連載SDGs 第28回 生物多様性

連載SDGs 第28回 生物多様性

多様性とは

多様性という言葉はすごく幅が広いですね。一般的に、様々なものが混在する、といった感じで受け取られているのではないでしょうか。そして様々なことが混在することは、良いことだ、という印象があるようです。 古くは真田十勇士(古すぎる?)のように、色々な特技を持つ者が集まって協力すると、大きなパワーとなって爆発するというような状況を示唆します。野球でも、長距離バッターだけでは勝てません。バントも必要だし、打率の高い選手も欲しいですね。ゴルフだって様々なギアがあります。 多様性という言葉は古くから使われていたのですが、1980年代になって、生物多様性という言葉が現れてまた別の要素が加わりました。 ところが、この生物多様性という語句はなかなか馴染みにくい。英語のbiological diversity, biodiversityを直訳してきたので、日本語としてはどこか違和感があります。そのため「生き物のにぎわい」などと表現する人も現れました。

アメリカでの経験

[caption id="attachment_79158" align="aligncenter" width="548"] ワシントン大学で影響を受けた報告書[/caption] 私は1983年から1年半、アメリカのワシントン州シアトルにあるワシントン大学に派遣されました。勤務先の新聞社から大学院留学を命じられたのです。研究課題はアメリカにおける公害対策でした。当時は光化学スモッグなどがあり、アメリカでの研究が進んでいたからです。野球のマリナーズは、イチローが参加するずっと前で、負けてばかりいたころです。 研究を進めていくうちに、公害対策全般では日本の方が進んでいて、アメリカではむしろ自然保護の方が盛んだ、ということに気が付いたので、研究テーマ変えて、アメリカにおける自然保護対策にしたところ、biological diversityという言葉に出合いました。 はじめは良く理解できませんでした。先住民族や黒人が住んでいる地域の環境破壊や公害を放っておいてパンダの方が大事だというような主張に思えて、反発する気持ちの方が強かったことを覚えています。 しかし、担当教授からthe council on environmental Quality(環境の質向上委員会)という団体の50ページほどの報告書を読むように勧められて読み始めたところ、目からうろこが落ちるように彼らの主張することが分かるようになりました。

緑の炎

[caption id="attachment_79159" align="aligncenter" width="562"] カイバブ高原
出典https://i.pinimg.com/originals/3d/a1/14/3da114a53baece1e846dc035af6a33c7.jpg
[/caption] アメリカやヨーロッパでは人間と自然は別のものだという意識が強いのですが、これに対し、環境問題が深刻になってくるとともに「人間は自然の一部もしくは地球の一員」という考えが広まってきました。 この報告書では、これまで人間がいかに自然を搾取してきたか、また近代文明の行き過ぎが自分たちの住む地球をどれだけ壊しているか、など人間の行き過ぎを指摘していました。「自然と人間の関係」について私は担当教授と議論を重ね、東洋では古くから一体化しているが、西洋では自然と人間は別のものだ、という考えが強い、ということをお互いに了解しました。 「人間は自然の一部である」という考え方を科学者として初めてアメリカ社会に主張したのはA・レオポルドという森林学者でした。 レオポルドはイエール大学で森林学を学び、後に政府の森林官となりましたが、アリゾナ州のカイバブ高原でオオカミ退治をしていた時に大きな衝撃を受けます。 当時カイバブ高原でオオカミを退治すれば鹿が増える、と考えて大規模なオオカミ退治を始めたのです。ある時、レオポルドは子連れのオオカミを撃ちました。近くによってオオカミの顔をのぞいた時、オオカミの目が燃えるような緑色に光り、そしてオオカミは死んでいきました。 レオポルドはオオカミの最後の目の光を見た瞬間、自分は何か間違っているのではないか、と感じたと書いています。 後にウイスコンシン大学に移り、ゲーム・マネイジメント(狩猟管理学)という講座を開きました。そして『SAND COUNTY ALMANAC』(日本語訳・野生のうたが聞こえる・講談社学術文庫)という本を出版し、その中でレオポルドは「人間は大きな自然の営みの中の一部である」と主張したのです。その原点は、死にゆくオオカミの目に光った緑の炎でした。

生物多様性条約

欧米にこうした自然観の変化が広まると同時に、1980年代から環境倫理が盛んになり、環境哲学、環境思想といった分野が研究対象となりました。 生物多様性に対する考え方も、こうした研究にあと押しされて国際政治の場に登場してきたわけです。1992年、リオデジャネイロで開かれた第一回環境サミットで、温暖化と生物多様性の条約ができました。 この星には人間だけが住んでいるわけではない、そして、多様な生きものが混在しているからこそ人間も恩恵を受け、生きていかれるのだ、ということを改めて考える時期に来ているのは間違いないでしょう。

生物の多様性に関する条約

1992年5月ナイロビで採択され、1992年6月に地球サミット(国連環境開発会議)で157か国が署名。1993年12月、条約発効。現在、締約国数は194。 生物多様性条約は、特定の地域・種の保全の取組だけでは生物多様性の保全は図れないとして、保全のための包括的な枠組みとして提案された。この間、遺伝資源から得られる利益の配分について、各国は自国の天然資源に主権的権利を有することが認められ、利益配分に関する第3の目的が組み込まれた。一方、遺伝資源利用先進国である米国は、自国のバイオテクノロジー産業に影響を及ぼすものとして条約を締結していない。
この記事は弊誌月刊ゴルフ・エコノミック・ワールド(GEW)2023年8月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 月刊ゴルフ・エコノミック・ワールドについてはこちら