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    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた大西久光氏の「シリーズ温故知新」をウェブ用に再編集したものです。 <hr /> <i>大西久光氏がゴルフ産業史を振り返る15話目は、この連載の最終回となる。高度経済成長期の大量物質主義を反省し、今、求められるゴルフの価値を思想的に語る。「宮里藍はジャンボを超えた」と断言し、その根拠を示すことでゴルフ界の在り方を示したもの。「ゴルフ産業を創った男」の最終章を--。</i> 父・優さんが藍ちゃんに教えたこと 先月号で私は、ゴルフと日本人のモラルについて述べました。一連の企業事件を引き合いにして、その原因は何か、ゴルフの精神が日本人の道徳回帰に役立てないかにも言及しました。連載の最後を迎えるにあたり、この点を詳しく話したいと思います。 今、宮里藍さんが国民的なヒロインになっているのは、そのプレーぶりやインタビューの受け答えで礼節を印象づけるからでしょう。日本人の失った美点を体現していることが、人々の共感を呼ぶのだと思います。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/09/miyazato1.jpg" alt="" width="635" height="476" class="aligncenter size-full wp-image-48597" /> これは、ご両親から授かった教育の賜物でしょうね。以前、父親の優さんと朝日新聞で対談したとき、宮里家の教育方針についてこんなことを話されていました。中学生の頃は、年間300冊の本を読みなさい。弁論大会にも参加しなさい。そして、ゴルフは生活のすべてではなく、一部だと考えなさい‥‥。子供達の教育に際して、これらを徹底したそうです。 このような教育方針の背景には、優さん自身の過酷な苦労があったと推察します。沖縄の村長選で落選して、経済的にもかなり困窮された。生きる希望を失った時期もあるそうで、それでも子供達にゴルフをやらせたのです。 以前、藍ちゃんは子供のファンから「プロゴルファーになるにはどうすればよいのですか?」と尋ねられて、こう答えていました。「ゴルフばかりしてたら駄目ですよ。学校の勉強や読書など、ゴルフ以外のことが大切です」 これは本当に至言ですね。父親の苦労を身近に感じて、その教えをしっかりと受け継いでいる。上手ければ偉い、という日本のジュニア界の悪習とは、まさに対極の姿勢です。 <h2>ニクラウスの哲学「完全自己管理」</h2> 実は、タイガー・ウッズも「ゴルフは人生の一部でしかない」ということを言っています。ゴルフの神髄を究めてなお、それは「一部」だと断言する。同じことはゴルフ界の偉大な哲人であるジャック・ニクラウスの言葉にも表われています。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/09/jack.jpg" alt="ジャック・ニクラウス" width="500" height="513" class="aligncenter size-full wp-image-48398" /> <i>2005年の全英オープンでメジャーからの勇退を表明したジャック・ニクラウスは、メジャー通算18勝(歴代1位、マスターズ6勝、全米オープン4勝、全英オープン3勝、全米プロ5勝)を記録したほか、米ツアー通算73勝(2位)、連続予選通過105試合(3位)、賞金王8度(1位)の偉業を遂げている。</i> ゴルフは自然を相手に自分だけを信じて戦う競技なので、崩れたら歯止めなく乱れてしまいます。そんな世界で数々の金字塔を打ち立てたニクラウスの哲学は「完全自己管理」というもので、私はこれこそがゴルフの神髄だと思います。 幼少期における人格形成には父親の影響が大きかったそうですが、これはウッズも同じことで、母親が仏教徒、父親はベトナム戦争に従軍したなど、独特の世界観を持つ家庭で育てられました。名門スタンフォード大では「文武両道」の学生として表彰されたし、高いインテリジェンスも備えている。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/09/jack2.jpg" alt="ジャック・ニクラウス夫妻" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-48600" /> ニクラウスにもいえますが、強いだけではスーパースターになれないのです。 <h2>もっと「上質なゴルファー」を!</h2> 現代におけるアスリートの「社会的な役割」を考えると、その面で宮里さんは全盛期のジャンボや青木プロを超えていると思いますよ。私がそう思うのは、時代背景の違いがあるからです。 かつて、大衆はスポーツヒーローに圧倒的な強さを求めていました。その強さが奢りになって、不遜な態度をとったとしても、個性として認められました。ところが、現代はまったく違います。強さの裏側に「人格」が求められ、それが大衆を魅了するのです。 このことは高度経済成長からバブル経済にいたる過程、さらにはポストバブルの近年に共通する価値観の変化と無縁ではありません。 たとえば物不足の時代、人は物質を求めてきました。ところが物余りの現代では、目に見えない価値が大切になりますよね。自然の恵み、つまり太陽光や空気、水資源などを貨幣価値に換算すると4000兆円にもなるといわれますが、これらを当たり前として過ごすのではなく、きちんと自覚して「ありがたい」と思うのが感謝の念です。 ヒトは万物に生かされている。ゴルフの神髄である「完全自己責任」や「自然への畏怖・尊敬」は、まさしく物質主義の対極にある思想です。強ければどんな振る舞いをしても許される、もはやそんな時代は終わりを告げたのです。 かつてゴルフ業界は量を求め、私もその一翼を担ってきました。ジャンボが牽引者の一人として存在した市場構造が代表的です。だけどこれからは「質」が求められ、「上質」の体現者として藍ちゃんの存在が位置づけられる。ジャンボを超えたというのはその意味で、彼女の方がゴルフの神髄により近づいていると思えてなりません。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/09/ozaki.jpg" alt="尾崎将司とABCゴルフクラブにて" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-48601" /> だから私は、無理やりゴルフ人口を増やさなくていいと思っているんですよ。無理に増やそうとしても、ゴルフの健全な発展とはリンクしないと考えるからです。 それでも産業規模は保てるはずです。三角形の底辺を広げて面積を増やすのが従来のやり方とすれば、これからは頂点を引き上げて面積を増やす方向ですね。ウッズの登場でプロの契約金が上がったように、藍ちゃんの登場で一般ゴルファーのモラルが向上する。上質なゴルファーを増やすことが、結局は産業の発展にもつながるのです。 このようなビジョンで構想を組み立てれば、ゴルフ市場の活性化は「日本の活性化」にもつながるという大義を得られるでしょう。私はそう信じます。 単にゴルフ業界のためではなく、政治課題につながる重要な施策のひとつだと。ゴルフ界で過ごしてきた欲目でいうのではなく、それだけの価値を「ゴルフ」はもっているはず。将来のゴルフ界を支える若者には、大きな視野で物事を捉えて頂きたいですね。 そのことを最後に申し上げて、この連載を終わりたいと思います。長い間、ありがとうございました。 <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年09月10日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた大西久光氏の「シリーズ温故知新」をウェブ用に再編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> <i>1995年1月17日、大西久光氏は兵庫県西宮市の自宅で阪神淡路大震災に被災した。そこから復興に至るまでの過程を振り返り、併せて日本人と企業経営、モラルの問題を深掘りする。</i> 毎週火曜日掲載 阪神淡路大震災の衝撃 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/09/o1.jpg" alt="阪神淡路大震災" width="800" height="533" class="aligncenter size-full wp-image-48386" /> 1995年1月17日。あの日のことを私は生涯忘れません。阪神淡路大震災の発生です。私自身、西宮の自宅で被災しましたが、亡くなられた方には心よりご冥福をお祈り申し上げます。 私は震災当時、住友ゴム工業の常務を務めておりましたが、あの災禍は会社にも深刻な打撃を与えました。神戸の本社工場が全壊し、ここにはボール工場が一極集中していたため、すべての生産活動が止まってしまったのです。 当日は常務会が予定されていたので、自宅から会社へ急行しましたが、会議などできるはずもありません。頻々と情報が入るにつれ、事態の深刻さに愕然としたものです。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/09/o2.jpg" alt="阪神淡路大震災" width="800" height="533" class="aligncenter size-full wp-image-48388" /> 不幸中の幸いは、タイヤの白河工場(福島県)に倉庫が新築されていたことです。そのスペースにボールの生産設備を持ち込んで、従業員の大半が白河に引っ越すなど再開に向けて全力で走り始めた。私生活が大変な時期に男手がなくなるわけだから、ご家族は本当に苦労をなさったと思います。 移転者の宿舎や生活環境の整備に奔走した労務担当者にも頭が下がります。被災後3ヶ月で生産活動が始まったのは、社員とご家族、関係者の必死の努力によるものでした。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/09/onishi2.jpg" alt="" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-48323" /> ただ、震災はその後、住友ゴムのボール事業に深刻な影響を与え続けました。 ボールは技術の蓄積です。過去の実験やノウハウがより良い性能を生み出して、翌年の商品につながっていく。その連続性が工場の倒壊で損なわれ、研究がまる1年動かなかった。これは物凄いマイナスで、以後、競合メーカーとの戦いに遅れをとった印象は否めません。 <i>神戸市に本社・工場を設置していた住友ゴム工業は当時、工場900名、本社スタッフ900名の計1800名が在籍し、そのうち2名が自宅での被災で死亡するなど最悪の事態に遭遇した。</i> <i>工場の原型は1909年、英国の商社が建てたもので、以後、増設や近代化を重ねていた。ここでは二輪、産業用、航空機用、レース用タイヤを生産するタイヤ工場と、練習場用とラウンド用合わせて1000万ダースの生産キャパを有するボール工場が併設されていたが、いずれも復旧の目処が立たず移転を余儀なくされた。</i> <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/09/onishi1.jpg" alt="" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-48325" /> 被災で得た教訓は、リスクヘッジの大切さです。私は震災以前から一極集中の弊害を懸念しており、工場の分散を主張してきました。神戸工場には金型や材料が集中するため、順調なときは一貫生産によるコストダウンが期待できるものの、一度崩れると取り返しがつきません。利益をどのように再配分するか、これは経営者にとって最大の課題でもありますが、リスクヘッジへの対応が重要なのは言うまでもありません。 <h2>企業経営の本質とは</h2> 話は少しゴルフ界を離れますが、ここで私は経営者の「資質」について考えてみたいと思います。 日本は今、経営者の資質が問われる企業事件が頻発しており、それが社会問題化しています。「社会におけるゴルフ界」という大命題と向き合うためにも、企業経営の本質や経営者の資質を考えることは、不可欠なテーマと言えるでしょう。 まず、経営者は2種類に分けられます。ひとつはオーナー経営者、他方はサラリーマン経営者というもので、両者には本質的な違いがあります。前者はオーナーと企業が同一だから、企業の社会的な存在価値を長期的に考えられます。その反面、経営者が暴君になるケースもしばしばあります。 翻ってサラリーマン経営者ですが、こちらは任期中の実績がすべてになってしまい、近視眼的に物事を考えやすい。つまり、企業哲学が希薄になる。こういった企業は最近、増えているのではないでしょうか。 住友の起源は三百数十年前、お坊さんが興したと言われており、物がない時代にあって茶碗などを作っていたようです。いわゆる物々交換の時代で、お百姓さんは穀物を作る、こちらは生活用品を提供する。互いに有り難いものを頂くわけで、そのやり取りには常に感謝の念が存在していました。 だから住友精神は「浮利を追わず」「企業は社会の為にあれ」を社是として、グループ20社の長で構成される白水会にも共通の理念が色濃くあった。私の場合、ゴルフを普及することは社会的に「善」なんだと、そんな信念で走っていたのも住友イズムによるものでした。 日本で企業哲学が薄らいだ経緯を大雑把に言うと、まずは戦後の財閥解体があり、次いでバブルの崩壊です。近年では、持ち株会社制の導入も影響しているかもしれません。 知恵と労力を使って価値あるモノを提供する実物経済と、金が金を生む金融資本主義との相克が顕著ですが、大切なのはバランスですよ。ライブドアで明らかになったのは、実はIT企業ではなく、金を生むための虚構だった。拝金主義が極まった印象で、不健全な状態と言えるでしょう。 日本は世界のGDPの約15%を構成しますが、現在の地位は経済力によって獲得したものです。日本における経済力は労務品質とハイテクです。資本主義はより多くの資源を持っている国が有利ですが、日本の資源は何かといえば、これはもう「ヒト」に集約されるわけです。 ところが、唯一の資源であるヒトが脆弱になっている。それは人間の基盤ともいえる自律心やモラルの欠如が大きいと私は考えているのです。多民族国家のアメリカはモラルにも多様性があって、だから弁護士が多いわけですが、一方では宗教が補完する側面がある。しかし日本では仏教や神道の精神が薄れ、おかしな平等教育によって個人の芽も潰してしまった。唯一の価値観が拝金とすれば、これは由々しき問題です。 <h2>モラルの体現者「宮里藍」</h2> 過剰な拝金主義が社会を荒廃させるのは、今の日本に限った話ではありません。アメリカにも不正会計で崩壊したエンロンという先例があります。実は、健全な資本主義はモラルが支えるという原則があって、長期的に支持されるにはこれが唯一の生命線です。一連の企業事件はモラルが如何に大切かを、雄弁に物語っているのです。 ゴルフ規則の第1章には「エチケットとマナー」が明記されます。つまり、モラルですね。まずはモラルが外周となり、その内側にルールがある。マナーを守れば必然的にルールも守れるわけで、そのためには自己管理が前提になる。私は、ここにこそゴルフの神髄が集約されていると確信します。 日本人にもマナー(モラル)の良い人はおりますが、宮里藍さんもその一人でしょう。今、宮里さんが人気絶頂なのは、強くて可愛いだけではなく、マナーが良いからでしょう。それは両親から受けた教育の素晴らしさだと思います。 人間は本来、善なる存在でありたいと思う。拝金主義の世の中にあって、だから日本人は美徳を取り戻したいと願っている。その体現者の一人が藍ちゃんだと、多くの国民が感じているのです。 最近、父親の優さんと対談する機会がありました。彼女はどのように育ったのか。背景には優さんの大いなる失意、そこから芽生えた希望など、波乱の人生があったようですね。宮里家の教育とは‥‥。  <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年09月03日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた大西久光氏の「シリーズ温故知新」をウェブ用に再編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。写真は文章と直接関係ありません。 <hr /> <i>ゴルフ場の活性化が、ゴルフ界の再生につながる。その際、会員制コースが「パブリック化」している現状は、チャンスだと大西久光氏は強調する。少子高齢化の進展など、公的指標は将来の暗さを指摘するが、そうではないとの主張である。</i> <i>アジアに向け、日本のゴルフ場の素晴らしさをアピールし、インバウンド需要を取りつ付ける。また、女性のゴルファー比率を米国並みの2割に高めれば、波及効果が倍加する。</i> <i>これらは大西氏が12年前に主張したことだが、今なおゴルフ界は実現できていない。</i> インバウンド需要を刺激せよ 日本のゴルフ場をどのように活性化していくのか・・・・。これは、ゴルフ産業の将来を考える上で極めて重要なテーマです。 その際、様々な見方があるでしょう。大雑把に分ければ楽観論と悲観論で、後者の根拠は公的な指標に基づいています。日本は今後、少子高齢化や消費税のアップ、団塊世代のリタイアなどで、消費パワーが極端に落ち込む。だからゴルフへの支出も激減して、業界にとってはピンチだと。筋の通った考えで、理論的にも説得力はあるでしょう。 だけど私は、楽観論の立場をとっています。それは数字には現れない様々な要素があるからです。たとえば韓国のゴルフブームです。強いプロの登場もあって注目を集めていますけど、国内には200コース(当時)しかないため完全な需要過多に陥っている。プレーフィは高額で予約もとれないなど、日本のバブル時代と同じです。 こういった人達が、日本のコースへ大挙して来る。ソウルから飛行機で1時間程度の九州は韓国人ゴルファーが非常に多く、日本には韓国の10倍以上のコースがあるため、いろんなバリエーションも楽しめる。旅行会社が観光とのパックを企画するなど、需要創出が図られているのです。 もともとゴルフ場は土着性が強いため、限られたエリアを商圏としてきたわけですが、ITの普及もあって世界は飛躍的に広がっています。東南アジアのゴルファーで日本でのプレーを希望する人は多いから、国内の指標だけでは将来の可能性を推し量れないわけですよ。特に韓国と日本は、ワンマーケットと考えるべきでしょう。 <i>韓国のゴルフ熱は、米女子ツアーで活躍する韓国人選手が支える面もある。USLPGAに参加する韓国人プロは98年に1名だったが、現在は27名に激増し、今季メジャー2勝(全英女子オープン=ジャン・ジョン、全米女子オープン=バーディ・キム)を挙げたのも記憶に新しいところ。</i> <i>韓国メディアはプロ入りしたミシェル・ウィーの報道に際し、韓国名のウィ・ソンミを表記して愛国心を煽っている。今年の韓国アマを制したのは男子中学生のノ・スンヨル(13歳)だが、このような低年齢化は加熱するジュニアゴルフの一端を表わす。今後10年間で180コースの開場が計画されてもいる。</i> だとすれば、日本のゴルフ業界は韓国及びその他諸国のゴルファーに、魅力的なアプローチをしなければなりません。充実したコースと低料金を備えるなら、商機はあると考えます。 <h2>「プレー環境」の著しい好転</h2> もうひとつ、少子高齢化によってプレー人口が減少すると、ゴルフ場は廃業して野ざらしになるという指摘もありますが、私は違うと思いますね。第一に、ゴルフ場が保有する土地なり施設は、ゴルフ場以上の価値を生みにくいという事実があります。実際、果樹園や宅地、産業廃棄物の処理場など、様々な再利用プランが描かれましたが、数コースを除いてはゴルフ場であり続けている。それは何かということです。 産廃施設などは地域住民の理解を得るのが難しく、宅地も許認可を得るのが困難です。40万坪という広大なスペースを果樹園にしても、ゴルフ場以上の価値を生み出すのは不可能でしょう。切り売りで墓地にするのはありだとしても(苦笑)、少なくとも、ゴルフ場以外の用途で再生するのは極めて困難な作業なのです。 以前、住友商事は関連のゴルフ場を北海道の自治体にタダで寄付しました。そこまで極端ではないけれど、野ざらしよりはマシということで捨て値の売却が続いている。その受け皿となったのが外資ですよ。利に聡い彼らは安値でコースを買い叩き、独自の経営ノウハウで再生を目指していますけど、これによって始まったのがメンバーコースのパブリック化です。 つまり、従来のゴルフ場経営は、造成にかかわる負の遺産を抱えていたから厳しかった。民事再生等で負債が消える、あるいは大幅に減免されるなら、十分に運営できるのです。原価が安くなれば経営コストは下がるという、ごく単純な理屈ですよ。 バブル以降にオープンした600コースの大半は、すでにパブリック状態になっています。メンバーの同伴がなくても誰でも簡単にプレーできるし、ネットでの予約も普及して、価格もかなり下がっている。 私が強調したいのは、ゴルファーにとってプレー環境は著しく好転している。海外ゴルファーの受け入れを含め、需要は促進できるのです。 <i>「実質的なパブリックコース」の増加は、ゴルフの大衆化を加速させて既存ゴルファーのプレー頻度を高める効果が見込めるという。その先例が米国のゴルフ産業だ。現在米国には約2万5000コースが存在し、その8割が会員のいないパブリックだ。</i> <i>米調査機関のNGFによれば、全米のゴルフ人口は約2600万人で、そのうち年間8ラウンド以上プレーするコアゴルファーが1280万人、この層の年間平均プレー回数は37ラウンドとなっている。そのプレー環境を支えるのが安価なパブリックコースというものだ。(数字はいずれも2005年当時)</i> <h2>女性はゴルフ場で「カツ丼」を食べない</h2> 私は、日本がアメリカ的になるのは良いことだと考えます。もちろん預託金問題で多大な迷惑を被ったメンバーには、きちんとケアをする必要があるでしょう。しかし、あらゆる面でビジターとの格差を保てる本当の会員制コースは全体の2割、残りの8割は実質パブリックになるはずで、この流れは止まりません。 こういった傾向を「良いことだ」と考えるのは、プレー回数が高まるからです。一般的な認識は、ゴルフ人口が減るとプレー回数も縮小するというもので、これには誰もが頷くでしょう。 だけど、仮にゴルフ人口が減ったとしても、回数が増えれば底上げできる。アメリカのプレー料金は日本の半額ですが、プレー回数は2倍、プレー人口は4倍になっていて、これはゴルフ場の8割がパブリックということと無縁ではありません。 ですから、日本がその方向に進むなら、いくらでも対応策はありますよ。 日米の違いをもうひとつ挙げるなら、それはゴルフ人口に占める女性の割合です。日本は11%、アメリカは22%になっている。レディスの新規開拓は、ゴルフ界にとって重要な課題です。仮にアメリカと同じ割合になれば、ゴルフ人口そのものが増えるでしょう。 加えて日本人のデート費用の総額は年間3000億円とも言われ、その数%をゴルフに引っ張るだけでかなりの効果が期待できる。 女性対策を取り入れるゴルフ場も増えていますが、まだまだ十分ではありませんね。大体、女性が昼食でカツ丼なんか食べませんよ(笑)。レストラン改革や女性だけのスクランブル競技など、参加しやすい工夫はたくさんある。これらを着実に実現すれば、ゴルフ場がデートコースになるのも夢ではありません。 パブリック化が進むなら、若い女性のファッションにも寛容な態度で臨むべきでしょうね。タトゥーはさすがに問題ですが、10年後、日本が社会通念として容認するならば、ゴルフ場も考え直すかもしれません。 いずれにせよ、ゴルフ場の経営を正常化するには経理の公開を含めた透明性を追及すること。メンテナンスや接遇マナーの専門知識を導入して、他のサービス業と比べて遜色ない満足感を提供する必要があります。 <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年08月27日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた大西久光氏の「シリーズ温故知新」をウェブ用に再編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。写真は文章と直接関係ありません。 <hr /> <i>日本ゴルフコース設計者協会の理事長を務めたこともある大西久光氏は、日本のゴルフ場の開発コストが莫大な理由を、単に地価の問題だけではなく、複雑な許認可制度に伴う支出や地権者への対応もあったという。</i> <i>また、ゴルフ場の成立基盤もそれぞれ異なっており、再生計画にも複数の道があったと振り返る。</i> <i>日本のゴルフ場はどのような構造で成り立っていたのか? この点を改めて浮き彫りにしよう。</i> 複雑に入り組む許認可制度 日本とアメリカのゴルフ産業を比較すると、決定的に違うのが造成に関わる諸条件です。それが日本の高コスト体質を育んだと言えますし、振り返れば諸悪の根源だったかもしれません。 たとえば許認可の問題です。用地外周の30mに手を加えたらいけない、ホール間には30mの自然林を残さねばならない、用地全体の5割を自然林として残せなど、様々な制約が加えられる。無論、自然保護は尊重されてしかるべきですが、実態にそぐわないものも多いんです。 百年に一度の災害を想定した調整池などが最たるものでしょう。あるゴルフ場では防災関連だけで数十億円も出費したし、同じことは許認可にも言えますね。図面や環境アセスメント等、申請には多くの要件が求められ、関連費用が2億円など、本来の造成と無関係なところで多額の費用が発生したのです。 まだまだあります(苦笑)。国内のかなりのゴルフ場は一部を借地で賄っており、日本の場合は1コースにおける地主の数が100人、200人にもなってしまう。それぞれ考え方や家庭の事情も違うわけで、そういった人達を同時に口説くのは想像以上に難しいんです。結果、バブル前の地上げでは路線価よりはるかに高い買収費用を払うことになりました。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/08/onishi1.jpg" alt="ゴルフ場" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-47863" /> 古い名門コース、たとえば西宮CC(兵庫県)などは敷地が20万坪程度で造れましたが、新しいコースは規制によって倍程度の面積が必要になったわけです。 韓国では国が認可を行ないますが、日本は県単位だから統一できません。昭和48年(1973年)、神奈川県はゴルフ場開発をストップして、だから県内52コースは当時のままなわけですが、もし国が神奈川県のような指導力を発揮していたら、大きな破綻はなかったでしょう。許認可は利権と密接につながっていたので、国策よりも情実を優先した面が否めませんね。 <i>ゴルフ場開発が高コスト体質になったのは、1988年に制定されたリゾート法(総合保養地域整備法)の存在もある。バブルの上昇気流に乗った日本経済は、時短による余暇時間拡大策をとり、その受け皿として活発なリゾート開発が行なわれた。</i> <i>開発が制限されていた国立公園地域や水源保安林、農業振興地域なども指定解除や用途変更が認められ、不動産会社による土地の買い占めが始まった。同年のゴルフ場数は1640だったが、往時、一説には1000ヶ所を超えるゴルフ場開発が計画されるという空前のラッシュが勃発した。</i> <h2>ゴルフ場の成立形態は3種類</h2> 仮に国家がゴルフに理解を示し、国策として有効に活用していれば、様相はかなり違ったはずです。 たとえば国内には1万コース分を超える広大な休耕地があると言われています。戦後、食糧難に陥った日本はその体験から、平坦な土地をすべて農地にした。今は必要ない休耕地がほとんどですが、だとすれば農協がゴルフ場を運営するとか、有効な対策があったわけですよ。 農地は治水のインフラが整っており、平坦なため造成も安くなる。つまり、預託金をかき集める必要がありませんから、アメリカのように8割がパブリックという健全な姿も期待できたと思うんですね。 まあ、過去を悔やんでも仕方ありませんけどね。問題は将来の姿ですよ。私は経営難のゴルフ場を再生する仕事もしていますが、そういった観点からゴルフ産業の未来像を考えてみましょう。 まず、ゴルフ場の実態ですが、<a href="https://www.gew.co.jp/column/g_44426" rel="noopener noreferrer" target="_blank">前回</a>でも触れたように全体の半数が厳しい状況に陥っている。その中で起きている紛争は、会員とゴルフ場運営会社の対立に集約されています。 コースの設立形態は、おおよそ3種類に分けられます。ひとつはゴルフ場に対して運営会社、金融機関、会員(預託金)という三者の資金が絡んでいるケース。次に金融機関からの借り入れがなく、預託金と運営会社の出資で開場したもの。3つ目は会員のいないパブリックコースです。 紛争解決に法的措置を必要とするのは、基本的には一番目の形態ですね。金融機関が融資を回収するのは当然だから、国も民事再生で支援した。新法の導入によって銀行の権利を法的に裏付けたわけですよ。 銀行の不良債権はようやく解決の目処が立ち、ゴルフ場は国家的問題ではなくなっている。会員の権利が「国家的無関心」になりつつあるのです。 仮に会員権が出資金なら、フェアだったと思いますよ。だけど、出資ではないゴルフ会員権には法的な権利がありません。調停役の弁護士はゴルフ場、会員の双方について、破産しても料金を取る。だから弁護士は法的な処理を薦めますが、権利が担保されない会員は取られ損じゃないですか。いずれにしても弁護士が儲かる仕組になっているのです。 <h2>会員にも責任はあった</h2> <i>こういった経緯から生まれたのが中間法人というもので、簡単に言えば会員で組織される理事会を法人化したものだ。株式会社の簡略化である。理事会では担保設定ができないが、中間法人はそれができる。会員から代表者を3名ほど選んで預託金を権利化し、会社が売却できないようにガードする狙いがある。</i> <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/08/3.jpg" alt="ゴルフ場" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-47865" /> だけど、中間法人にも問題があるんですね。これは会員側の組織だから、ゴルフ場会社とはイコールにならないでしょ。利害対立の根本的な問題が解決しにくいわけですよ。 そこで預託金を株式化する方法もありますが、こちらも問題を抱えている。大半のゴルフ場は数百人、場合によっては千単位の会員も珍しくなくて、これだけの人数を株主にすると上場企業並の監査が求められる。ほとんどのゴルフ場は中小企業じゃないですか。だから監査法人に耐えられる能力はなく、よほど気合を入れないと実現が難しいのです。 最近では中間法人が経営者を選出する例も増えており、個人的には良い方向だと思いますが、権利関係が複雑に絡むゴルフ場の再生には特効薬が見つかりません。 ただ、新しい試みは出始めています。私はさるゴルフ場の再生を手伝ってますが、これは先ほど示した2つ目のケースです。銀行からの借り入れがなく、会社の出資と預託金によって構成されている。従来は会社が100%の経営権を握ってましたが、これを会社側35%、会員側65%に再配分して、メンバーの半数が役員になるというものです。 考え方としては以前の和議に近いですね。和議法は債権・債務者の利害調整を裁判所が行ないましたが、裁判所の代わりに民間人がコーディネーターを務めるもので、例は少ないと思いますよ。 金融機関が介在しないケースでは、必ずしも法的処置が必要ではありません。両者の話し合いで解決した方が、長い目で見て理想的だと私は確信します。 先日、この件で会員さんと話し合いの場を設けました。再生への協力をお願いしたわけですが、そこで私は「会員にも多少は責任があった」と申し上げました。だって、会員権の値段が上がったら売る、下がったらゴルフ場に返してもらう。そんな投資はありませんよ。 日経会員権指数によれば、90年3月で930だった指数が03年6月には46にまで落ちている。つまり、会員権の価値が20分の1になったわけですが、経済環境全体を考えれば、これはどうしようもない面もありました。 単にゴルフ場の問題ではなく、経済環境が密接に絡んでいる。私の説明に皆さん頷いておられましたが、こういった話を丁寧にしながら地道に理解を得ることが大切です。 いずれにせよ、ゴルフ場の再生には市場の活性化が必要ですが、私は大丈夫だと考えています。次回、その理由を説明しましょう。 <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年08月13日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた大西久光氏の「シリーズ温故知新」をウェブ用に再編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。なお、写真は文章と直接関係ありません。 <hr /> <i>大西久光氏が語るゴルフ産業史回顧の11話目は、ゴルフ場経営が儲からない構造的な理由を明らかにする。</i> <i>極めて単純な表現をすれば、ゴルフ場の客単価1万円、年間来場者4万人として、年商は4億円。30万坪規模の広大な土地を持ちながら、ゴルフ場の売上は中小企業と変わらない。それにも関わらず、ゴルフ場利用税を含む各種税やコストが重くのしかかるため、ゴルフ場ビジネスはキャッシュフローを生み出しにくい事業といえる。</i> <i>むろん、年会費や会員権の名変料などの「余禄」はあるが、現在の事業形態を前提とすれば宿命的な困難を背負っており、大西氏はこの点に鋭く迫る。なお、文中の数字はいずれも2005年当時のものであることを留意願いたい。</i> 昨今、ゴルフ場を巡る環境は劇的に変化しています。外資系の参入やネット予約、過剰なダンピング合戦など、ここ数年の様変わりは枚挙にいとまがありません。そこで今回は改めて、ゴルフ場ビジネスとは何かを考えてみたいと思います。 結論から言えば、ゴルフ場は収益性の高いビジネスモデルではありません。<a href="https://www.gew.co.jp/column/g_44424">先月号</a>で日本独自の錬金術ともいえる「預託金」の功罪について触れましたが、このシステムがなければ国内に2500コースもできなかったし、その後、利益創出に苦しむゴルフ場が沢山現れたことにも明らかです。 再度言いますが、預託金は錬金術だった。こういった邪(よこしま)な部分を除いて実業ベースで見てみると、ゴルフ場経営は収支計算から始まったビジネスではなく、ゴルフ界独自の「文化論」から発祥している。そういったことが言えるはずです。 この表現はちょっとわかりにくいかもしれませんね。詳細は今後説明するとして、まずはゴルフ産業が盛り返すための考え方を説明しましょう。 「2007年問題」の逆利用 最大のポイントは、1人当たりのプレー回数を高めることです。ゴルフ界の将来を否定的に語るひとは、これ以上ゴルフ人口は増えないはず、だから危機的な状況だと言いますが、あくまで応急処置的な観点として考えれば、仮にゴルフ人口が減ったとしても1人当たりのプレー回数が増えれば持ち直せる。 たとえば現在の料金は、以前の9回分で11回プレーすることが可能になった。つまり、今のゴルフ人口でも平均2回ほど増やせれば、ゴルフ場にはかつての活況が戻るはずです。 1人当たりのゴルフ支出は年間17万円(2004年推計値)で、大雑把にいえば用品2割、プレー8割になっています。ベースとなるラウンド需要が好転すれば用品など関連産業にも影響が出る。特に消耗品のボール需要等が高まるはずです。私のことを楽観論者というひともいますけど、考え方としては間違ってないと思いますね。 <i>2004年度の余暇市場を調べた「レジャー白書」によれば、同年のゴルフ人口は1030万人で、年間支出額は1人当たり16万9500円だったという。内訳は用具代が26%、プレー代が74%で、大西氏の指摘とほぼ一致する。ゴルフ用品市場は4370億円で、球技スポーツ用品の66%を占めている。</i> で、肝心な話、プレー回数を増やすには「時間」と「お金」が二大要素になります。お金は過当競争によるプレー料金の低下などで、ゴルファーの環境はむしろ好転している。問題は時間で、レジャーの多様化が進む昨今、ゴルファーのモチベーションを高める施策が必要になります。 その際、ゴルフ場の魅力をどのように構築するかを考えなければいけません。たとえば直近の課題として「2007年問題」があります。これは1947年生まれを第一陣とした団塊の世代が定年を迎えることで、時間とお金を持つ膨大な消費集団が現れることを意味します。 様々な産業が狙っているわけですが、こういった文脈でゴルフ場を考えたとき、方向性は2つです。ゴルフにステイタスを求めるハイエンド層と、大衆化を前提にした健康志向。特に法人会員でプレーをしていた人々は定年退職で権利が失効し、友人とも疎遠になりますね。個人の老後を考えれば非常につらい局面ですよ。 だとすれば、今後の会員メリットはロータリークラブと同じようなサロンです。コミュニケーションの磁場になる役割も求められるでしょう。 <h2>面積の3~4割が借地のところも</h2> ただし、すべてのゴルフ場がサロンを目指せるわけではありません。ゴルフ場のグレードをABCでランク分けすると、鷹之台や戸塚、小金井などは以前よりも会員権相場が上がっており、サロンとしての役割が期待できます。これらAクラスのゴルフ場は、全体の20%ぐらいではないでしょうか。 その下のBクラスは相場が横這いで全体の30%、下落しているCクラスが50%ほどと推計できます。今後、新しいコースが増える要素はありませんから、Cクラスが経営難に陥ると、プレーするゴルフ場が急減して、一気に産業規模が縮小する可能性も否定できません。 ゴルフ場業界が抱えるもうひとつの問題は、土地が「虫食い状態」になっていることです。実は、ゴルフ場の経営会社は100%自社の土地で運営しているところは少なく、面積の3~4割が借地というケースも珍しくありません。そのため経営の圧迫要因になるのが借地料で、地主へ払う借地料が年間3億円なんて話も聞いたことがあります。 契約期間は5~10年が一般的ですが、こういった諸々の要因を含め、全国レベルでは約500コースが潜在的問題を抱えていると想像できます。返還するのか、継続するのか。継続ならばどのように借地料を払うのか。これは将来にわたる問題といえるでしょう。 <i>ゴルフ場業界では、民事再生となった事業者が、再度、経営破綻に陥ることも懸念される。預託金の返還は減免されたが、プレー料金の値引きによるゴルファーの獲得合戦が収支バランスを悪化させ、極端にキャッシュフローが悪化している。</i> <i>これに借地権等の問題が絡むなど、経営基盤は脆弱なのだ。特に80年代後半に開場したゴルフ場の苦戦が目立つのだが、大西氏が住友ゴム工業時代に関わった施設も幾多の荒波を被った。多少の資本参加まで含めれば青木功GC(兵庫、会社更生法)、さくらんぼCC(山形、売却)、ザ・オークレットGC(岡山、共同経営)。なかにはザ・サイプレスGC(兵庫、特別清算)のように再建中の施設もあるが、いずれも経営難に苦しんだ。</i> <h2>ゴルフ場のコスト構造</h2> 私が住友ゴムにいた当時、様々なゴルフ場案件が持ち込まれ、結果的に苦戦したものも多かったですね。時代の熱気もありましてね、たとえば青木功GCには住友の資本が10%しか入らなかったものの、オーナーが一気に走ってしまい、引きずられる場面もあったわけです。 兵庫県のサイプレスは、私がオーナーから設計を頼まれて、ゴルフ場の専務理事まで務めました。残念だったのは、千葉で開発していた系列コースが苦戦して、その余波をサイプレスが被るなど、不測の事態で特別清算に陥ったことです。 会員の皆さんには0.5%の清算配当を行い、さらに0.5%を株式に換えてサイプレスクラブという受け皿会社を設立した。それでゴルフ場を15億円で譲り受け、前の会社は破産手続きをとりました。 しかしその後、会員権の価値は当初の0.5%から40%(2005年当時)に戻っています。会員は450人ですが、最近800万円で募集して新たに10人が入りました。もちろんエクスクルーシブだからオープンマーケットではありません。 サイプレスの株を評価してもらえたことは率直に嬉しいし、再建にも力が入ります。最終的には850人以内の株主を予定しており、そのときの事業計画は、会員とゲストで年間入場者は3万人まで、平均単価は2万5000円で年商7億超、税引き前利益が2割という青写真を描いています。 再生計画のポイントは、倶楽部ライフの魅力作りとコストカットによる黒字化に尽きます。最上級のサービスで顧客満足度を高めれば、必ず再生できると思っています。 ただし、一般論で申し上げると、ゴルフ場経営は多くの足枷があり、収益性は良くありません。全国のゴルフ場売り上げを入場者数で割ると1人当たり1万1500円ですが、このうち固定資産税、消費税、ゴルフ場利用税が2500円にもなっている。 残りの9000円に対してキャディーフィが3000円、メンテナンス費が2200円。余った3800円で人件費や水道・光熱費、事務所やレストランなどを賄っている。大阪の茨木CCは固定資産税だけで3億円も徴税されますが、年間入場者は6万人だから固定資産税だけで1人5000円の計算です。とんでもない負担になるわけですよ。 年に数ヶ月もクローズする降雪地帯のゴルフ場が厳しいのは当然ですが、それ以外の地域でも突発的な豪雪でクローズを迫られると、日銭が入ってこなくなる。天候要因を考えると、非常にリスキーなビジネスと言えるでしょうね。 先述したランク分けで経営状況を判断すると、Aクラスは年会費を入れて客単価が2万円。Cクラスは単価1万円で年4万~5万人の入場者が前提となり、Bクラスはその中間です。Cクラスをボトムラインにした場合、ここから外れたゴルフ場は経営の持続性が難しいと思います。 <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年08月06日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた大西久光氏の「シリーズ温故知新」をウェブ用に再編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。なお、写真は文章と直接関係ありません。 <hr /> <i>大西久光氏が語る10話目の今回は、バブル経済の崩壊で壊滅的な打撃を受けたゴルフ場マーケットの変遷を振り返る。各種データを通読して、破綻の様子を生々しく振り返っている。</i> <i>特筆されるのは、無法地帯だった会員権取引と錬金術としての預託金だ。ゴルフ場の土地買収も完了していないのに会員を募集して、莫大な「預かり金」を懐に入れたゴルフ場経営者の罪を問う。</i> <i>ハゲタカと呼ばれた外資系ファンドの買収術も解説している。</i> <strong>毎週火曜日掲載</strong> 赤信号、みんなで渡れば怖くない 1999年春、私は長年勤めた住友ゴム工業を退社しました。ダンロップスポーツエンタープライズの社長なども務めておりましたが、それら一切から身を退いて、後事を後輩に託したわけです。 ただ、間髪を入れずに新しい事業を始めました。この年の6月、ターゲットパートナーを設立しましてね、新時代に対応するコンサルティング会社という位置付けです。ゴルフ場の再生や用品開発、テレビ解説やコース設計など、住友時代に築いた経験やノウハウを生かしてゴルフ界の発展に寄与しようと一念発起したのです。 私は日本ゴルフコース設計者協会の理事長(当時)も務めておりますが、そういった経緯から昨今のゴルフ界には思うところが多いですね。 そこでまず、ゴルフ場はなぜ、現在の疲弊を招いたのか‥‥。今回はこの点を検証してみましょう。 ゴルフ産業が崩壊してしまった第一の原因は、バブル経済の破綻です。そのことは誰でも知っていますが、見逃せないのは92年のピーク以降、下降を続けていたマーケットが97年に一度復活して、その後また、さらに縮小の足を速めたことです。 持ち直したかに見えた業界が再度落ち込んでしまったのは、橋本税調の消費税アップが原因で、如何にもタイミングが悪かった。バブルが破裂してからも、国内のゴルフ場は約600コース増えています。ゴルフ場開発は、一度走り出すと途中で止められないわけですが、これによって需給バランスが極端に悪化して歯止めが効かなくなったのです。 ゴルフ場は用地買収と許認可に多くの時間が費やされるため、いざオープンすると市場環境が激変していることも多い。開発を中断するのも難しく、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と集団で渡ってしまいました。 90~93年にかけては毎年100コースほど開場しましたが、仮に今、90年当時のコース数だったなら、需給バランスはとれていると思いますね。ところが過当競争がダンピングを招いてしまい、経営破綻につながったのです。 <i>国内のゴルフ場産業は、1992年の1兆9610億円がピークである。昨年(2004年)が1兆1930億円だから39.1%減、金額にして7680億円を失った計算になる。90年以降の開場数は90年96コース、91年108コース、92年102コース、93年99コースで、大西氏が指摘したように、この4年間で毎年100コースが産声を挙げている。</i> <i>ゴルフ場経営者達の先見性のなさは厳しく問われる必要があるが、時代の熱気を勘案すれば、あながち無謀とは思えない節もある。</i> <i>ゴルフ市場の潜在力、つまり成長の可能性は「練習場人口」と「コース人口」の比率に置き換えられ、これが頂点だった93年はコース人口の1340万人に対して、練習場人口は1940万人。練習場人口がコース人口を44.7%上回り、90年の29.9%を遥かに凌ぐ勢いだった。</i> <i>この数字が意味するものは、ゴルフ場未経験者がゴルフ人口を600万人も上回り、豊富な予備群を抱えていたことになる。当時、都市部での休日の練習場は2~3時間待ちが当たり前で、バブルの後遺症も短期で治癒すると思われただけに、開発ラッシュは止まらなかった。</i> <h2>「ゴルフ悪者論」の実態とは</h2> ここに総務省の資料(平成16年サービス業基本調査)があります。9ホール程度を含めた国内のゴルフ場全体について、99年と2004年を比較したものです。 これによると過去5年間で施設数は5%減(2878→2726箇所)、総従業員数は17%減(15万4610→11万7527人)となり、1コース当たり10人ほど減っています。総事業収入は31%減(1兆5921→1兆818億円)ですけれど、利益は116億円の赤字から171億円の黒字に転じている。積極的なリストラによって体質は好転しており、やりようによっては再生できることを明かしています。 問題はゴルフのイメージですね。私はこれが、ゴルフ産業の疲弊を招いた3番目の原因だと考えます。一言でいえば預託金の問題で、「ゴルフ悪者論」が定着した。 まず、含み資産として市場性を持っていた会員権が紙屑になり、コアゴルファーの懐を直撃しました。その損失を確定申告で落とせたのが多少の救いだったとしても、民事再生が法制化されたでしょ。あれは預託金を切り捨てるための法律ですよ。 今では多くの破綻企業が申請していますが、基本的にはゴルフ場の預託金対策として生まれた法律だと私は思っています。会員の怨嗟が連日報道され、「ゴルフ」がバブルの象徴と見なされるようになったのです。 ただ‥‥。日本独自の預託金制度が諸悪の根源のように言われますし、悪用した経営者は責任を問われて当然ですが、預託金がなければ日本のゴルフ産業は発展しなかったようにも思いますね。 国土の狭い日本では用地買収にお金がかかり、コース建設は極めて困難です。アメリカのゴルフ場は8割がパブリックコースですけれど、日本のパブリックはわずか1割で、9割が会員制になっていることにも明らかです。 もうひとつの事情を言えば、欧米型の入会金と年会費でゴルフ場運営を賄うと一時所得が発生し、税金で半分持っていかれるわけですよ。預かり金にはそれがないし、まして第三者売買で流通すればゴルフ場が預託金を返還する必要もありません。 この方法が生まれたのは60年代でしたけど、仮に違う方法をとったなら、2500コースはできなかったと断言できます。 <h2>バブル三悪と呼ばれた会員権</h2> 問題は、預かり金にもかかわらず、これを自分のものと勘違いした経営者が多かったことですよ。証券取引が厳しい株は財務省への届出など、しっかりチェックされますが、会員権は有価証券ではありません。単にプレーするための権利にすぎません。 70年代には土地を購入する前に会員を募集した企業もありましたし、会員権業者には資格制度がなく、保証人も必要ない。責任を持つべきオーナーも返すつもりがないなど、まるで無法地帯だったのです。 一方、ゴルファーにとっても会員権は恰好の投機対象でした。上がれば第三者売買で利益が出るため、個人が3口も4口も買いましたし、法人も積極的に購入した。これは単なる推測ですが、トータル20兆円を超える額が会員権市場で動いたのではないか。途方もない金額だと思いますね。 <i>バブル三悪(土地、株、ゴルフ会員権)と称された会員権は、その価値を急速に下げ、預託金の償還期限も迫るなどで破綻企業が相次いだ。今後、法改正により個人会員権が損失計上できない事態にでもなれば、さらに混乱するかもしれない。まさに青息吐息の状態だ。</i> <i>ここに着目したのが外資系の投資会社である。「ハゲタカ」と呼ばれた投資ファンドは、底値でゴルフ場を買収し、経営を建て直して売却するという青写真を描くなど、国家的資産の草刈場になってしまった。これがのちに、アコーディア・ゴルフとPGМという二大ゴルフ場チェーンの誕生につながっていく。</i> <h2>ハゲタカが買収した方法</h2> 彼らが買収するポイントは、金銭的価値の有無にほかなりません。それのみを追求するはずだし、売却によって利益を得るのは当然です。 その際、ゴルフ場の価値判断は大きく2つに分かれます。ひとつは単年度の収支であり、他方は資産価値の観点です。 今のご時勢で18ホールを造ろうと思えば50億円でも無理ですよ。だけど、バブル時代に比べてゴルフ場の資産価値は10分の1に落ち込んでいて、これは下がりすぎだと私は判断します。外資が特に狙うのは単年度収支の悪いところで、ここにアイデアを注ぎ込んでキャッシュフローを発生させ、売却物件の価値を高めるという方法です。 利益が出る目処が立てば売却するのは当然で、躊躇する理由はありません。買値と売値の差額が利益になる。大量の破綻コースを買いまくる外資系ファンドは、上場してお金が入ったら手仕舞いするんじゃないですか。このスキームは5年から10年のターゲットで完結すると思います。 最近では東京建物など、国内の不動産関連が買い始めましたが2~3年遅いですよ。機を見るに敏な外資系に比べて、日本の会社は如何にもアクションが遅いですね。 <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年07月30日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた大西久光氏の「シリーズ温故知新」をウェブ用に再編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> <i>今回は住友ゴム工業とキャロウェイゴルフの事業提携が「破談」になった舞台裏に関わる話。</i> <i>1988年9月、住友ゴム工業はキャロウェイのゴルフクラブを発売。共同事業が軌道に乗るまでには3年を費やさねばならなかったが、メタルウッド『ビッグバーサ』の登場で莫大な販売実績を残し、以後の10年間でビジネスが拡大した。</i> <i>一見、両社の関係は良好に見えたが、実は水面下では様々な不満がくすぶっていたという。2000年を目前に控えた99年12月、両社の破断が決定し、一転、窮地に追い込まれた住友ゴムは死にもの狂いで新ブランドを立ち上げる。</i> <i>『ゼクシオ』誕生の背景だ。9話目の今回も秘蔵エピソード満載。</i> <strong>毎週火曜日掲載・写真提供大西久光氏</strong> 住友ゴムは1988年にキャロウェイ製品を発売しましたが、最初の3年間はアイアンが中心で不調でした。初年度は数億円の赤字など、正直に言えば苦戦でしたね。 状況が一変したのは『ビッグバーサ』の登場からです。この大型メタルは日米市場で爆発的に売れ、飛躍の原動力となりました。最盛期、住友ゴムはキャロウェイだけで110億円を売りましたが、その原点が『ビッグバーサ』だったのです。 そして、キャロウェイの急成長は住友ゴムに意識改革をもたらします。「品質が良ければ売れる」と信じて疑わないのがメーカーの基本的な体質で、住友ゴムはそういった考えが特に強かった。これを覆したのがキャロウェイとのパートナーシップだったわけです。 住友ゴムは当時、ユーザーニーズをキャッチする目的で直営店を出しましたが、ダンロップ製品だけでは来店するゴルファーが限定されます。ところが、キャロウェイとダンロップを並べると相乗効果で活発に動く。性格の違うブランドだから、双方の強みや弱点が明確にわかるわけですよ。そこから得た教訓は、ブランディングやマーケティングの大切さです。 もし、第三者の立場でキャロウェイの成功を傍観していたら、本当の理由は理解できなかったと思いますね。前回、キャロウェイはダンロップのQCや開発手法を学んだと述べましたが、我々もまったく同じことで、彼らのダイナミックなマーケティングを学べました。その意味で、両者の出会いは非常に有意義なものでした。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/07/big-bertha1.jpg" alt="キャロウェイゴルフ 初代ビッグバーサ" width="788" height="525" class="size-full wp-image-47352" /> キャロウェイゴルフ 初代ビッグバーサ キャロウェイ成長の一因は「訴えるぞ」 <i>住友ゴム工業がキャロウェイ製品を発売したのは1988年9月だった。キャロウェイゴルフにとっての幸運は2つ。バブル景気で日本のゴルフ市場が急成長していたこと。そして、住友ゴム工業がスポーツ事業に注力し始めたことである。</i> <i>同社は89年10月に創業80周年を迎え、全社運動の「POWER80委員会」を発足した。ここで示された21世紀ビジョンは①グループ売上1兆円超、②タイヤの世界シェア10%超、③スポーツ、特品等で全社売上の50%を構成するというものだった。</i> <i>ゴルフ事業は成長部門と位置付けられ、牽引役の大西氏は88年3月に取締役スポーツ事業部長、91年3月には常務取締役へ昇進する。キャロウェイの飛躍はちょうどこのタイミングと重なり、日米の両輪展開が一気に加速した。</i> キャロウェイが成長した理由はいくつかありますが、ひとつにはゴルフの世界に訴訟を持ち込んだことですね。斬新な発想を権利化して独占する、その執念は半端ではありませんでした。 『ビッグバーサ』が登場した90年代前半、PGAショーには多くの類似ヘッドが現れましたが、キャロウェイの法務担当重役は会場を歩いて警告を発した。特に台湾メーカーのコピー品には厳しく目を光らせていたし、キャロウェイが先進メーカーのイメージを確立したのはこの頃からだと思います。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/07/pga-show.jpg" alt="1993年PGAショー" width="788" height="525" class="size-full wp-image-47355" /> 1993年PGAショー 一方、財務重視の経営にも定評がありましたね。ライブドアの堀江さんがやって注目された株式分割が代表的で、分割すれば流動性が高まって、業績によっては株価が飛躍的に上昇するわけです。 キャロウェイの経営陣はミリオネア(百万長者)になりましたし、契約プロにもストックオプションを持たせるなど有効に活用しました。まあ、やりすぎると実体経済から離れてしまい、真面目に働く人が報われないというマネーゲームの悪い面が現れますが、キャロウェイは利益を開発に回したので、許容範囲だと思いますね。 <h2>教えたらボールを作り始めた</h2> ただ、パートナーシップを結ぶ我々にしてみれば、企業文化の違いやドライな手法に戸惑うことも多かった。卑近な例がボールですよ。 彼らは当時からボール事業に興味を持っており、住友ゴムの技術者にプレゼンテーションをさせたりするわけですよ。頼まれたこちらにしてみれば、キャロウェイと友好関係を結んでいるので、OEMでの発注を期待するわけですが、甘かったですねえ(苦笑)。 知識を吸収したら一気に自分達で立ち上げてしまった。ビジネスマナーとしては感心できません。 我々が正直すぎたのか‥‥? う~ん、一概にそうとは言えないでしょうね。というのも、装置産業のボールは設備投資に莫大なコストが掛かるため、クラブより遥かに障壁が高くて容易に参入できないからです。 ビジネス単位は100万ダースで、これを割るとコストが飛躍的に上がってしまう。だから事前に100万ダースをこなせる流通網をきっちり作って、製販一致でスタートする必要があるのです。 キャロウェイは初期投資で150億円を突っ込みましたが、環境は整っていませんでした。私は失敗すると思ったし、事実、ボールでは長年苦しんだでしょ。まあ、エリー・キャロウェイという人物は、こちらの予想を超えて型破りなアクションを起こす人でしたよ(苦笑) <h2>キャロウェイとの破断で『ゼクシオ』誕生</h2> <i>1999年12月、住友ゴム工業に激震が走った。キャロウエイゴルフとの代理店契約を更新できず、一転、窮地に立たされたのだ。</i> <i>同社は当時、スポーツ事業で約500億円の実績だったが、その7割がゴルフ用品で、ゴルフ事業の半分がクラブ(約175億円)の売上だった。キャロウェイ製品はクラブ売上の5割弱を占めており、一夜にして80億円を超えるビジネスが消滅する事態に直面したのだ。</i> <i>実際には販売代理店としての「粗利」が消えたわけだが、利益の圧縮は深刻な問題と受け止められた。</i> <i>その穴埋めを期待されたのが新ブランドの『ゼクシオ』である。同社は99年10月、都内ホテルに報道陣約80名を集めて新ブランドを発表。『ゼクシオ』は初年度50億円、ほかに『コスモグレード』『ハイブリッド』『DDH』といったように、一気呵成の商品構成で社運を賭けた。</i> 私は99年に住友ゴムを退社したので、『ゼクシオ』については外から眺める立場でした。しかし、なぜ住友ゴムとキャロウェイが別れることになったのか、この点は責任者として細部に関わった経緯があります。 更新できなかった最大の理由は、流通の問題に尽きますね。アメリカはメーカーと小売りがダイレクトに取引を行いますが、日本ではキャロウェイから輸入した商品を住友商事が窓口として受け、さらに住友ゴム、販社、ショップという手順を踏む。 エリーさんにしてみれば無駄なマージンと映りますし、「理解できない」となるわけですよ。 この間、様々な話し合いが持たれました。93年の契約更改では、本来の契約期間(5年)を6年に伸ばしてくれましたし、97年の交渉では住友ゴムとキャロウェイで合弁会社を創る案も出たのです。 エリーさんの主張は一貫して「不合理な流通を解決すれば、日本のゴルファーに安く提供できる」というもので、結局は重層的な流通を解決できず、決裂に至ってしまいました。 彼がもっとも理解に苦しんだのは、住友ゴムとダンロップの二重構造でしょう。エリーさんはSRIスポーツの形を想定していたし、さらに販社と合体すれば「行ける!」と考えたはずですよ。タイミングが悪かった。 両者の破談がなかったら‥‥。 想像の域を出ませんが、かなり面白いビジネスモデルにはなったでしょうね。これまで日本で成功した外資は極めて限られていて、それはビジネス文化の違いによるものだと思います。 アメリカの経済学者も日本の特殊性を理解するのが難しく、解決するには優秀な現地パートナーを得るしかない。 アメリカ企業の素晴らしさは、卓越したブランディングに集約されます。『ERC』のボールは鮮烈なイメージを植えつけているし、タイトリストもフラッグシップに集中して消費者の理解を深めている。仮に住友ゴムとキャロウェイという日米の大手が融合すれば、この業界に前例のない事業体でダイナミックなことをやれたでしょうね。 <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年07月23日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた大西久光氏の「シリーズ温故知新」をウェブ用に再編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> <i>前回までは、大西久光氏が「トーナメント産業」を軌道に乗せてから男子ツアーが低迷するまでの物語を聞いた。 8話目となる今回は、「本業」のゴルフ用品ビジネスに関わるストーリーに移る。同氏は1986年に住友ゴム工業のスポーツ用品副事業部長として本線に復帰。すぐに直面したのはクラブ事業の弱さだった。ボールメーカーとしては勢いがあるが、クラブは「難しいブランド」として認識され、売れ行きは停滞していた。 そんな折、当時は無名だったキャロウェイゴルフとの出会いがあった。大西氏は新興の米国ブランドを日本に輸入する決断を下す。その経緯を詳細に振り返る。</i> <strong>毎週火曜日掲載・写真提供大西久光氏</strong> CIAの人間じゃないか? 前回までは、トーナメント界の黎明期やそこで私が果たした役割について話しました。今回からは話題を変えて、ダンロップスポーツエンタープライズから住友ゴム工業に復帰して以降、主にキャロウェイとの関わりについて振り返ってみたいと思います。 私が住友ゴムにスポーツ用品副事業部長として戻ったのは1986年のことでした。『ツアースペシャル』が爆発的に売れる前でしたが、ボールメーカーとしては勢いがあった。その反面、「ダンロップのクラブはプロモデルだから難しい」という雰囲気が消費者や販売店、何より住友ゴムの社内にもそんな思いが色濃くあって、クラブをプロデュースするのは難しい‥‥。そんな課題に直面していた時期でした。 ちょうどその頃、住友商事の方がリチャード・ヘルムステッターさんを連れてきたんです。今でこそ彼はキャロウェイの開発責任者として著名ですし、流暢な日本語を操るため日本のゴルファーにも知られてますが、当時は上手すぎる日本語がむしろ不自然で、CIAとかの人間じゃないか‥‥(笑)。冗談でそんなことを言ったものです。 その彼が持参したのは1本のサンドウエッジで、住友ゴムを通じて日本へ販売してもらいたいという主旨でした。 当時は誰も知らないメーカーだけど、商品の理屈が面白かった。特徴はネックがないことで、ネック部分に使われる30gの重量をほかに振り向ければ、大型ヘッドができると確信しました。それだけではなく、ダンロップにはないキャロウェイの斬新なアイデアを取り込めば、我々のクラブにも相乗効果が生まれるはず。そんな期待感を瞬時に覚えました。 でもね、社内には反対意見が多かったですよ。メーカーであるダンロップが、なぜ無名メーカーの販売代理店をやらなければならないのか。それが反対派の意見で、普通に考えれば頷けます。 でも、私は押し切りました。クラブ事業に起爆剤が見つからない以上、新たな活路を求めるのは当然のこと。ある種のショック療法といえるものです。 <h2>GEの融資を取り付けたエリーの才覚</h2> 翌87年、私はスポーツ事業部の人間を数名連れて、ロサンゼルスへ飛びました。初めてキャロウェイを訪れたときの印象は、「やけに小さい会社だなあ」と(笑)。狭い事務所で6人が電話セールスをやっている。商品はスチールシャフトをヒッコリー風にプリントしたクラシックタイプのパターやウエッジ‥‥。 創業者のエリー・キャロウェイさんは、繊維会社やワイナリーの経営を経て個人的には裕福でしたが、キャロウェイゴルフには資金がありません。そんなわけでかなり迷いましたけど、結局はサインに踏み切ったのです。 契約書にサインした次の瞬間、私はエリーさんが抜け目ないビジネスマンであることを思い知らされました。彼は離席して隣の部屋に消えてしまい、しばし待つと、満面の笑みをたたえましてね、「ミスター・オオニシ」と隣室へ招くのです。 そこにはGEキャピタルの重役がいて、たった今、キャロウェイの最大株主になったというのです。エリーさんは再三、GEに投資するよう依頼していましたが、特に実績もないわけだからGEは躊躇していたわけですよ。そこで、エリーさんは賭けに出た。当日の契約がそれで、「日本のSUМITOМОがバックについた。必ず成長するから投資してくれ」と迫ったのでしょう。 <i>キャロウェイゴルフの元社員でゴルフライターの松尾俊介氏は、著書「ストーリー」の中で、このときのGEの投資額は「400万ドルだった」と明かしている。</i> GEの融資を取り付けたキャロウェイは、以後、大きく飛躍するわけですが、その原点が我々との契約だったと私は確信しています。 実はそれ以前、エリーさんはキャロウェイ株の50%を米国住商と住友ゴムに7億円で売りたいと申し入れてきたんです。資金調達をするために、いろんな策を練っていたんでしょう。創業時の苦労が偲ばれます。 でもね、住友ゴムは「そんな会社には投資できない」と蹴ってしまった。あのときもし買っていれば、7億が数百億に化けたはず‥‥。もったいないことをしましたなあ(苦笑)。 <h2>きっかけは「S2H2」</h2> <strong>1988年9月16日、住友ゴム工業はキャロウェイゴルフのアイアン『S2H2』を発売した。同社はその前年を「クラブ元年」と位置付けて、米プログループ社の『アクシャム』を輸入販売するなど外部の知恵を積極的に導入している。これはアーノルド・パーマーの監修というお墨付きだったが、さしたる成果は残せなかった。</strong> <i>時代はバブル景気の上昇局面で、様々なチャレンジが可能だった。 88年に発売した『S2H2』は、『アクシャム』に続く輸入品第2弾の位置づけだった。『S2H2』のキャッチコピーは「正確な高弾道」で、これを実現するためホーゼル部を極端に短く、なおかつシャフトをソールまで貫通させた設計が特徴。 商品名は「Short・Straight・Hollow・Hosel」の頭文字をとったもので、アルディラのボロンシャフト「RCH60」を装着した最高級モデルは43万2000円(9本セット)。このあたりにも、バブルが色濃く漂っている。 住友ゴムはこの年、カーボンヘッドの自社ドライバー『ブラック540』を発売し、新たに投入した『SP‐4』でアベレージ向け市場の開拓を図るなど、一気に攻勢へ転じている。『S2H2』は拡大路線のフラッグシップという役割を担っていた。<i> キャロウェイは当初ウッドがなく、アイアンに限った展開でした。だけど私の興味はウッドにあって、「S2H2理論」を採用すれば大型ヘッドが実現できる。そのことをエリーさんに強く主張したことを覚えています。 住友ゴムとキャロウェイは、販売代理店という枠を超えて様々なアドバイスを行うなど、蜜月関係を深めていきます。 忘れられないのが品質基準に関する相違ですね。宮崎工場でキャロウェイの検品をした際に、不良率が11%もあった。これを突き返したらエリーさんは怒りましてね、「アメリカではクレームが発生してから対応する。検品段階で11%もハネるとは何事だ!」というわけですよ。だけど、日本の消費者には通用しません。そのことを懇々と説明して、QC(品質管理)の見直しを迫りました。 商品開発にも我々の声が反映されたはずですよ。ダンロップには当時540CCの大型カーボンウッドがあったので、これを見せて「大型ヘッドを作ってくれ」と申し入れた。先ほどの話ですね。「S2H2理論」を採用すれば、他社にない大型ヘッドが実現できますから。 でも、エリーさんの返事は「アメリカではテーラーメイドのメタル(小型ヘッド)が絶好調だから、大型には興味がない」と。まったくの無関心で、こちらの意見に取り合わない。 面白いのはその後ですよ。半年後、エリーさんから連絡が入りましてね、「大型ヘッドを作ったから見てくれ」と‥‥。それが『ビッグバーサ』だったわけです。 彼はまず、こちらの申し入れを否定する、あるいはまったく関心がないフリをする。だけど実際には違っていて、非常に注意深く聞いてるわけですね。生き馬の目を抜くビジネスマン。このときもまた、そんな印象を強めました。 住友ゴムとキャロウェイで日米合作といった商品は多かったし、日本の繊細なニーズに対応することで、キャロウェイは独特の地位を築いていった。つまり、先進的なアメリカの開発と、日本の繊細な物作りの融合ですね。それ以前にはない、まったく新しいタイプのメーカーとして成長路線を歩みます。 <h2>エリーは国粋主義者?</h2> エリー・キャロウェイという人物を振り返るとき、マーケティングに優れた一級のビジネスマンという印象のほかに、国粋主義者、多少右寄りの印象も強かったですね。商品に武器の名前(ビッグバーサ=大砲、C4=プラスチック爆弾)が多く使われるのはそのせいかもしれません。 アメリカはインフレを物凄く嫌うため、コストカットが大原則です。だからレイバーコスト(労賃)の安い東南アジアで生産する企業が多いんですが、彼だけは「メイド・イン・USA」にこだわり続けました。このあたりにも国粋主義者の一面が伺えます。 住友ゴムの宮崎工場でアッセンブルをした方がすべての面で合理的だと主張しても、頑として首を縦に振りません。何事につけアメリカが一番という自意識が、非常に強い人でしたねえ(苦笑) だから彼は95年、ホワイトハウスに招かれてクリントン大統領から表彰された。全米の名立たる企業に比べれば事業規模は小さいけど、国内産業にブーメラン効果をもたらした、そのムード作りをしたことへの評価ですよ。 アメリカ産のゴルフクラブが高い評価を受けることは、実際の金額規模よりも、遥かに大きな効果があったでしょうね。ある意味、アメリカ国民に自信を取り戻させた、そんな役割を演じたのだと思いますね。 ワンマンで、だからカリスマ性ばかり注目されますけど、実際には基本ポリシーに対する揺るぎない信念を持っている人でした。 ところで、住友ゴムが輸入したキャロウェイは初年度、日本では数億円の赤字でした。ダンロップの契約プロに使わせるなどあらゆる支援をしましたが、『ビッグバーサ』が登場するまでの3年間は目立った成果がなかったのです。そんなわけで、私は社内から突き上げを食らったものですよ(笑) <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年07月16日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。写真は文章と直接関係ありません。 <hr /> <i>今から十数年前の2004年、既にそれは明らかな現象として起きていた。ゴルフツアーにおける男女の逆転現象である。この年、賞金ランクトップの獲得賞金額は、女子が男子を上回り、テレビ視聴率も逆転している。翌2005年はこの傾向に拍車が掛り、二桁台の視聴率を連発する女子ツアーに比べ、男子ツアーは3%台と低迷していた。</i> <i>それにも関わらず、1試合当たりの賞金総額は男子が女子の倍という「不合理」が常態化しており、いずれスポンサーは本格的な「男子離れ」を起こすと大西氏は警鐘を鳴らしている。</i> <i>これを回避するためには、制度的な欠陥を改善する必要があり、なかでも「永久シード権」は、若手の成長を阻む既得権になっていると指摘。「一刻も早く撤廃する必要がある」と主張する。</i> <strong>毎週火曜日掲載・写真提供大西久光氏</strong> 前回の記事はこちら 真剣に改革したLPGA 今、男子ツアーは危機的な状況に陥っています。最大の理由はAON(青木功、尾崎将司、中嶋常幸)に続くスターの不在であり、男子ゴルフが社会的に魅力あるコンテンツになっていないことも影響してると思いますね。ゴルフ人口は国民の1割といわれますが、最大の問題は残り9割の人々がどのような印象を持っているのかです。 一部の「実力プロ」の喫煙問題すら解決できないJGTOの指導力を見るにつけ、男子ツアーの再興は難しいと言わざるを得ません。 JGTOの関係者は、女子ツアーの人気を「一過性」と見ているようですが、私は違うと考えます。 LPGAが発展する要素はいくつもあって、たとえば女子のプロスポーツで1億円も稼げる競技はゴルフを除いて見当たらない。だから優秀なアスリートがこぞってゴルフ界へ入ってくるわけですが、一方の男子は野球やサッカーなど稼げる競技が分散している。 伊沢、片山、谷口などはいずれも身長170㎝ほどですが、よその競技では180㎝を超えるアスリートが鍛錬した肉体と精神力で真剣勝負を繰り広げている。単に肉体的なハンディを言うのではありません。問題は、スーパーアスリートが入ってこないゴルフ界の制度的な障害もありましてね、私はここを懸念しているわけですよ。 <h2>永久シードは即座に廃止すべき</h2> 最大の障害は資格制度でしょう。相撲やプロ野球はスカウティング活動を行って、有望なアスリートを発掘しているわけですが、ゴルフ界だけは「資格を取れ」と強要する。そんな世界がどこにありますか? たとえば「日本アマ」の優勝者にツアーへの道を開放すれば一生懸命タイトルを狙うだろうし、道筋を示せばサッカー少年の意識もゴルフへ向いてくるでしょう。 「永久シード権」も同じです。これが過去に活躍した選手の既得権になって、若手の出場枠を圧迫するなら、即座に廃止すべきですよ。 女子ツアーの活況は、たしかに偶発的な面もあります。宮里藍選手の女子高生Vなどは、意図的に作れるストーリーではありませんからね。ただ、「藍ちゃんブーム」は制度変更も背景にあるわけで、ここに注目する必要があります。 「アマチュアがツアーで優勝した場合、4週間以内に選手登録すれば1年間の出場資格を取得できる」という規定がそれで、宮里藍さんは適用1号になっている。タイガー・ウッズは全米アマの3連覇で参戦し、すぐにシード権を取ってしまった。つまり、旬を逃さないということです。JGTOはこの点が遅れている。 スポンサーへの配慮も同様です。企業は人気選手が「プロアマ」に出場することを期待しますが、ワールドカップ優勝(2005年、南ア大会)の後にも関わらず宮里、北田もきちんと出ていました。樋口さんに「よく出ますね」と尋ねたら、「出なきゃ失格。義務付けています」と‥‥。 宮里藍ちゃんのコメントは実直で爽やかな印象を与えますが、これはお父さんの教育が大きいものの、LPGAの研修も無視できません。改革の成果だと思います。 実は2002年頃、女子ツアーを取り巻く環境は非常に厳しいものでした。TBSは当時、「今後女子ツアーの中継はやめる」ことを検討したり、既存トーナメントは日曜だけ、新規トーナメントは放映しない方針だったようです。当然、LPGAの危機感は尋常ではなかったはずですよ。 それで奮起したのか、女子ツアーの視聴率はしばしば10%を超えますが、この数字はゴルファー以外の視聴者がいることを表しています。つまり、プレーしない9割の国民を意識しないと、これからのプロスポーツは成立しないということです。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/07/onishi7-2.jpg" alt="大西久光 ゴルフ産業を創った男" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-45728" /> <h2>男女賞金王の逆転現象</h2> <i>昨年(2004年)、男女ツアーの視聴率は逆転現象を起こしたが、今年はその傾向に拍車が掛かっている。ビデオリサーチによれば6月5日時点の視聴率(最終日・関東地区)は、男子が7戦を消化した時点で「日本プロゴルフ選手権」の4.8%が最高。4%を超えたのは計3試合で、最低は「JCBクラシック」の2.3%、7試合の平均視聴率は「3.6%」という惨状だ。</i> <i>一方の女子は10戦を消化して13%超が2試合(ヴァーナルレディス=13.7%、リゾートトラストレディス=13.1%)で、7試合が二桁の大台を突破している。圧巻は10試合の平均視聴率が11.0%を記録したことだ。つまり、視聴率の側面では女子ツアーは男子ツアーの3倍もの価値があり、スポンサー企業にしてみれば恰好の宣伝材料になるわけだ。</i> <i>昨年、男子賞金王の片山晋呉は1億1951万円を稼いだが、これは女子ツアー2位の宮里藍より350万円ほど少なく、「男女逆転」の象徴的な出来事となっている。</i> 女子の1試合当たり賞金総額は5000万円(当時)です。開催コストはその3倍程度が一般的なので、スポンサー企業の負担は1億5000万円というものです。対する男子は1億円の3倍で3億円。それにも関わらず視聴率が圧倒的に違うわけだから、スポンサーが「これはおかしい」と考えるのも当然で、いずれ男女の賞金が逆転することもあり得ます。 男子ツアー最悪のシナリオは、賞金5000万円ほどの大会が年20回ほどになり、マイナーツアーになってしまうことですよ。アジアと日本の対抗戦(ダイナスティカップ)で日本は敗北を喫しましたが、こういった事例はマイナー化に拍車をかける。ワールドカップの北田選手は「これを外したら日本へ帰れない」と必死だったそうですが、男子にそこまでの覚悟はあったのか‥‥。残念で仕方ありません。 <h2>ESPNに蹴られた顛末</h2> ところで、男子ツアーの衰退は日本のスポーツ文化、あるいはスポーツエンターテイメントそのものの未熟さと無縁ではありません。この点、日米の違いは驚くほど大きいし、ダイエーホークスを買収したソフトバンクの孫さんが「いずれ日米でメジャー決戦だ」とおっしゃったが、正論だけど違和感がある。ハッキリ言えば、それは難しいというのが私の印象です。 実は90年代、ダンロップフェニックスをアメリカで中継してもらうため、ESPN(全米最大のスポーツ専門ネットワーク)に番組を売り込みに行ったことがあるんですね。フェニックスは賞金総額2億5000万円で、世界の一流選手が参加する国内最高峰の大会ですが、私自身、極東の一大会であることに限界を感じておりました。 そこでESPNを使って認知度の向上を図ろうと考えたわけですが、逆に「数百万円払え」と言われてしまった。その意味は、放映権料を払ってまで中継する価値はないと判断されたのです。 このとき痛感したのは、アメリカのスポーツ産業の凄さです。まず、メジャーリーグを中継するために世界のテレビ局が莫大な放映権料を払っている。プロバスケットやアメリカンフットボール、PGAツアーも同様です。 要するにスポーツエンターテイメントが強大な集金マシンとなって、世界のマネーが流入する。だから超一流が集まるし、イチローや松井も日本を出た。孫さんの発言に違和感を覚えるのは、そういった背景によるものです。 産業規模が大きいから凄腕のプロデューサーも揃っている。R&amp;Aはミシェル・ウィーに全英オープンを開放する動きを見せてますが、一歩も二歩も進んでいるアメリカは、アニカ・ソレンスタムを男子ツアーに参加させた。プロ野球の交流戦ですら紛糾した日本とは、雲泥の差と言えますね。 そんなわけで、JGTOの再興は並大抵の努力では難しいと思いますが、だけどやりようはあるはずです。 プロ野球の観客は年間2000万人ですが、ゴルフ場では延べ9000万人が実際にプレーしているので、新しい魅力を創造すれば再生の道も開けるでしょう。プレー中の喫煙は魅力づくりの阻害要因になる。だとすれば、煙草を吸った選手は失格にすればいいんですよ。 煙草を吸って失格という「事件」がメディアに取り上げられれば、世間の注目が集まって、ニュース性も生まれます。禁煙ムードに関わる話題は新聞のスポーツ面ではなく、社会面に掲載されるかもしれない。ニュースとはそういったものですから。 JGTОは、かりそめの「実力プロ」に気兼ねしてるようじゃ駄目ですよ。強い指導力を発揮する必要があります。 月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年7月号「シリーズ温故知新」掲載 <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年07月09日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。写真は文章と直接関係ありません。 <hr /> <i>今回は日本プロゴルフ協会の分裂騒動に関わる話だが、回顧録の冒頭が片山晋呉への批判で始まるのは示唆的だ。2005年6月号に掲載した記事ながら、試合会場での振る舞いを厳しく問い質している。そのことを含め、激震が走った「分裂騒動」を振り返ろう。</i> <strong>毎週火曜日掲載・写真提供大西久光氏</strong> <h2>忘れられない片山のタスキ</h2> 片山晋呉プロがダンロップフェニックスで優勝(2000年)したときの光景を、私は苦々しい思いで眺めていました。おどけた調子でタスキを掛け、コメディアンのように振舞う姿。世界に通用する一流のトーナメントを作りたい、その一心で頑張ってきた我々の心情を、逆撫でされたように感じたのです。 今年のマスターズ(2005年)はタイガー・ウッズが見事な復活優勝を遂げました。ファンが喝采を叫ぶのは、不調に苦しんだウッズがようやく大輪の花を咲かせたからで、そこに人々は感動する。片山君がマスターズで優勝して、あのハッスルポーズをやりますかね。できないでしょ。私が手塩にかけて育てたダンロップフェニックスだから言うのではなく、どの大会も同じですよ。彼はプロスポーツの本質を理解してないと思いますね。 最近、男子ツアーの凋落が指摘されます。いろんな要因がありますが、私はハングリー精神の欠如や本当の下積みを経験していない選手が増えたからだと思うんですよ。以前、青木功プロに、あなたはプロ入りして7年間、まったく勝てなかった。なぜですかと尋ねたことがあるんです。青木プロの答えはこうでした。 「俺は最低の生活をしてきたから、プロになれて安心した。だって、飯が食えるんだから……。それじゃいかんと気付くのに、7年かかったということだね」 今のプロは大卒が多く、フェアウェイを歩く姿も先輩後輩の談笑とか、まったく緊張感が足りません。そもそも大学でゴルフをやれるのはお金持ちの子供が大半でしょ、下積みを知らない世代なんですよ。丁寧にサインをするよりも、ハッスルの方が受けると考える。去年、男子ツアーの半分以上を少数の外国人プロが制しましたが、これも頷けることですね。彼我のハングリー精神は、決定的に違いますから。 <h2>プロアマで靴を脱いだハミルトン</h2> それがファンサービスにも表われます。かつてトッド・ハミルトンとプロアマ(太平洋御殿場)で回ったとき、18番で池に入れた彼は靴を脱いでウォーターショットを披露しました。これがビタリと寄ってバーディー、我々が優勝したわけですが、同伴アマの感激は並大抵ではありません。もちろん私も嬉しかった。彼は10年も日本で下積みを続け、とうとう全英にも勝ってしまった。そのとき御殿場で一緒だったアマチュアは、まるで我がことのように喜びましたよ。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/07/onishi6_2.jpg" alt="大西久光回顧録6" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-45424" /> 日本のプロは、決して靴を脱ぎません。主催者が大金を投じてトーナメントを開催するのは、その背景に視聴者やギャラリー、つまり消費者がいるからで、そのことを日本の男子プロは分かってない。スポンサーが離れるのも当たり前です。 そういった不満は、かなり以前から持っていました。ゴルフ界を盛り上げるにはプロの意識改革が必要だし、組織力を活かした長期ビジョンやスポンサーの投資効果を高める施策が求められる。だからPGAの改革も、避けて通れないものでした。 <h2>なぜ分裂に至ったのか?</h2> <i>1999年12月、トーナメント界に激震が走った。PGA(日本プロゴルフ協会)からトーナメント部門が独立し、JGTO(日本ゴルフツアー機構)が発足したのだ。傍目には急転直下と映ったため、内部分裂やクーデターとも報じられた。対立は守旧派のPGA幹部と改革派の選手会という構図だったが、事態を複雑に見せたのは既得権益の存在で、個別の利益誘導も指摘されるなど泥仕合の様相を呈す。 最大の問題は、大会スポンサーで構成されるGTPA(ゴルフトーナメント振興協会)がPGAに預託する公認料の扱いだった。独立によって1社1000万円、30社で計3億円とも言われる資金の大半がJGTOに移管される。PGAは苦境に立ち、さらにトーナメント収益がなくなれば成立基盤さえ危うくなる。新旧の激しい攻防が勃発し、その矢面に立ったのが大西氏だった。</i> 実は分裂の2年前、GTPAの有力委員とPGAの幹部が集まって、トーナメント政策委員会を作っていたんです。私が毎月の会議で主張したのはトーナメント部門とインストラクター部門の分割で、それによって個々の事業プランを描くこと。ここには経理の分割案も含まれていました。 PGAは文部省認可(現文部科学省)の社団法人ですから、最終的に経理は一本です。しかし部門別の採算を明確にしないと、事業戦略が描けません。PGAには4000人の会員がいて、8割強がツアーとは違う世界で働いています。大半はインストラクターですけれど、部門を分けて専門化すればゴルフ場支配人やプロショップなど、彼らの職域を広げられる。つまり単にトーナメントの活性化ではなく、双方の充実が目的でした。 調整は難航しましたねえ。PGAの幹部は政策委の席上で「前向きに善処する」と言うんだけど、次回には白紙撤回です。そういったことが延々と繰り返され、痺れを切らして独立となった。 選手会をまとめていた倉本昌弘プロと島田幸作管理委員長(初代JGTO理事長)が独立派の急先鋒です。ある人からパーティーで「首謀者は大西だ、乗っ取りはけしからん!クーデターだ」と面罵されたものですが、これはとんでもない誤解ですよ。乗っ取るならもっと前にやれたはずだし(苦笑)、私の持論はPGA内部での分割であって、独立論者ではなかったんです。 改革派も急進派と穏健派に分かれていて、私は後者の立場だから、急進派に叩かれることもありましたよ。 同時に、GTPAとPGAの対立も深刻な状態になっていました。公式競技のスポンサーはGTPAに加盟して、トーナメント界全体の発展を話し合う。ところが、PGAは独自ルートの営業で未加盟スポンサーの大会枠を拡大するなど、2部リーグみたいなことをやり始めた。これでは全体の足並みが揃いません。 たとえば、試合ごとにテレビ局が違っても、前週の優勝者やこれまでの流れを解説すれば、視聴者の興味を喚起できる。スポンサー企業も他社の試合に協力して、ギャラリーに喜んでもらえます。その結果、トーナメントへの投資効果が高まるでしょ。GTPAはそういった役割を担っているし、だからPGAの独断専行は近視眼的に映ってしまう。 より本質的な問題を言えば、企業経営者のGTPAとツアープロ出身のPGA幹部は体質的にそりが合わない。いずれにせよ、あの状況での独立は避けて通れないものでした。 <i>2000年にスタートしたJGTOは、改革の原資を「イーヤマツアー」の導入に求めた。ツアー全体の冠スポンサーに電子部品メーカーのイーヤマ(本社長野県)を迎えるというもので、欧州の「ボルボツアー」が先例だ。 契約期間は3年、金額は単年度5億円。同社の売り上げは当時739億円(99年3月期)で、その6割が海外市場だったから、会社の知名度や信頼感を高めるのに「日本ツアーのスポンサー」は魅力的と考えた。JGTOは2000年から始めた「ツアー選手権」に「イーヤマカップ」のタイトルを付け、全試合に「イーヤマツアー」を表記するなどを提案した。 が、既存スポンサーの反発は予想外の激しさを見せた。自社大会に「イーヤマ」を表記することへの抵抗感は各社に根強く、「大会ポスターに『イーヤマツアー』は付けない」など、足並みが乱れたのだ。 これにより、一連の制度を導入した大西氏は窮地に追い込まれる。JGTOはGTPA、プロゴルファー、有識者(各4名)などで理事会を構成したが、GTPA側の大西理事は直後の3月に職を辞すことになった。</i> <strong>月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年6月号「シリーズ温故知新」掲載</strong> <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年07月02日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。(写真提供大西久光氏) <hr /> <i>今回は日本で最初のトーナメント運営会社、ダンロップスポーツエンタープライズ(DSE)を設立して以後の話。現在、片山晋呉の「プロアマ問題」をきっかけに、スポンサー依存のトーナメント体質が議論されはじめたが、なぜそうなったのかを詳しく振り返っている。 地元の暴力団が「筋を通せ!」と凄んできたなど、黎明期ならではのきわどい話が沢山ある。</i> 断る企業はなかった 昭和48年、私は日本初のトーナメント運営会社(ダンロップスポーツエンタープライズ=DSE)を興しましたが、これは今でいうベンチャーです。先行事例がありませんから、すべて手探りの連続でした。 実は、設立に際して個人的に親しかった先輩が「5000万円出すから自分でやれ」と言ってくれましたけど、丁重にお断りしたんです。住友ゴムの子会社でいいと考えたのは、トーナメントを通じてゴルフ市場を拡大させるとき、組織をバックにつけた方がいろいろできる。そんな考えがあったからです。 毎週火曜日掲載 前回の記事はこちら   <hr /> 企業には二面性がありますね。ひとつは利益追求の組織であり、これを徹底することが求められる。その一方、企業は社会的な意義や貢献も大切で、「夢」という言葉かもしれません。お金はたしかに大事だけど、生きるための道具であって、最終的な目的ではありません。 ゴルフは老若男女が等しく楽しめ、健康的に自然と親しめます。審判のいないスポーツだから精神修養にもなるわけで、これを広めるのは良いことなんだと信じ込んだ。DSEは、トーナメントの世界からゴルフを普及させるのが夢でした。 いろんな企業へ「タイトルスポンサー」をお願いしましたが、断られた記憶はないですねえ。当時、ゴルフは会社のイメージアップにつながるという共通認識が社会にあって、コストは宣伝広告費で賄える。費用は賞金総額の3倍が相場で、賞金やテレビ中継、事業費等がこれに含まれます。 本来は入場料収入でカバーするのが健全な姿かもしれませんが、これだとスモールな大会しか開けないし、世間の注目も集まらない。大きな試合を連発するにはタイトルスポンサーの道しかなく、こういった手法は当時、欧米にもなかったと思います。 <h2>暴力団が「スジを通せ!」</h2> DSEの全盛期だった昭和50年代には、50人の社員で男女50試合ほどを手掛けました。昭和48年に5人で始めた新会社はその後、独占企業に成長していくわけですが、最大の理由はチェーンメリットの追求でしょう。つまり、たくさんのトーナメントを運営すれば看板やボードが使いまわせるし、印刷物も一ヶ所に発注することでコストダウンが実現できる。 1人の社員が年間10試合以上を経験するため運営に関する技術が上がり、人件費も安くなる。天候不順で赤字になっても、全試合で黒字にすればいいわけですよ。競合企業がいないから、DSEの言い値が通る利点もありましたね(笑) その過程で、DSEの周辺にアウトソーシングのグループが形成されました。我々はこれを「DSE会」と呼びましたが、デザイナーやPR会社、看板や印刷会社など、10社ほどの集合体です。現場では朝4時に起きて5時に集合、ほとんど体育会のノリですね。土木作業も当たり前で、戸張君(現トーナメントディレクター)なんか杭を担いで走っていましたね(笑)。 いろんな問題もありましたなあ。前夜グリーンに油を撒かれたり、暴力団関係者が怒鳴り込んできたりとか……。興行には地元の縄張りがありますよね、そこで「筋を通せ!」と凄むわけですが、私は一銭も払いませんでしたよ。 まあ、表面は綺麗な舞台ですが、水面下の苦労は絶えません。白鳥は優雅に湖面を滑りますが、ドジョウを食べるのに潜ってどろどろになる。それと同じで、ギャラリーに球がぶつかることも日常茶飯事だったし、その場合はDSEが補償する。補償しないとスポンサーが集まりませんから。 で、いろいろな問題が生じたとき、PR会社が大切な役割を果たしました。私は先鋭的なことをしていたので、メディアのターゲットになりやすいでしょ。直接槍玉に挙げられたらこっちも熱くなってしまいますが、中間にPR会社が入ることでショックアブソーバーの効果があるんですね。 例えば……、これは大分あとの話ですが、PGAからツアー部門が独立したときは「大西が乗っ取るんじゃないか」と言われましたよ(苦笑)。これに類する話はたくさんあって、傍目には強引に映ることも、前進するためには多少の無理が必要です。それらを上手く伝えるのがPR会社の役目でして、ある種の盟友関係です。 <h2>DSEは競合他社の「排除機能」も</h2> <i>経済成長に乗ったトーナメント界は、急速に注目を集めていく。DSEが設立された1973年(昭和48年)には31試合が開催され、翌74年、PGAは米ツアーに倣ってシード制を導入した。75年に村上隆が日本プロ、日本オープン、日本マッチプレー、ゴルフ日本シリーズの4大公式戦を制覇。77年には樋口久子が全米女子プロに優勝し、80年の全米オープンでは青木功がジャック・ニクラウスとの死闘で2位になるなど、ゴルフシーンを熱く彩った。 この間、国内男子競技は76年(32試合)→78年(37試合)→81年(42試合)→83年(46試合)と右肩上がりの成長を続け、85年には中嶋常幸が国内ツアー初の1億円突破で賞金王へ、87年は岡本綾子が米ツアーの賞金女王に輝いている。 急成長を遂げるDSEは、トーナメントの普及という目的以外に多様な機能を発揮した。代表的なのがプロの積極的な囲い込みだ。その手法は、住友ゴム工業の契約選手をDSEの運営大会に推薦するという少々強引なやり方だった。出場機会を得たい選手は争って「ダンロップ契約プロ」となり、その効果を販促へつなげていく。 テレビ中継のCMも「1業種1社」の原則により、ゴルフ中継におけるダンロップの露出度は他社に大きく水を開けた。</i> 競合メーカーのテレビCMはニュース番組が中心で、効果的にゴルファーへ伝えられるゴルフ中継でのCMは難しかったですね。先ほども言いましたように、大会運営は少数じゃ採算が合わないし、独立会社でやるのが困難だから、ミズノさんもブリヂストンさんも事業部として始めたわけですよ。 こちらは専門会社でトーナメント運営の6~7割を占めたので、まったく勝負になりません。最盛期には20億~30億円をトーナメントとテレビに使いましたが、これによってダンロップは確固たるブランドイメージを築きました。 <i>ツアーの世界からゴルフの魅力を発信して、ゴルフ人口の拡大と自社ブランドの訴求を狙ったDSEは、所期の目的を着実にこなしていった。しかし昨今のツアー界は男女の逆転現象で、今年の男子ツアーは28試合、賞金総額もピーク(93年、41億8500万円)より9億2500万円も減少するなど、かつてない逆風が吹いている。 「販促に男子プロは不要」と語るメーカーもあるなど「男子離れ」が顕著なのだ。昨年、5割以上の大会を少数の外国人プロが制したのも一因だろうが、なぜ、こんな事態になったのか……。背景には複雑な要因があるようだ。</i> 責任の一端は、ぼくにもあると思いますね。例えばテレビ解説のコメントで、選手は「商品」だからまずは人気を高めるのが先決だと考えた。それで、明らかなミスショットをかばう発言をしたこともあるし、持ち上げるコメントも多かった。商品をけなすわけにいかなかったんです。 しかし、それはやはり間違いですね。厳しい指摘をすることで選手の自覚を促がして、ゴルフとは何か、エンターテイメントの本質は何かを伝えなければいけなかった。コメディアンのような振る舞いでは、ゴルフの感動を伝えられない。そういった勘違いの原因は……、  <strong>月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年5月号「シリーズ温故知新」掲載</strong> <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年06月26日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> <i>日本の「トーナメント産業」は、どのように成長してきたのか。今回は黎明期といえる70年代の話である。ゴルフボールで高いシェアを得た住友ゴム工業がさらに勢力を伸ばすには、市場を拡大する必要がある。それにはゴルフ人口の増加が条件だから「試合を増やして人気を高めようと思ったのです」(大西氏) ただし、社内的な障害があった。タイヤ製造を中心とする同社にあって、スポーツの興行は水と油。いちいち社内を説得するのも面倒なため、トーナメント運営会社を立ち上げた。 以後、大西氏は大手企業の社長にトップセールスを行う。ペプシ、東急、サントリーなどがトーナメントのスポンサーになり、ゴルフをメジャースポーツに押し上げた。その経緯を振り返る。</i> <strong>毎週火曜日掲載</strong> 「トーナメントディレクター」誕生 新しい分野を開拓するには、強靭な精神が必要です。もちろん信念も大事ですね。ぼくの場合はゴルフに魅せられ、これを普及したいと切望した。その際、大きな組織の一員であったことが有効に作用した反面、組織の秩序を乱す局面もありました。平社員のぼくが課長や部長を通り越して、経営トップに直談判する。だから上司に、「お前は下克上だ」と怒鳴られた。まあ、とんでもない部下だったと思いますね(笑)。 いずれにせよ、タイヤが主力の住友ゴムは生粋のメーカー志向です。志向というか体質ですな。そのなかでぼくはまったくの異分子、別の言葉でいえば「道楽者」と見られていた。ゴルフ用具を売るための宣伝や、市場を開拓するための興行などは、会社に馴染むはずもなかったのです。 ▼前回の記事はこちら 昭和46年、ジャンボの海外試合(ニュージーランドPGA)を観戦するツアーを組んだとき、会社と激しくぶつかりました。それだけじゃありません。この年には「日米対抗戦」も企画して、ほとんど個人的に取り仕切った。会社にすれば「大西は独断専行で動いている」と、強い不満があったはずです。 ただ、日米対抗はいろんな意味で画期的でした。ぼくは名刺に「トーナメントディレクター」と書きましたが、おそらく日本で1号でしょう。こんな職業はありませんし、トーナメントが興行として意識されることもなかったですから……。 で、何をしたか。やる以上は注目されなきゃいけません。そこでアーノルド・パーマーを呼ぶためにアメリカへ飛び、IMGの創業者マーク・マコーマックと交渉したのです。彼は立志伝中の人物でね、今でこそプロスポーツの代理人はプロ野球のメジャー移籍などで活躍してますが、これを始めたのがマコーマック。彼はそもそも、パーマーのマネジメントによって土台を築いた経緯があります。ぼくは親交のあったミッキー安川さんに通訳を頼み、二人で乗り込んだわけですよ。 いろんな問題が生じてしまい、結局パーマーは参加しなかった。でもね、大会は大成功だったですよ。開催コースはPLCCで、ここはPL教団のコースです。教団にスポンサーを依頼したらトップが引き受けてくれましてね、ほかにダンロップと朝日放送の協力を得て実現に漕ぎ着けました。 <h2>東急の五島さんと赤坂で</h2> 大成功というのは試合展開です。団体戦は日本の大敗でしたが、個人戦はジャンボとビリー・キャスパーが競り合って、結局はタイで優勝を分けた。これがスポーツ紙の1面を飾ったわけですが、多分、初めてだと思いますよ。ぼくの記憶が正しければ、ゴルフが1面に載ったのは初めてじゃないか。あれは本当に嬉しかった。 <i>1971年(昭和46年)に「日米対抗戦」として始まった同大会は、88年に「ラークカップ」、94年に「ABCチャンピオンシップ」と名称を変えている。第1回は日米8選手が参加して団体戦は米国1484ストローク、日本が1493ストロークで敗北。個人戦は尾崎、キャスパーが208ストロークで優勝を分けた。 しかし、この大会は同時開催の「ロレックス」(川崎国際CC)と重なってしまい、出場選手の争奪や激しい綱引きなどで紛糾する。日本の上位8選手が日米対抗に参加したため、のちに大きな遺恨を残した。</i> あれは大論争になりましたが、結果的には良かったんじゃないかな。社会の関心が高まればビジネスチャンスも広がってくる。日米対抗をきっかけにトーナメントは増加局面に入りますが、これはジャンボの優勝とその後の論争が引き金となった印象もあって、興行の世界ならではのダイナミックな波及効果を生んだわけです。 でね、日米対抗が終わってすぐ、PL教団のトップに慰労会を開いてもらいましたが、そこに東急の五島昇さんがいらっしゃった。赤坂の料亭から銀座に流れ、興が乗った五島さんは「俺もやりたい」と言い出した。それが「とうきゅうオープン」ですよ。初回は昭和48年ですが、ぼくはその前年に「ペプシトーナメント」も手掛けていた。会社の業務というよりは、ほとんど個人的に受けたようなものですな。人脈が急速に広がって、興行の世界にのめり込んでいきました。 <h2>日本初の運営専門会社</h2> この頃の私は、住友ゴムの範囲で動くことに大きな限界を感じていました。メーカーの中に「興行師」が紛れ込んでいるわけだから(苦笑)、当然居心地も悪くなる。ジャンボのニュージーランドツアーでは上司に辞表を提出するなど、社内の軋轢も高まった。ですから、興行の専門会社を興したい、そう考えたのは自然の成り行きです。 <i>日本初のトーナメント運営会社、ダンロップスポーツエンタープライズ(DSE)の設立は1973年(昭和48年)。資本金は3000万円(住友ゴム工業90%、代理店グループ10%)で、GMに就任した大西氏を筆頭に住友ゴム工業から3名が出向した。現トーナメントディレクターの戸張捷氏も初期メンバーに含まれている。 初年度は「ダンロップトーナメント」のオペレーションと「サントリーオープン」の企画運営、翌74年には「ダンロップフェニックス」を立ち上げて、国際大会の先駆けとした。同大会の初代覇者はジョニー・ミラーで、2004年優勝のタイガー・ウッズに至る過去30年間、日本人優勝者は僅か4人(尾崎将司は94年~3連覇)しかいなかった。賞金総額2億円は国内最高、これは海外の一流選手を本気にさせるためのコストである。 57年に東西プロゴルフ協会を一本化したPGA(初代理事長安田幸吉氏、会員約100名)は、DSE設立の翌年にシード制を採用している。PGA女子部が日本女子プロゴルフ協会に独立したのも同年で、トーナメントを取り巻く環境は急速に近代化へと向かっていた。</i> DSEを別会社にしたのは興行に特化するためですが、実は収支の問題もありました。収益構造が異質だから、住友ゴムではマイナス部分が埋められず、プラスの雑収入も馴染まないわけですよ。そこで胴元というか、クッションの機能が求められたのです。 DSEは初年度からずう~っと黒字でね、優良企業といえるでしょうな。ぼくが36歳、戸張君が28歳。若くて勢いのある組織でした。 設立してすぐ、サントリーの鳥井道夫さんを訪ねました。用件は「トーナメントをやりたいのでお金を出してください」というものです。サントリーは当時、広告予算のビッグ3に入っていて、ここがトーナメントを始めたら他社も続くと考えた。まあ、世の中を動かすツボというか、他の大手企業を巻き込む算段ですよ。 サントリーは二代目社長の「佐治精神」(やってみなはれ)が色濃く残っていて、鳥井さんとも意気投合、一気呵成に運びました。デビュー当時のトム・ワトソンが参加したし、優勝は杉本英世、1打差の2位がジャンボでね、試合としても盛り上がった。 話しがとんとん拍子に進んだのは、ゴルフが旬だったことも大きいですね。テレビ局の幹部や企業経営者はみんなゴルフが好きで、また、世間には旬に目を向ける風潮が満ち溢れていたわけですよ。そんな時代感の中で、ぼくの主義はトップセールスです。経営トップと直接話し、熱意をもって口説きました。 「ダンロップフェニックス」の賞金総額は5000万円から始めました。通常の5倍というバカ高い賞金を用意してね、世界の一流プロを本気にさせた。旅行気分で来られちゃ困りますよ。超一流の凄味を伝えてほしかったし、ぼくはこの大会で解説者をしましたが、ゴルフの魅力を伝えたいと、真剣に話したつもりです。 <strong>月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年4月号「シリーズ温故知新」掲載</strong> <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年06月19日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> <i>ダンロップのゴルフボール事業を軌道に乗せた大西氏は、国内の流通展開を盤石にするため代理店網の整備を急いだ。さらに間髪を入れず、プロゴルファーの「興行」にも力を入れる。高いシェアが頭打ちになり、さらに成長を遂げるには市場規模そのものを拡大する必要があったからで、プロ大会の拡大に本腰を入れた。 住友ゴム工業は、タイヤを中心とした物作りの会社である。その中に「興行師」が一人紛れ込んだような形になり、周囲の反発が激しくなる。新たな事業予算は拒否されるケースが多くなり、生来の気の短さから辞表を叩きつけることになった。</i> <strong>毎週火曜日掲載</strong>   上司より高級なクラブで飲んでいた(笑) 昭和39年の秋、ぼくは東京赴任の5年間を終えて神戸本社へ戻りました。戻ったというよりは、「強制送還」に近いですな。遊びすぎた(笑)。 当時のぼくはアマ競技に没頭していて、それが仕事でもありました。千葉CCのクラチャン(2回、西宮CC8回)だったので、会社では平社員ですけれど、ゴルフ場ではチャンピオンなわけですよ。ゴルフ場のメンバーは企業の社長が多くて、可愛がられた。 大きな声じゃいえませんが、月給が1万5000円の時代で1回のニギリが同じ額ということもありましたし、銀座の一流クラブへも毎晩のように連れて行かれた。上司よりもいい所で飲んでるから、「大西は遊びすぎだ、ヒラ社員のくせに」となるわけです。もともと図々しい性格が、あの頃の体験で輪をかけて図太くなりました。そんなわけで本社への「強制送還」は、まあ、当然だったかもしれませんな(笑) ただ、本社のトップはさすがに怖かったですねえ。その前年、英国ダンロップは住友電工に経営権を移譲して、子会社の住友ゴム工業が発足していました。社長は井上文左衛門さん、専務が下川常雄さんで、いずれも親会社からの出向です。お二人とも明治生まれの気骨があって、聳え立つ山のようなもんですよ。「企業は社会の為にあれ」「浮利を追わず」といった住友イズムが徹底されておりました。 <h2>折半出資で代理店網を急拡大</h2> タイヤが主流の会社にあってゴルフは傍流の存在ですが、「浮利」という扱いではなかったですね。あの頃のボール生産は24時間のフル操業で、いくら作っても欠品でした。定価300円の商品を代理店へ200円で卸しますが、それでもメーカーの利益は100円取れる。作れば作っただけ売れるから、経営トップもゴルフに理解を示したわけです。 この機に乗じて、ぼくには次のプランがありました。神戸に戻って進言したのは、『ダンロップ65』のブランド力をゴルフ用品全般に広げることです。で、ヒラの私が専務に直談判することになりましたが、とにかく下川さんは怖い方で、会議で一喝された社員が卒倒したこともあるほどです。それだけに腹を括って臨みました。論法はこうです。 ゴルフ場の売店は9割抑えました。これだけシェアを取ったのにボールだけではもったいないと思います。ここにソックス、ウエア、キャディバッグなどを乗せれば市場開拓を促進できます。これにより、ダンロップ・ブランドを拡大しましょう! こちらの思いが通じたのでしょう、進言は受け入れられました。用品の生産はいずれも外注ですが、昭和40年代前半には、2週間に一度の割合で「スポーツ企画会議」も始まります。窓際の「特殊用品課」が、いよいよ組織的に動き出したのです。 <i>ゴルフ用品の拡大政策は結果的に、代理店制度を加速させることに寄与した。同じ流通経路に様々な商品を乗せれば代理店の売上アップに貢献できるからだ。逆にサイズや色柄の多様性で在庫管理や売れ筋の把握に苦しむが、ボール単独の展開から総合企業への脱皮を意欲的に目指した。 代理店網の構築を周到に行っている。まず、「直系代理店」は地域の有力者を口説きながら折半出資の形をとった。ダンロップスポーツ中部は1968年(昭和43年)に自動車関連部品商社の東郷産業と住友ゴム工業の共同設立。東郷産業は住友電工の取引先で、その縁から始まったもの。大沢商会とミズノ経由で供給していた北海道にはダンロップスポーツ北海道(共同出資)を設立するなど、一気呵成に進展した。</i> こういった代理店の開拓も、ぼくの大事な仕事でしたね。当時はミズノさんが強力な小売りチェーンを持っておられ、BSさんはダンロップへの敵対心で流通整備に力を入れていました。ボールのシェアは8割以上がダンロップですが、本業のタイヤはBSさんが5割のシェアですからね。企業規模も遥かに大きいし、ダンロップ何するものぞ! の気概がありましたな。 だけどね、このときぼくは違うことを考え始めていたんですよ。ボールの利益をゴルフ業界へ還元して、マーケットをでっかくすることです。小さな市場でごちゃごちゃやっても仕方ない、ボールの利益があるうちに金をどーんと投資して、ゴルフ人口を増やそうと考えたわけです。 <h2>「興行師」誕生</h2> 話は多少前後しますが、神戸に戻ったとき、個人的には重大な決意を固めていました。ぼくのアマチュアとしての目標は日本オープンの優勝でしたが、接待ゴルフとの二股もあって「クラチャン止まりがせいぜいかな、そろそろ現役を引退しようか」と、そんな気分になっていたんですね。 そこで昭和40年の2月、上司にフィリピンオープンへ行かせてくれと頼んだら即座に却下されて(苦笑)。「いいかげんにしろッ」てなもんですよ。それで休暇を取りまして、親父からの借金で出場しました。 驚いたのは、そこにチチ・ロドリゲスが出ていてね、当時の日本オープンより遥かに活気があったんです。その様子を写真に撮ってレポートを出して、直後の4月には台湾オープンに出場した。これが現役最後の試合です。前の晩に紹興酒を飲みすぎて、成績はまあ、そこそこでした(笑)。 ゴルフ人口の拡大は、こういった海外の風景がベースになりました。中村寅吉さんの協力で一気にボールのシェアを取ったように、ゴルフの普及はプロ戦略が有効だと、確信めいたものがありました。プロの試合を盛り上げれば、ゴルファーはもっと増えるはずだと。そこで手始めに自社の冠大会を始めたのです。 <i>1969年(昭和44年)、住友ゴム工業は同社初の冠大会「ダンロップゴルフトーナメント」を開催した。賞金総額は400万円、優勝賞金が100万円。同社の井上文左衛門社長(大会会長)はパンフレットで「日ごろダンロップゴルフ用品をご愛用いただいているゴルファーの皆様へのプレゼントです」と語っている。 目玉は全英オープンを5度制したピーター・トムソン(1954年~3連覇)の出場で、日本勢は中村寅吉を筆頭に和製ビッグスリーの杉本英世、安田春雄、河野高明(同大会優勝)らが参加するなど、まさにゴルファーへの「プレゼント」だった。</i> 翌昭和45年、ぼくは初めてマスターズを観戦し、そして魅せられました。日本でもこんな世界を作って、第二、第三の「寅さん」を生み出さなければならないと、興行の世界にどんどんのめり込んでいったのです。 この年から下川さんが社長に就任されましてね、またもや直談判に伺いました。和製ビッグスリーと住友ゴムの共同出資で「ビッグスリーエンタープライズ」を作りたいから、承認して下さいというものです。資本金は100万円だったかなあ、やることは豪州のプロ4人に日本のビッグスリーとジャンボを加え、総勢8人が「日豪対抗戦」をして歩く。 言ってみればどさ回りですな(苦笑)。1人当たり20~30万円をゴルフ場から出してもらい、ギャラリーは500人も入れば上出来でした。 これはもう、本当に忙しかったですよ。1週間で5県回ったこともあるほどでね。徳島から熊本、宮崎をフェリーや電車で行くわけです。今でも印象深い光景は、田舎の寂しい駅のホームで、ジャンボが空を眺めていた。あの頃は煙草を吸わなかったんじゃないかな。トーナメントも少なくて、「どさ回り」が本業みたいなものでした。これから先、どうなっていくんだろうと。田舎の駅で、不安があったのかもしれませんなあ。 まあ、いつまでも「どさ回り」をやってるわけにもいきません。そんなわけで翌年、ぼくは思い切った興行を打ちました。 ダンロップのユーザー組織(ゴルフメイトクラブ)を強化するために、ジャンボが出場するニュージーランドPGAの観戦ツアーを組んだのです。一人39万円で10日間、飛行機をチャーターしましてね、総勢123名です。たしかトヨタの『パブリカ』が39万円だったから、自動車と同じ値段ですよ。飛行機のチャーター代は4000万円で、団長は糸山英太郎さん(元衆議院議員)にお願いしたのです。 ところが、これが大問題に発展した。土壇場でね、会社が「認めない」となったわけです。社内の突き上げがあったんでしょう、「興行師の大西に好き放題やらせるなッ」というわけで、これには本当にまいりました。 いよいよ進退窮まって、だったらオレが自腹を切ってやろうじゃないかと。自宅を担保に2000万円借金して、どうにか実現に漕ぎ着けた。でね、羽田に来た上司に辞表を叩き付けたわけですよ。13箇条からなる激烈な上層部批判を書き込んで、そのまま飛行機に乗り込みました。 帰国して1ヶ月ほど経った頃、下川さんに呼ばれましてね。「会社を思って辞めるのは筋違いだ。もう1回やってみろ」と。あの一言は本当に嬉しかったし、私を救ってくれましたねえ。 ところで、このときニュージーランドPGAを制したのはジャンボです。国内で112勝の彼が、唯一海外で勝った試合です。 <strong>月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年3月号「シリーズ温故知新」掲載</strong> <a href="https://www.gew.co.jp/tag/%E6%B8%A9%E6%95%85%E7%9F%A5%E6%96%B0">シリーズ温故知新の記事一覧はこちら</a> <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年06月11日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> <i>住友ゴム工業へ入社した大西氏は、1個350円の高額ボール『ダンロップ65』の販売不振に苦しむことになる。ブリヂストンの低価格ボールに対抗するため値下げを行い、それが裏目に出て在庫を抱えてしまった。しかし、そこから怒涛の巻き返しがはじまった。</i> <strong>毎週火曜日掲載</strong>   窮地を救った恩人は寅さん ぼくが入社したのは昭和34年ですが、その前年に発売したばかりのゴルフボールは、在庫の山を築いてしまった。先行していたブリヂストンのボールに対抗するため、値下げをしたのが原因ですよ。 あの頃は物品税があったでしょ、価格を改定したことでショップから返品をくらってしまい、それが瞬時に山になったというわけですな。まあ、茫然自失の状況ですが、翌年に大逆転があろうとは、まったく思いもしなかったですねえ。  この年の7月13日。値下げの問題を整理したあと、私は神戸本社から東京へ赴任しました。関西は上司の大橋貞吉さん、関東はぼくが営業を担当するということで上京したわけですが、まあ、そのオフィスっていうのが溜池(赤坂)の傾いたビルでしてね…。東京の上司は特殊用品(ボール、自転車チューブ等)の課長だから、ゴルフを知らんわけですよ。ということで、好きなようにやらせてもらいました。 たとえば、赴任してすぐ千葉CCの会員権を200万円で買ってくれるなど、新入社員には異例の待遇でした。だから、ダンロップの「契約プロ1号は大西だ」とか言われまして、年間100日はゴルフでした。 日曜はほとんど試合に出ていたし、平日もゴルフ場で過ごしている。まあ、セミプロみたいな扱いですな。さすがに上司も「大西君、毎日はまずいだろう」と叱るんですが、あの頃は「エンターテイメントフィー」というのがあって、要するに接待交際費のことですね。上司の予算を、ぼくが好き放題使っていた(笑)。 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの中村寅吉さんが砧(世田谷区)にいらっしゃいました。東京への赴任直後、週に3日は通いましたね。ぼく自身、学生時代は競技ゴルフでそこそこの成績をあげていたので、プロの世界も承知している。そんなわけで、ダンロップのボールを売るためには、プロから訴求しようと考えたのです。いわゆるトップダウン戦略ですな。「寅さん詣で」はその伏線ですよ。 で、翌年からプロの月例会を真剣に回り始めました。関東月例に20ダース入りのカートンを3つ担ぎ、電車を乗り継いで運ぶとかね。いま思えば大変な重労働ですが、評判は上々だったですね。 あの頃のプロは社会的な地位がもの凄く低くて、ボールを手に入れるのも四苦八苦でしょ。今はメーカーから当たり前のように支給されますが、当時はまったく違います。ぼくが持ち込んだ『ダンロップ65』は1ダース3600円でしたが、これを2200円で販売したら飛ぶように売れるわけですよ。 一人1回1ダースが条件でしたが、「頼むからもう1ダース売ってくれ」と拝むように言われる。もちろんキャッシュオンデリバリーです。帰路は荷物がなくなる代わりに、財布が膨らんでおりました。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/06/dunlop65_1958.jpg" alt="Dunlop65 1958年モデル" width="420" height="420" class="size-full wp-image-44600" /> Dunlop65 1958年モデル <h2>契約は年10万円とボール提供</h2> <i>今やメーカーの「プロ戦略」は当たり前だが、それは大西氏の当時の成功に端を発している。同社は1959年、中村寅吉プロとボールの使用契約を交わしたが、国産品としてはこれが第1号契約で、直後のカナダカップ(豪州大会)で使用した。 中村プロは当時、岡山県のボールメーカー、ファーイーストと関係が深く、『トラピート』の商品名でボールを販売していたが、ほどなく住友ゴム工業へシフトすることになった。契約に対する社会的な認識は未成熟で、中村プロへは「年間10万円程度の支払いと製品提供」が行われた。 1957年にカナダカップ(霞ヶ関CC)を制した中村プロの影響は絶大だった。当時、国内のプロゴルファーは150人ほどで、中村プロの号令一下、大半のプロが『ダンロップ65』を使い始めた。</i> 当時は「外ブラ」の天下でしたな。クラブはスポルディングやウイルソンの時代だし、我々の『ダンロップ65』も、英国製は信頼されるけど日本製は信頼されない。生産機械は輸入品で、糸ゴムを作る技術も難しかったわけですよ。 主流だった「糸巻きボール」の製法は、10倍に伸ばした糸ゴムを芯に巻いて、インパクトの瞬間12倍になるというものです。その伸縮率で飛ばす仕組みなんですが、伸ばし過ぎると硬くなる。つまりコンプレッションが不均一で、大きさについても同様です。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/06/dunlop65_1966.jpg" alt="Dunlop65 1966年モデル" width="420" height="420" class="size-full wp-image-44601" /> Dunlop65 1966年モデル それと、原価に対して40%の物品税が課せられていたでしょ。たしか7掛けで卸したと思いますが、1000円のボールが1400円になるわけです。そこまで高いとPX流れの外国品になびいてしまう。というわけで、我々の『ダンロップ65』も当初は旗色が悪かったのです。 こういった流れを一変させたのがプロ戦略です。中村さんの口利きもあって国内プロのほぼ全員が『ダンロップ65』を使い始めた。プロの周りにはトップアマがいますよね。彼らの口コミが一斉に伝わったおかげで在庫の山は瞬時に消え、作れば作るだけ売れました。 で、代理店にはぼくが分配しました。三越さんの担当者から「頼むから40ダース売ってくれ」といわれたり、「仕方ないですなあ」とか言いながら、分配して差し上げたわけです。殿様商売みたいなもんですよ(笑) 印象に残っているのは戸塚CC(神奈川県)の売店ですね。ガラスケースに置く商品はダンロップだけにしてくれとお願いしたら、本当にやってくれましたよ。 その後、代理店制度は急ピッチで進みます。マツダゴルフや銀座ゴルフ、日本ゴルフや日東スポーツ、双葉ゴルフなどと連携を深めた結果、一気にゴルフ場ルートの9割以上を抑えてしまった。このとき、全国シェアは8割を超えたはずです。住友ゴムはタイヤの苦境で赤字会社でしたけど、ボールの利益で立ち直った。ボールはね、窓際の特殊用品課が扱っていましたが、社内の利益頭になったのです。 成功の要因は、第一にボール事業を始めたこと。第二はゴルフブームで、第三は寅さんの協力です。ダンロップにとって寅さんは大恩人。本当に感謝しております。 ところで、ぼくは昭和39年に神戸本社へ戻るまで、東京で5年間を過ごしましたが、この間発想したのはボールで作ったブランドを拡大する方法でした。 当時のトップアマにはBSの三好徳行さん(1953年~日本アマ3連覇)がいらっしゃいましたが、ボールはダンロップを使われていた。一般のゴルファーも新品を買えるひとはダンロップ、手が届かないひとはロストボールといった二極化で、もの凄い商品力を確立した。そのパワーをゴルフ用品全般に広げようと考えたのがひとつ、さらには「第二の寅吉」を作ってピラミッドの頂点を磐石にして、一気に底辺を拡大する考えです。 当時のプロ契約は宣伝広告の範疇ではなく、彼らを援助するという形でね、関西では橘田規さんに白羽の矢を立てました。 こういった戦略は結果的に、プロに凄く喜ばれましたね。中村さんや橘田さん、戸田藤一郎さんにしましても、プロの社会的な位置付けは格段に低かったわけですよ。さらにその下は推して知るべしで、プロゴルファーの生活は楽ではなかったのです。だから「頑張ってダンロップと契約できる選手になるんだ」と、ある種の夢といいますか、野球のドラフトみたいなもんですな。ダンロップとの契約が彼らの目標になる。プロゴルファーに活力を与えることができたと自負しています。 <i>1963年(昭和38年)10月、英国ダンロップは保有していた日本ダンロップの経営権を住友電工へ移譲し、住友ゴム工業が発足した。経営陣は日英の幹部が混在したが、これにより日本企業としての足場を固める。同社は以後、人材育成や労使関係の協調、変わったところでは社内の「英語公用制度」を廃して日本語を公用語に改めるなど、英国支配からの脱皮を意欲的に目指した。 タイヤとボール工場の近代化(スペース拡大、無人化、連続化)も、この流れに連なったものだ。当時はスモールボールとラージボールの2種類があり、生産比率は前者が8割、後者が2割で、各倍増の計画が持ち上がる。 市場環境が好転し、1957年に116箇所だったゴルフ場は1962年に330箇所、同年のゴルフ場入場者は378万人だったが1965年には1126万人へと激増する。ゴルフブームの波が押し寄せ、強気の計画を後押しした。</i> <strong>月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年2月号「シリーズ温故知新」掲載</strong>   <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年06月04日
    月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号~2006年3月号に掲載していた、大西久光氏の「シリーズ温故知新」をWeb用に編集したものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> <i>ゴルフは国内最大のスポーツ産業だが、その基礎をトーナメント、ゴルフ用品等の世界で形作ったのが大西久光氏である。現ゴルフ緑化促進会理事長、日本ゴルフツアー機構では理事(前副会長)を務める。住友ゴム工業の常務時代には、当時無名だったキャロウェイゴルフを日本に紹介、世界の大手メーカーになる下地を作った。 大西氏は、自身の半生をどのように振り返るのか。その足跡は、国内ゴルフ産業の発展史と重なるだけに興味深い。</i> <strong>毎週火曜日掲載</strong> <h2>暴れん坊はゴルフをやれ!</h2> ぼくがゴルフを始めたのは、父親の影響が大きかったですね。 昭和30年、関西学院大学へ入ったときは体重が54キロでしたけど、力はめっぽう強かったのでレスリング部に入りました。ところが、普段は何も言わん父親が、このときばかりは反対した。気性の激しいぼくがレスリングやったら手がつけられんと思ったのか、精神修養にいいからゴルフをやれと・・・・。おじんのスポーツは嫌やったけど、あの頃の時代は父親に権威がありましたからね、不承不承従ったわけです。 当時よく回ったのは、阪神競馬場の中に仁川ゴルフ場というのがありましてね、一日150円でプレーできました。まともなロストボールが200円だったから、そりゃもう、ボールは恐ろしく高価なもんですよ。当時は今と違って、ボールの芯に糸ゴムを巻き付ける「糸巻きボール」だから、トップすると中のゴムが飛び出してくる。 そんなボールを50個くらい集めてきて、自宅に網張って練習をした。グローブは高いから軍手です。それに父親からもらった名もないクラブ・・・・、最初はドライバーと5番アイアン、8番アイアン、それとパターで始めました。 当時はミズノさんのお店にもゴルフ用品はなかったですね。元町(神戸市)に小さなゴルフショップがあって、ここにもサラはなかったと思うな。それで中古クラブを1本ずつ買い足すわけですが、新しい番手が増えるのは嬉しかったですね。最初はバンカーショットも8番で打っていましたが、サンドウエッジだと簡単に出せる。そうやって一本一本増えていった。 <i>大西氏が大学3年時にカナダカップ(1957年、霞ヶ関CC)が開催され、中村寅吉、小野光一の日本チームが個人、団体ともに優勝を遂げた。それが第一次ゴルフブームの発火点だが、他社に先駆けてクラブの国内生産に踏み切っていたミズノも、当時の年間生産量は1万8869本(ミズノ調べ)とわずかなもの。産業としてのゴルフ市場は夜明け前の様相だった。 カナダカップを観戦した大西氏は以後、競技ゴルフに没頭する。4年時にはゴルフ部主将、同年の関西学生選手権ではその後日本アマを6度制する中部銀次郎氏と2回戦で対決し大勝した。同大会は準優勝、この年の関西学生リーグで優勝を果たすなど、着実に頭角を現していった。</i> 中部さんとの戦いは、今でも鮮烈に覚えていますよ。彼はぼくより5歳年下で、高校生なのになぜか大学生の試合に出場していた。その理由は謎ですが(笑)、前評判は物凄く高かった。恐ろしく上手いというか、ショートゲームが明らかに違うんです。こっちは18歳から始めたでしょ。つまり腕力がすでについているから、右手と左手の感覚に苦しむわけですね。 彼の場合はジュニアの走りですから、左右が違和感なくひとつに合体している。この差はあまりに大きかったですね。 でもね、会場となった廣野GCの15番で、ぼくが中部さんを退けた(4&amp;3)。スターティングホールでダブルボギーを叩いたときは、泥水のような汗が体中から噴き出したりして、それこそ、うわ~っとなりましたが、不思議なのは2番ホールからの集中力です。 ぼくの視界から銀ちゃんが完全に消えてしまったのです。もう、勝つも負けるも関係なく、どんどん無心になっていって、やることなすこと全部上手くいく。人づてに聞いた話なんですが、あとで銀ちゃんはこんなことを言っていたそうです。 「プレー中、大西さんがヘンなことを言ってるんです。あいつが神の子なら、俺は仏の子や。負けてたまるかっ!て・・・・」 まあ、そんなわけでゴルフにどんどん没頭して、いずれ全日本アマを取るんだと、明確な目標もできました。 だから大学の先生も「大西君、卒業したらプロになりなさい」というわけです。 <h2>プロの地位は極めて低かった</h2> ただ、僕にしてみれば先生の言葉は心外でしたね。学卒のプロは鈴木照男さんが最古参ですが、昭和30年代には大学を出た学士プロなんかいませんし、今と違ってプロの地位は極めて低いものでしたから。 杉本英世さんが日本オープンに優勝したときなんか、賞金は50万円だったかな。当時のゴルファーは実業家とかお偉いさんばかりだったので、大半のプロはお金持ちにべったりで、クラブ磨きや靴磨き、グリップ交換をやらされるなど「なんでも屋」みたいなもんですよ。 「ブルジョアスポーツ」って言葉は嫌いやけど、今の中国と同じでね、一握りの金持ちが現れて、その人たちの社交・社用に重宝されていた。ほとんどのゴルファーは経営者だから、プロはクラブハウスのレストランにも入れなかった。そんなわけで、プロになる気なんか毛頭ありません。 で、卒業を控えて悩んでいたら、廣野のハンデ2だった大橋貞吉さんがダンロップへ来いと誘ってくれたんです。というのも、ぼくが大学4年のときにダンロップはボールの生産を始めたばかりで、大橋さんは販売の責任者でした。以前から親交がありましたし、ゴルフを通じてぼくの人柄もご存知だった。あの誘いは本当に嬉しかったし、二つ返事で入社しました。 <i>大西氏が日本ダンロップ護謨(現住友ゴム工業)へ入社したのは1959年で、同社がゴルフボールの生産を「再開」した翌年に当たる。 住友ゴム工業が国産初のゴルフボールを生産したのは1930年(当時は英国資本の極東ダンロップ)で、大沢商会が販売代理店となっていた。ブリヂストンの国産1号ボールが1934年のこと。極東ダンロップは英国ダンロップが開発した『ダンロップ65』の輸入も始めるなど、市場開拓に意欲を見せるが、第二次世界大戦の影響でゴルフボール事業はほどなく閉鎖に追い込まれている。 その後、同社は長らくゴルフ市場から離れるが、再開に踏み切ったのが1958年で、大西氏が入社した前年に『ダンロップ65』を復活させていた。 戦後の荒廃期を脱してゴルフ市場は活気を取り戻すが、輸入量の少ないゴルフボールは米軍施設内の売店(PX)や闇ルートで細々と流通するに過ぎず、当時の価格で平均的には1ダース1200円と高値だった。 ダンロップは国内生産に踏み切って、流通量の底上げを目指す。当初はボール工場の建設を住環境のよい四国などで検討したものの、結局は神戸工場の3階に製造ラインを設置する。ただし、販売価格はかなり高価だった。</i> <h2>返品の山で茫然自失</h2> 『ダンロップ65』は1個350円で発売しました。これはもう、かなり高額ですよ。当時はゴルフ場で飲むミルクが15円、西宮CCのメンバーフィが700円だったから、如何に高いかわかるでしょう(笑)。ゴルフ場の理事長も林に打ち込んだボールを必死になって探したし、ある人がインドへボールをもっていったら、宝石の原石と取り替えてもらったという。これ、本当の話ですよ。嘘みたいな本当の話がごろごろある。 ただ、品質は今とは比べ物になりませんでしたね。どんなに上手く打っても9ホールもてばいい方だし、プロも2個で1ラウンドが鉄則でしたから。 それにしても、当初は全く売れませんでしたなあ(苦笑)。先行したブリヂストンの『Qボール』(250円)と『Gボール』(150円)が安さもあって、市場の人気をさらっていたのです。そこでぼくは、350円を300円に下げるよう進言したわけですが、あの頃は(贅沢品に課せられる)物品税があったでしょ。価格改定すると課税額を変える必要があるから返品をくらって、それが山積みになってしまったわけですよ。 中にはBSの箱に入って戻ってくる物もありましたな(苦笑)。 初夏だった。当時のダンロップはタイヤ以外を特殊用品課と称して、自転車チューブとゴルフボールを一緒に扱っていた。言ってみれば窓際ですよ。 その窓際の会社の隅に狭いスペースがありましてね、在庫の山に囲まれてしまった。大橋さんと顔を見合わせて、まさに茫然自失。二人とも大汗をかいていましたよ。まさか、その直後に大逆転があるとは知る由もなかった。 <strong>月刊ゴルフ用品界(GEW)2005年1月号「シリーズ温故知新」掲載</strong> <hr /> <a href="https://api.banto3.net/url/ts/g/34v9ez7x">「ゴルフ産業を創った男」記事一覧はこちら</a>
    (公開)2018年05月28日

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