60億に手が届くまで成長したんだ。意地ですよ」 余談だが、この件を境にJGAは、ゴルフ規則とゴルフクラブの構造について慎重な姿勢をとるようになる。後年、ヘッドの反発性能に制限を設ける「高反発規制」が市場を賑わしたが、このときJGAは「使用禁止」の通達ではなく、「不使用の推奨」という表現を使っている。 ヨネックスがJGAに突きつけた刃は、それを知る関係者はほとんどいなくなったが、余韻として確実に残っている。(つづく)