この記事は弊誌月刊ゴルフ用品界(GEW)2019年11月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。
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古希も近づいた老記者が、バレエ発表会の客席に座る。はじめ、居心地がいいかと問われたら苦笑するしかなかったはずだ。だが、私はいつしか鑑賞に没頭したのだった。9月の終わりの日曜日、独り千葉県の松戸市文化会館・森のホールに足を運んだ。この地を本拠に、星川舞さんが主宰する「スターバレエアカデミー」が催した発表会である。
メーンの出し物は「The Fairy Doll」。河野和洋、由利子夫妻の誘いは、胸に響く「訴え」にも似て、私は腰を上げたのだった。
簡単に言えば、寝静まった夜に、おもちゃの人形たちが踊りだすストーリー。おもちゃ屋の留守番役の少年を演じたのは小学6年生の河野球人君。客としてやって来るロシアの富豪商人は河野和洋、その妻は河野由利子。河野家がそろって、それぞれに重い役回りを演じたのである。
球人君は幼くしてバレエを始め、既に米・ニューヨークで行われた世界大会のコンクールに出場した未完の大器である。由利子はアカデミーでキャリアを積む。では、和洋は何者か―。
この日、ロシアの商人は大きな身体、ひげ面で舞台に異彩を放った。河野和洋、45歳。

1992年8月16日、夏の甲子園。河野和洋は17歳だった。背番号8を着けながら、高校野球の名門、明徳義塾高(高知)の実質エース。2回戦で対したのは石川・星稜高校。ともに優勝候補と目された好カードだった。そして、星稜の主砲は松井秀喜。プロ野球の巨人、メジャーリーグのヤンキースなどで通算507本塁打を放ち、国民栄誉賞にも名を刻む、若き日のゴジラである。
あの日、甲子園で起きたドラマは「事件」として今に語り継がれる。ベンチからの指示で、河野が松井に投じたのは20球。全て外角へ大きく外れるボール球だった。馬渕史郎監督による敬遠策だった。明徳は勝ち、ゴジラが1度もバットを振ることのなかった星稜は甲子園を後にした。ともに3年生、最後の夏だった。
甲子園には怒号が飛び、スタンドからはメガホンが投げ入れられた。「勝利至上主義か、高校野球らしさか」。この5敬遠は社会問題化したのだった。
翌年、松井は巨人軍のユニホームに袖を通し、河野は東都大学リーグの専修大学へと進んだ。ポジションは外野手だった。以後、社会人野球のヤマハー専修大学のコーチを経て、活躍の舞台をメジャーリーグに求めて渡米した。独立リーグでプレーしたが、メジャーへの夢はかなわなかった。帰国して国内のクラブチームでプレーを続け、千葉県の熱血MAKINGでは監督兼四番打者として活躍、40歳を過ぎて、埼玉県の全三郷でもバットを握った。
馬淵監督からの「花束」
この間、国内で河野の背中に躍っていた背番号は「55」である。野球通なら分かるだろう。「55」こそ、プロへ進んだ松井秀喜が背負っていた背番号であり、代名詞でもある。私は河野に問うたことがある。「なぜ、55なのだ?」。彼は答えた。「あの夏をいつまでも引きずっていたら野球は出来ない。前向きにとらえて、潔く55で行くことに決めたのです」。
40過ぎまで現役選手を続けた河野を支えたもの、それは「夢」である。「いつか、アマ野球の指導者に戻りたい」思いがあったのだ。夢を支え続けてくれたのが妻・由利子だ。
米国独立リーグの修業時代、放送局のディレクター、記者のかたわら、現地に留学していた彼女と河野は結ばれた。やがて誕生したのが一粒だねの球人君である。「きゅうと」と読ませる。お気づきの方はいるだろうか。河野の「野」から続けて読めば「野球人」である。もっとも、息子は幼くしてバレエに目覚め、その道を歩く。それは、それでいい。
日本には、一度プロのユニホームを着た者が指導者としてアマ球界に復帰するには関門がある。アマ側が用意した資格回復のための講習会の受講などがあるが、河野の場合は、そもそも事情が違った。
日本のプロ、メジャーリーグなどには門戸が開かれているが、米独立リーグ所属経験のある人は最近まで宙ぶらりんのまま、蚊帳の外に置かれていたのである。それが、やっと認められたのは昨年から。暮れに一連の審査を終えて、長年待たされたアマ資格を回復した。
そして今、河野和洋は、千葉県にある帝京平成大学でコーチ(現監督)の職を得た。「今は毎日、ユニホームを着て学生たちと過ごす日々が幸せです」と言う。
この夏、活躍の幅を広げて、球人君は舞台俳優としてもデビューした。一枚の写真がある。数年前、テレビ局の企画で松井ゴジラと河野は対面を果たした。その時、松井が球人君の肩に手を置きほほ笑む姿である。勝つために四球攻めを命じた明徳・馬淵監督の気持ちが今の河野には分かる。球人君の俳優デビューの日、楽屋には馬淵監督からの花束が届いた。
今、充実の日々を迎えて、河野和洋、元気いっぱいである。支えてくれた家族を「こんな僕でもよかったら舞台に立つ。今度は僕が支える番だ」。そんな思いがこもった発表会である。やがて、老記者から気恥ずかしさは消えうせ、バレエのファンと化していた。