ワンガリ・マータイさん
1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開かれた地球サミットに私は読売新聞の取材団長として参加しました。リオは海辺の観光地で、過ごしやすい所でした。音楽の「イパネマの娘」が創られたと言われる居酒屋に毎日のように通いました。セルベッサ(ビール)がうまく、地元の人に囲まれてとても楽しかった思い出があります。
そこでケニアのワンガリ・マータイさんにお会いしました。約束の時間を一時間も遅れて現れたマータイさんは大きな体を揺らしながら、汗をふきふき、アフリカでの植林の話をしてくれたのです。
彼女はその後、2004年にノーベル平和賞を受賞し、翌05年には京都議定書のため来日しました。その時、日本語の「もったいない」という言葉に感激し「MOTTAINAI」をスローガンにした運動を始めます。今では「MOTTAINAI」は世界共通語になっています。
彼女はこの「もったいない」という言葉には、資源に対する尊敬が含まれている、と語っています。「もったいない」という言葉は、ワンガリ・マータイさんが指摘するまでもなく日本社会では古くから根付いていました。その一例として江戸の町の人々の生活ぶりを紹介しましょう。
徹底したリサイクル

江戸時代は約260年続きましたが、その間、大きな戦争もなく人々は穏やかに暮らしていました。鎖国ということで海外からの物資も制限されており、小さな島国で約3000万人が日本で生産される物資だけで生活、文化を守っていたのです。
江戸の町は1750年ごろに人口130万といわれ、同時期のロンドン90万人、パリ60万人より大きな都市でした。上水道は完備、下水は必要がありませんでした。ゴミのほとんどは自然に返し、特に糞尿は下肥として利用されていたのです。このため海も川も澄んでいて、隅田川では白魚がとれるほどでした。
江戸の町には、野性的な森から二次自然まで様々な緑空間が存在していました。1830年代には緑地が43%を占めており、大きな土地を占有する大名屋敷や千を超える寺社などが豊かな都市林を形成していたのです。

このように、江戸は見事なまでのエコ・タウンでした。それを支えていたのが徹底したリサイクル・システムです。資源が乏しいので何でも大事に使いこなしていたのです。
紙は文字を書いた後、漉き返しを三回ほど行い、次いで紙障子や唐紙の継ぎ足しに、最後は火付けに使われ、残った灰はあく抜きに使われていきました。「灰屋」という仕事もありました。

くず拾い、古着屋などリサイクル商売がたくさんあって、古着の場合、江戸の町人が着古した着物は地方に売られ、最後は雑巾などに活用される、というリサイクルの輪が大変大きなビジネスとして成り立っていました。質屋、古着市などが盛んで、地方に売られていく古着の売買店は1841年で江戸に四軒ありましたが、一万両以上の商いがあったといいます。
そのほかキセルを取替える「羅宇(らう)屋」、鍋釜の修理の「鋳掛(いかけ)屋」「雪駄直し」「桶屋」「提灯張り替え」など多くのリサイクル業者が活動していました。
教育先進都市

一方、江戸期の日本の識字率は世界一でした。手習い、寺子屋、塾が発達し、江戸での就学率は70から86%と非常に高く、同時期のロンドンは20から25%、パリは1・4%程度でした。
一般庶民の教育はすべて民間が独自に行っていた。寺子屋は全国で1万6000、江戸に1500ありました。特に女性の師匠が多く、全体の35%という数字が残っています。そのほか藩校があり、日本中でさまざまな教育システムができ上っていたのです。当時としては世界に類を見ない教育先進国でした。この教育システムがあったからこそ明治期に欧米の文明を吸収できたのだとも言われています。
学問としては、和算が当時世界の最高水準にあり、思想や歴史研究も盛んで、文芸、絵画など発達していました。封建的な身分制度が厳しく、飢饉や自然災害にも苦しめられはしましたが、全般的に平和で豊かなくらしを長い間、維持していたと言えるでしょう。
江戸時代は人口の変化が少なく、土地も四つの島に限られ、生産物にも限界がありました。しかし、自然と調和し、全国にまんべんなく人間が張り付き、創意工夫を凝らして木工技術や植林技術、さらには文化芸術に至るまでかなり高度な文化を作りだしています。
これはまさに環境問題でいう「クローズド・サークル(閉じられた世界)」の実験です。江戸期の日本人は、このクローズド・サークルの中で理想的なエコ生活をしていたのです。
振り返って現在の世界を見ると、私たちは地球というクローズド・サークルに住んでおり、江戸時代と同じ条件にいることが分かります。
江戸期の、素朴で秩序ある生活ぶりを思い出し、現代の高度に発達した科学技術と江戸の知恵を巧みに組み合わせることができれば、日本は環境問題で世界をリードする存在になるのではないでしょうか。
「諸国山川掟」(しょこくさんせんおきて)

1666年、江戸幕府が発令した山林保護の規則。木の根の掘取りや焼畑を禁止し、木が生育していない山には植林を命じるなど、山地の取り締まりを厳格にした。
戦国時代を経て江戸初期には各地で復興建築が盛んになり、山林が大幅に伐採され、災害が多発した。岡山藩の学者・熊沢蕃山が自国で制度化し、これが成功したことから後に幕府が採用したと言われる。我が国の自然保護政策の原点ともいえる。
この記事は弊誌月刊ゴルフ・エコノミック・ワールド(GEW)2021年12月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。
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