この記事は弊誌月刊ゴルフ用品界(GEW)2019年12月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。
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ピンクのシャツと黒い礼服
最近、正確に言えば、6月12日から、古稀に近い僕が、時々、明るいピンクのストライプのシャツを着るようになった。はじめ、気恥ずかしくもあったが、これが意外と受けた(つもり)。
それにしても、今さらながら驚く。この派手なピンクのストライプを、4月24日、80歳で没した小出義雄さんは、何の違和感もなく、つい最近まで着こなしていたのだ。
千葉県佐倉市の遺族宅を訪ねたのは、四十九日に当たる6月12日。かつて、この地方の豪農だった小出家は広大な敷地を誇り、周りに木々の緑、バラの花が美しかった。妻の啓子さん、長女の由子さん、次女の正子さんとひとしきり話すと、啓子さんが言った。
「よかったら着てくれませんか。お父さんも喜びますから」と、持ち出してきたのが、ピンクのシャツだった。その場で私が着用すると3人が言った。「お似合いですよ」。背丈は私の方が高いから袖丈は短い。だが、二つ折りにすると違和感がない。胸回りはそれほど違わなかったのだろう、ピッタリだった。その日から、形見のピンクのシャツは、私の宝になった。
水をよく飲む馬とオバQ
小出さんは、女子マラソンの指導者。92年バルセロナ五輪で有森裕子に銀メダル、96年アトランタ五輪で再び有森に銅メダル、つづく2000年シドニー五輪で高橋尚子に悲願の金メダルを獲らせた名伯楽だった。世界選手権では、97年アテネ大会金メダリスト鈴木博美、03年パリ大会銅メダリストの千葉真子も教え子である。他の国際マラソン、トラック長距離種目の一流選手を挙げたら枚挙にいとまがない。
小出さんは、会う度に、よく話した。「もう一度、オリンピックでメダルが欲しいなあ」「世界選手権のメダルも欲しい」と、遠くを見つめるように言った。
高橋尚子(Qちゃん)と、有森裕子でオリンピック女子マラソンの金・銀・銅メダルを揃えた、世界的にも希有な名伯楽が、実は、心残りにしていたものがあった。
それは、世界選手権女子マラソンの銀メダルである。鈴木と千葉で金・銅は得たが、銀メダルだけが空位だったのだ。「教え子に、オリンピックの金・銀・銅、世界選手権の金・銀・銅を獲らせたら、文句あんめえよ。ね!」と、笑い飛ばしながら、実はどこか、寂しそうな目をしていた。そして時々、ふともらした。「でも、もう先は長くねえかもよ・・・」。
ひげ面、豪放にして磊落(らいらく)。飲んべえのイメージを残して小出さんは逝った。だが、小出さんの、うんと近くにいた人なら、これら豪快な様は、一面に過ぎなかったことを知っている。
私と小出さんの付き合いは30年以上に及んだ。だから知っている。ひげ面、飲んべえの内面にあった、繊細、緻密な計算、細かな気配り、これらに裏打ちされた、卓越した人を見抜く力を。鈴木博美は天才型だったが、有森裕子も高橋尚子も「駄馬だったなぁ」と、小出さんが話したことがある。
知る人ぞ知る。有森もQちゃんも、実は「押しかけ」入門だった。大学卒業を前に「頑張りますから、お願いします。教えてださい」と、幾度も小出さんのもとに参じたのだった。情熱に突き動かされた小出さんは、彼女らの面倒を見ることになるが、徐々に2人の才能を見抜いていく。
「有森は、よく水を飲む馬だった」と、小出さんが話したことがある。腹いっぱいで喉の渇いていない馬は、川辺に連れて行っても水を飲まない。だが、お腹が空き、喉も渇いている馬は、ゴクゴク水を飲むという。「有森は、何もかも吸収したがっていたんだよ。僕の指導に食らい付いてきたね」。
高橋尚子は一芝居を打って、小出さんの目を自分に向かせようとした。やっと入門を許された春、新入社員歓迎会が催された。座が盛り上がると、彼女は奇抜な格好で全員の前に現れる。全身にアルミホイルを巻き付け「オバケのQ太郎」を歌い、踊り始めたのである。この夜一番の盛り上がりとなり、高橋尚子はその日から、我々が知るQちゃんになった。小出さんは、Qちゃんの「ここ一番」にかける情熱、集中力を見逃さなかった。
後はご存じの通りである。2人は世界のトップランナーへと羽ばたいて行った。
黒い礼服と私の思い
小出さんが亡くなったのは4月24日。ほぼ1カ月前の3月末、私はセンバツ高校野球の長期取材のため甲子園にいた。その私のもとに、小出さんが率いる佐倉アスリート俱楽部のコーチから「危篤」の報がもたらされた。
続けて、長女の由子さんから「どうぞ、顔でも見せてあげてください」のメールが入った。甲子園入り直前に、佐倉のクラブハウスで、長時間、小出さんと一対一で話した。「未来を志向して、夢を持て」と、小出さんは持論を繰り返した。それからわずかのうちの急変が信じられなかった。
私はすぐに、東京の自宅に電話して、礼服をクリーニングに出すように頼んだ。仕上がりは2日後だと、妻が言った。この直後、長女の由子さんから「少し持ち直しました」と、連絡が入った。自宅にその旨電話すると、妻は言った。「礼服を受け取りに行くのはやめました。受け取らない限り、小出さんは生きているでしょ」というのだった。
センバツの決勝戦まで見届け、帰京した私も、考えは同じだった。クリーニング屋にワケを話すと「いいですよ。いつまでもお預かりします」と、快く応じてくれた。だから、私の礼服は1カ月近く、クリーニング屋に吊されていた。
* * *
黒い礼服は再びクローゼットの奥に引っ込んだ。時々身に着けるピンクのストライプが僕はお気に入りである。