コロナが五輪の肥大化に引導を渡した! グローバル化とコロナとスポーツ界
10年ほど前、私が中京大学の学長を務めていた頃の話です。全国学長会議のテーマに「グローバリゼーション」が多く設定されました。ビジネス界からの要請と大学側の戦略が合致したのでしょう。そんなことはあり得ない、と思ったことをよく覚えています。
要するに「グローバリゼーション」には、国境を無くしてビジネスをしやすくしよう、という資本主義の本旨が透けてみえたのです。
国境を無くすことには賛成です。人為的に設けた国境が如何なるものかは中近東、アジアの国々を見ればわかります。むしろ、然るべき民族共通の文化で国境を設けていれば、今日の世界で見られる紛争はもっと少なくなったはずです。
その意味で、私はグローバル化には賛成です。しかし、ビジネス界の言うグローバル化はこうした意味ではありません。
金を儲けることが、人間の心を如何に荒んだものとするか、民族を引き裂くか、は十分にわかっていることです。拝金的資本主義がグローバル化することで、民族固有の文化が迫害を受けることになることが、私には納得できません。
今回のコロナ禍は、こうした資本主義の弊害を白日の下に晒したようです。金がすべての社会システムは何かおかしいと気づき目覚めつつある今、世界は新しい社会形態を模索する動きになるに違いありません。
遅れて資本主義を実行し、金が全てとばかり、金で心を買う国があります。その国が尊敬されることはありませんし、ほとんどの人間は住みたいとは思いません。そうした国は、古い価値観で行ける、と思ったのでしょうが、そのやり方はすでに周回遅れとなったことが、このコロナ禍で一層明確となったのです。
古いアマの概念は綺麗ごと
さて、スポーツ界に長く関わる私の目には、2020東京オリ・パラが資本主義グローバリゼーションと重なって見えてきます。1984年のロサンゼルスオリンピックが、それまでの大赤字のオリンピックを一転して黒字としたことが大きな転機であり、ビジネスと結びつくオリンピックが今日のオリンピックの姿といえます。
しかし、世界のスポーツをリードしてきたオリンピックに今回のコロナ禍が引導を渡しました。
この種のスポーツ大会は、東南アジアではSEA GAMES(South Asia Games:東南アジア競技大会)が一番人気と思います。オリンピックの東南アジア版です。
1985年にタイ文部省に派遣された私は当時、その盛り上がりにびっくりしました。アジア諸国はオリンピックのレベルが高すぎ、自国選手が箸にも棒にもならない、というのが本音でしょう。勝てないオリンピックには興味がない。隣の高校生が出る甲子園大会のほうが、人気があるのと同じです。
一方ではゴルフ、サッカーなど、今日では人気の高いスポーツが単独で世界大会を開催し人気を博しています。オリンピックのように綺麗ごとを言わないプロの大会です。古いアマの概念で始まり、今ではプロの参加を認めたオリンピックは、中途半端なスポーツ大会となりました。
スポーツはアマが一番!これは幻想です。体育として発展した日本のスポーツは、その在り方を考え直す時期でもあります。プロアマ問わず、我々は至高のプレイが見たいのです。
来年の東京開催は難しい
スポーツがグローバル化することは止められません。スポーツはビッグビジネス中のビッグビジネスですが、運営にあたる者は金が全ての世界であることを覚悟しなければなりません。
そのうえで、アスリートに適切な報酬を支払い、如何に公平に運営するか、開催の理念と実行者の手腕が問われます。
2020東京オリ・パラの1年延期での開催は、難しいと思います。今回のコロナを封じ込めたとしても、第二波、第三波の流行があることは、100年前のスペイン風邪でのパンデミックを例にとるまでもありません。この種のウイルス感染が収まるには数年かかるというのが常識です。東国原氏がいう、2024年の開催が妥当でしょう。
また、そもそも、東京で7月、8月の開催は問題が多すぎました。延期のついでに秋の開催にすべきです。アスリートはもっと声を上げた方が良いですよ、主役はあなた方ですから。