日本のゴルフ界とクラブ市場を総括する(4)

日本のゴルフ界とクラブ市場を総括する(4)
[archives key="蔵出しインタビュー" order="200" previousWpId="" nextWpId="" body="前回は、ヨネックスがJGA(日本ゴルフ協会)を訴えた前代未聞の「カーボンアイアン騒動」までを振り返った。バブル景気に向かう80年代半ばの市場は、メタルウッドとカーボンウッドが激しく鎬を削る「素材競争」に明け暮れていた。

カーボンウッドはその後、退潮する。台湾製の低価格なカーボンウッドが量産され、硬いツーピースボールを打つとフェース面が白く剥離してしまう。それが不人気となった一因だった。

今回はチタンウッドの登場期を振り返ろう。なお、文中の企業名、数字、その他は取材時のまま。"][/archives] [back_number key="201910"][/back_number] [surfing_other_article id=77564][/surfing_other_article]

バブル頂点で高額チタンウッド続々

メタルウッドに続く二度目の素材革新は、1990年3月、チタンウッドの『ミズノプロTi』の発売が皮切りだった。 ミズノは「世界初」の触れ込みでチタンドライバー投入し、価格は1本18万円。同時期にマルマンから分離したジョイの『チタニウム604』(15万円)やタカギセイコーの『コンビート』(18万円)が続き、同年の秋口にはほぼ全社がチタンウッドを取り揃えた。 最高額は同年9月発売の『チタニックスウッド』(25万円)で、これはアシックスの製品だった。この時期は大半のスポーツメーカーがゴルフクラブを展開し、スポーツ衣料中心のデサントやゴールドウインも参入していた。 このような雪崩れ込みを支えたのは、金属メーカーの協力が大きい。チタンヘッドの製造元は三井造船、川崎製鉄、三菱マテリアル、大同特殊鋼、これに神戸製鋼も加わったが、このとき金属メーカーはチタンを巡る大競争時代に突入していた。

バブル景気のクラブ市場

当時の世相を振り返ると、1985年に中嶋常幸が国内初の1億円突破で賞金王に輝いている。その2年後に岡本綾子が米女子ツアーの賞金女王となり、1989年には尾崎将司が2年連続1億円突破で賞金王を連取。チタンウッドが登場した1990年は、小金井CCの会員権が4億円を超えている。 時代の熱に乗った『ミズノプロTi』は当初、年間5000本の計画だったが、結果的に3万本を達成。ゴルフ事業単独で600億円を視野に入れるミズノは、リゾート開発の「MARV構想」を打ち出して、ゴルフ場経営にも意欲を見せた。 同社が「21世紀5000億円企業」を掲げたのもこの時期だった。バブルピークの1990年、ゴルフ場数は1818、入場者は1億人の大台(9519万3000人)に迫っていた。 諸説あるが、バブル景気の終焉は1991年3月とされる。ただし、入場者は翌年の1億232万5000人(ゴルフ場数2028)が頂点となる。進行中のゴルフ場開発は止められず、その後も数を増やしていった。

ソ連の崩壊がチタンウッド価格に影響

その反面、チタンウッドの価格は急激に下降する。1992年には7万8000円が主戦場となり、俗に「ナナハチ戦争」と呼ばれていた。 先鞭をつけたのはシントミゴルフだ。同社はこの年3月に『リミテッドカスタムチタン』(7万8000円)を発売し、以後、各社がこれに追随した。同年10月にダイワ精工が『アドバイサー・プロチタン』、翌春にミズノが『ビッグディパーチタン』を同額で発売。 当初『コンダクターLGチタン』で7万8000円を表明していたマルマンは、発売直前に6万8000円とし、7月には5万8000円の『コンダクター』と『タイタス』を上市、各社の値下げ合戦は熾烈だった。 高級チタンウッドは登場から、わずか2~3年で6~8割も値を下げる。その背景には特別な事情があった。 1991年12月、世界をビッグニュースが駆け巡った。「ソ連崩壊」がそれである。ソ連はチタンの主要原産国で、崩壊以前は戦闘機や原子力潜水艦の部品として高値で取引されていた。崩壊は米ソの冷戦終結につながり、チタンは軍需物資からの民需転換が急がれた。 価格も1㎏1万円台から4000円程度に落ち込み、その受け皿として日本の商社がゴルフクラブに目を着けた。マルマンが発売した5万8000円のチタンウッドは米国ポートランド産と言われたが、ここは軍需工場の集積地。 ちなみに、日本でのチタン需要は日用品で眼鏡フレームぐらいしかなく、1個200g程度を使用するチタンヘッドは格好の商材だった。 93 年4月号の本誌調査記事によれば、 18 社 37 モデルのチタンウッドが国内で売られていた。(つづく)