昭和を残して、名伯楽の「妻」は逝った

昭和を残して、名伯楽の「妻」は逝った
この記事は弊誌月刊ゴルフ用品界(GEW)2019年10月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 月刊ゴルフ用品界についてはこちら

中村道子さん「お別れの会」に「昭和の妻」を思う

奥ゆかしく、たくましく生きた「昭和の妻」が逝った。中村道子さん、と聞いて、何人が、この名を思い起こすことが出来るだろう。 マラソンの瀬古利彦さんや故・佐々木七恵さん、ほかにも幾多の優秀な長距離・マラソン選手を世界に送り出した指導者、中村清さんの妻だった。中村さんは、早稲田、エスビー食品などの監督として知られた名伯楽だった。1985年5月25日、趣味の渓流釣りに出掛けた新潟県・魚野川で、増水した流れに飲み込まれ、71歳で世を去った。 あれから34年。歳月は流れ、妻道子さんの存在も、多くの人たちの視界から遠ざかっていた。その道子さんが、今年の7月1日、ひっそりと亡くなっていた。享年94歳、天寿を全うされたのだった。それから2カ月後の9月1日「中村道子さんお別れの会」が、東京・銀座で催された。早稲田のOBを中心に、「中村学校」で学んだ者たち、およそ100名が参列して、別れを惜しんだ。監督存命の頃、親しくしていただいた私にも声がかかり、出席した。 道子さんは、決してしゃしゃり出ることはなく、常に後ろから旦那様を支えることに人生を捧げた人だった。私は勝手に「昭和の妻」と呼んでいた。監督は、戦時中、早稲田を出ると「鬼も恐れる」と言われた陸軍の憲兵隊長となった人。戦後、早稲田、実業団の指導者として陸上界に復帰したが、厳しさはかなりのものだった。しかし、一方で、優しさを併せ持つ人情家としての一面も知られている。厳しさ、激しさと、対極にある優しさ、動と静を秘めた人である。 ――激しさと動。かつて、東京・東伏見にあった早稲田のグラウンド。並ばせた部員たちを前に、監督が口を開く。「強くなるために土を食えと言われたら、君たちは食うか? 僕は食う」と言うや、地面の土をすくい、口一杯にほおばった監督を見たことがある。 ――優しさと静。ある日、東京・千駄ケ谷の自宅を訪ねると、監督はくつろいでいた。監督はバラを愛する人だった。家の外壁に伸び、茂ったバラの葉陰から、突然、褐色の青年がヌッと顔を出してニコッと笑った。「日本に中村清あり」の紹介をたよりに、遠く、ケニアからやって来たダグラス・ワキウリ君だった。当時20歳。「なあに、バラに付く虫をダグラスに獲ってもらっていたんだ」と、監督はほほ笑んだ。 ダグラス君は、監督宅近くのアパートに住み、食事や日常の生活でサポートを受けるうちに、監督夫婦を「お父さん、お母さん」と、日本語で呼ぶようになった。彼は、監督の死去後の88年ソウル五輪、男子マラソンで銀メダリストになった。ちなみに、ソウルは監督が生まれた地だった。

瀬古さんと練り上げた弔事

早稲田時代から結婚までを監督宅で過ごした「最愛の弟子」瀬古さんは、道子さんを「本当のお母さんでした。毎日、毎日、食事を作り、僕を息子のように育ててくれました」と、偲ぶ。 監督の葬儀を前に、亡骸を挟んで、私と瀬古さんは、道子さんと向き合った。「あなたが、監督との思い出をつづり、それを瀬古が朗読したら、主人は喜んで天国に旅立てます」と、道子さんは言った。その夜、瀬古さんと弔辞を練り上げたのを思い出す。 戦地から引き揚げたばかりのころ、監督は、東京・荻窪駅近くで、露天商を営み、細々と暮らしていた。戦中に最初の妻を亡くし、幼子を2人抱えた監督のもとへ「何も来なくてもよかったのに、来てくれた」のが道子さんだった。「むしろにミカン箱を置き、本数売りの煙草を紙で巻き、カストリ焼酎など、雑貨を売っていた。妻は、一生懸命働いて僕を支えてくれた。頭が下がるよ」。 苦しい家計の中、中村さんが陸上界への復帰を目指して早稲田の学生たちの面倒を見始めると、道子さんは旦那様の情熱が我がことのように嬉しかったのだという。「学生たちに食わせながら、妻が三度三度の食事を満足にしているのを見たことがなかったなぁ」と、監督が話したのを思い出す。 後年、事業が軌道に乗り、生活が安定してからも、陸上愛に燃え、教え子たちの指導に没頭する監督を支え続けた道子さんだった。 私はかつて、監督が、まだ若き瀬古選手らを教えていたころ「指導力の条件 見つける 育てる 生かす」(二見書房刊)と題した本を書いたことがある。著者名は中村清で、監督の教えを、私が1冊にまとめたものである。懐かしくなって読み返してみた。すると、こんな一節が見つかった。 「私には娘が4人おります。みんな嫁に行きましたが、『お母さん、あいかわらずお父さんは、選手のことでいっぱいね。私たちに、あんなにやさしい言葉をかけてくれたことなんか、ないわね』と、言っておるそうです。娘たちは、家庭においても、選手というものが、最上の待遇を受け、私の愛情をより受ける、ということを、子供のころから見て育っておりますから、不平不満を申しません」 そんな父親でもあったが、道子さんは、不平を言うどころか、若者に情熱を燃やす旦那様が好きだった。昭和は遠くなったが「昭和の妻」は生き続けた。ほほ笑む遺影を見ながら、私も「ありがとう」とつぶやいたのである。