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    ハッシュタグ「シリーズ練習場ビジネス」記事一覧

    イトーゴルフガーデンは、東京都武蔵野市関前にある2階建て57打席150ヤードの練習場だ。井の頭通りに面しており、道を挟んで東京都水道局と境浄水場がある緑豊かな環境である。取材は平日の午前中だったが、1階打席は満員で、朝から賑わいを見せていた。 筆者は都内から車で訪問したが、交通のアクセスも良く、また、三鷹駅北口からバスで10分程度の立地。ちなみに境浄水場は1924年に通水した、日本で最大規模の緩速濾過方式の浄水場で、沈殿・濾過・殺菌処理された水は、千代田・渋谷・世田谷区などに給配水されている。この練習場の成り立ちやコンセプトについて、株式会社イトーゴルフガーデンの伊藤博通社長に取材した。 イトーゴルフガーデンが竣工したのは1972年10月。創業者は博通社長の父・平司氏で、同氏は現在会長を務める。伊藤家は代々この武蔵野の地で農業を営んでいた。練習場の横には樹齢300年を超える武蔵野市登録文化財の市登録天然記念物である「伊藤家の大ツバキ」が植えられている。伊藤家は長く、この地で生活を営んできた。 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2024/06/202405shima2.jpg" alt="" width="1000" height="854" class="size-full wp-image-81819" /> イトーゴルフガーデン大椿 練習場の創業は、平司会長が40歳の時だった。伊藤家は、都市近郊にある利点を生かし様々な作物を栽培していた。特に平司氏は、それまで栽培されていなかったカリフラワーやブロッコリー、セロリなどの西洋野菜に果敢に挑戦するなど、農業経営は順調であった。 ところが、1964年の東京オリンピックを機に首都高速道路が各地に伸び、1967年に中央自動車道が開通すると、流通革命が起き、東京近郊の農家にも大きな影響がでてきた。長野県などの品質の良い高原野菜が即日市場に出回ることで、競争力が衰えてきた。また、高度成長期の都市化が進み、土地の価格が上昇。農業の継続が厳しくなる。 「そこで、当時38歳だった父は農業から土地を有効活用して、新事業を決意しました。近隣に小規模のゴルフ練習場があった。父はゴルフ経験がなかったものの、そこを訪ねたらたいへん賑わっていた。伊藤家の土地を使って大きな練習場を経営しよう、と閃いたそうです」 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2024/06/202405shima3.jpg" alt="" width="1000" height="672" class="size-full wp-image-81820" /> イトーゴルフガーデン開所式 アクションは早かった。取引銀行に都内の練習場の収支を調査してもらい、経営の数値を把握する。近隣の三鷹の友人がゴルフ練習場を経営していたので、話を聞いて「ゴルフというスポーツはもっと流行るにちがいない」と確信。ゴルフ練習場のための事業資金1億7000万円を銀行から借り入れたという。 1971年に農業を止め、練習場の設計など準備を進め、1972年5月に着工、10月に完成。高度成長期で建築資材が高騰する中、即断即決が奏功して、完成後すぐ価格が3倍に上がったのを避けられた。 イトーゴルフガーデンは開業時に「有限会社イトーゴルフセンター」だった。平司氏がシンプルな社名を好み苗字から取ったが、苗字の「イトウ」を「イトー」としたのは、当時イトーヨーカドー、ダイエーなど音引きの企業名が増えたことにちなんでいる。ゴルフブームもあり、経営は順調に推移していった。 バッティングセンターも 1975年に空き地を利用して7ホールのショートコースを併設。1980年に、敷地内に緑を多く植えたことから「ガーデン」の文字を加え、現在の「株式会社イトーゴルフガーデン」に社名変更。現在、ショートコースはアプローチ練習場と5打席のバッティングセンターになっており、野球の練習もできる。周辺には少年野球チームが多く、親子や子供たちに喜ばれているが、運営にはシルバーセンターの人材を活用している。息子の博通氏は2012年10月に代表取締役社長に就任し、現在60歳で経営を担っている。 「学生時代はゴルフに興味がなく、自動車の草レースやエンジンの分解などが趣味でした。24歳で、自然な流れで家業に入りました。練習場やバッティングセンターの設備の修理は、部品さえあれば私ができる。趣味が生きてますね(笑)」 イトーゴルフガーデンの特色は、 70ヤードまで天然芝で、アプローチの球の転がりやスピンコントロールが体験できる。芝から打てるアプローチ練習場もあり、 「お客様のスコア向上、健康維持、コミュニケーションの場を目指しています。お客様が気持ちよく練習できるよう、ボールとショットマットは早めに交換しています」 このような配慮がウケて、平日の午前中でも1階打席は待ちがでることもある。平日は8時30分開場なのだが、7時過ぎから、 「お客様がバッグを置いて、楽し気に会話しながら待っている。コミュニケーションの場になってます」 特に平日の午前中が人気なのは、博通社長が提案した工夫による。バブル崩壊後、客数が減少した時に、平日の午前中に入場すると3カゴ以上打った場合1カゴサービスの割引を始めた。これを20年以上続けているが、火曜日のレディースデイも、女性客は終日1カゴサービスが受けられる。 来場者は年間10万人で、商圏は武蔵野市内が中心だが、アクセスの良さで都内からも来場する。女性の来場比率は2割。ゴルフスクールは2階打席を活用し、フリーのプロ、インストラクターのレッスンには施設使用料を課していない。練習場には来場者の打席・ボール使用料が入るだけでOKと太っ腹だ。練習場のコンペIGG会は426回を数える。 地域貢献にも前向きだ。消防団、防犯協会、武蔵野法人会などに積極的に参加して、会長・団長などの役職を親子2代にわたり引き受けている。練習場の課題として「人材確保と相続税による事業継続の難しさ」があるそうで、次世代へ如何に残していけるかを思案する日々だとか。地域密着の練習場・イトーゴルフガーデンの賑わいが、次世代も続くことを期待したい。 <hr /> この記事は弊誌月刊ゴルフ・エコノミック・ワールド(GEW)2024年5月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <a href="https://bt3.jp/url/ts/g/z9lenol2">月刊ゴルフ・エコノミック・ワールドについてはこちら</a>
    (公開)2024年06月23日
    「よみうりゴルフガーデン」は、東京都稲城市と神奈川県川崎市にまたがる広大な敷地の遊園地「よみうりランド」内に位置する練習場。今回の取材は車で訪問した。よみうりランドのゲートから中に入った、よみうりランド大駐車場の横に位置している。住所は神奈川県川崎市多摩区である。取材したのは8月で、よみうりランドの駐車場からアクアエリアのプールに向かう家族連れが多くみられた。同練習場の成り立ちやコンセプトについて、株式会社よみうりランド・よみうりゴルフガーデンの山田孝治支配人を取材した。 練習場の事業主体は株式会社よみうりランド。同社は読売新聞グループ本社の基幹7社の一つで、総合レジャー事業、不動産事業、ボールパーク事業、サポートサービス業を担っている。レジャー事業の中には遊園地部門、ゴルフ場経営のゴルフ部門、競馬・オートレース・競輪等施設運営の公営競技部門、ゴルフ練習場・温浴施設・親子向け屋内遊戯施設等を経営する健康関連部門、食堂・売店経営の販売部門と広範だ。 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/11/yyomiuri2.jpg" alt="" width="1000" height="678" class="size-full wp-image-79389" /> よみうりゴルフガーデン受付 よみうりランドは「大衆へ奉仕する」という創始者・故正力松太郎の言葉から始まっている。会社設立は1949年で公営競技事業に始まる。ゴルフは昭和30年代「一部の上流階級のスポーツでしかなかったゴルフを一般大衆へ開放しよう」という創始者の思いから、1961年(昭和36年)に東京よみうりパブリックコース(現:よみうりゴルフ倶楽部)をオープンしている。 1964年東京よみうりカントリークラブ、1978年千葉よみうり、1985年静岡よみうりをオープン。1993年3月21日に練習場の「よみうりゴルフガーデン」を開業した。今年で開業30年を迎え、ラウンジには30年記念のディスプレーが施されていた。練習場は2階建て1、2階各40打席、計80打席で、距離180ヤードは創業時と同じ。 実は同じ場所で、1974~92年までテニスコート「よみうりテニスガーデン」を経営していたが、市場規模が大きいゴルフ練習場に業態変更。ただし、ゴルフ場に併設される練習場を除けば、練習場単体として経営するのはよみうりゴルフガーデンのみ。山田支配人いわく、 「少子高齢化でゴルフ市場の拡大が望めない中では、練習場事業の拡大も厳しいのではないか」 と、現状を冷静に見る。 フロントの女性は制服を着ていて、雰囲気はゴルフ場の受付けのよう。よみうりランドは東京2場、千葉1場、静岡1場と計4コースを運営しており、その雰囲気が色濃くある。ラウンジから外をみると650㎡の天然芝のパッティング練習場があり、ゴルフ場のような雰囲気を漂わせている。 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/11/yomiuri5.jpg" alt="" width="1000" height="692" class="size-full wp-image-79392" /> よみうりゴルフガーデングリーンスピード 「このパッティンググリーンは東京よみうりCC、よみうりGCと同じグリーンキーパーが管理しているので、ゴルフ場と同じクオリティーを保っています」 練習場のパッティンググリーンとしては最高水準と思われ、グリーンスピード、刈り高が表示されていた。その奥には5打席のバンカー練習場があり、専用のターゲットグリーンを併設。コース仕様の質の高い砂を使用して、実践的な練習ができるという。 練習場を複眼的に見る <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/11/yomiuri4.jpg" alt="" width="1000" height="750" class="size-full wp-image-79391" /> よみうりゴルフガーデン・バンカー 「ゴルフ場で培ったノウハウを存分に活かした本格的なレベルのパッティンググリーンと、練習用バンカーを備えることが当練習場の特徴のひとつです。また、フレンドリーで親切な接客を通じて、地元のゴルフ愛好者に末永く愛される練習環境の提供を基本としています。スクール運営にもこだわっており、ゴルフを楽しく続けてもらうことを念頭に置き、専属のプロが一人ひとりの技術レベルに合わせて最適なレッスンを心掛け、継続的に練習場に足を向けていただけるようにしています」 練習場の各打席はフルオートティーアップ、冷暖房完備で、この暑い夏でもダクトから冷風が送られ快適に練習できる配慮が行き届いていた。商圏は半径10㎞圏内で、川崎市多摩区、麻生区、稲城市が中心とのことである。来場者の年齢は60~70歳代が中心で、男女比は8:2とのことである。 「来場者の多くが地元地域の居住者で、ゴルフを通じて健康促進と充実した時間を提供しています」 フロントで事前清算してから打席を指定。ボール貸し、打ち放題ともに両立できるシステムだ。 よみうりランドの社員である山田支配人は1997年入社で、同練習場の支配人になって1年半、その前はよみうりランド内にあるフラワーパーク「HANA・BIYORI」の支配人を務めていた。以前はよみうりGCのキャディーマスターも経験しており、 「ゴルフ場を経験してから練習場の支配人になって思うのは、同じゴルフでも双方の雰囲気はぜんぜん違って、練習場では心からフランクになれるんですよ(笑)」 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/11/yomiuri3.jpg" alt="" width="1000" height="750" class="size-full wp-image-79390" /> よみうりゴルフガーデン・グリーン ゴルフ場に比べると、練習場は気楽にゴルフに接することが出来る雰囲気があり、敷居の低さを実感したとのことである。また、現在は練習場の支配人と兼務で、全国に4か所あるフランチャイズの全天候型屋内キッズ施設「KID‒O‒KID(キドキド)」のキッズ施設運営課の支配人も務める。多様な部署を経験した上で練習場の支配人をしている中で、練習場の課題を山田支配人は、 「全体として高齢化が進んでおり、次世代、若年層、女性ゴルファーの掘り起こしが喫緊の課題です」 子供施設の運営に携わり、よみうりランドという、家族連れや子供が多く集まる施設に位置する練習場だけに、練習場事業を複眼的に見られることが同氏の強み。若年層や女性ゴルファーを取り込むための新しいイベントや発想、他の事業との連動性を含め、練習場業界に新風を吹き込むことを期待したい。 <hr /> この記事は弊誌月刊ゴルフ・エコノミック・ワールド(GEW)2023年10月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <a href="https://bt3.jp/url/ts/g/z9lenol2">月刊ゴルフ・エコノミック・ワールドについてはこちら</a>
    (公開)2023年11月12日
    WOWCA蕨(わらび)ゴルフクラブは埼玉県のJR蕨駅から徒歩10分、蕨駅と西川口駅の間の県道110号線沿いにある。周りにはドラッグストア、スーパー、スポーツクラブ、飲食店があり、便利な商業地の中にある。 入り口には、この練習場の象徴である大きな枝垂れ桜がある。取材時には桜の季節は過ぎて、青々と葉が茂っていた。この練習場の成り立ちについて、WOWCA蕨ゴルフクラブの貫井(ぬくい)俊男支配人にレクチャールームで話を聞いた。部屋の壁紙は、図書館のように本が並べられたデザインで、他の練習場とはちょっと違う雰囲気を感じた。 同施設の設立は1974年と、半世紀になる。貫井氏の父・紀男氏が開業したもので、同氏は現在82歳で健在である。 貫井家は、墓誌の残された記録から、少なくとも300年以上前の享保年間からこの蕨の地で広く農業を営んでいた。紀男氏の父親は太平洋戦争で戦死され、一家の大黒柱を失った中、残された家族は農業や土地の賃料などで生活を営んでいた。紀男氏は大学を卒業してすぐ、残された土地の活用を考えて1年ほどガソリンスタンドで修行し、1964年にガソリンスタンド事業「貫井石油」を始めた。当時、都市化が進み、今後の土地活用を進める中での決断であった。 幸い、曽祖父の時代に蕨と西川口の間に道路を作る計画があり、曽祖父が自分の土地に道路を通すことを了承。県道が通る交通至便な土地となり、ガソリンスタンドの営業に好立地であった。ガソリンスタンドを続ける中で、貫井家の土地をゴルフ練習場用に貸してくれないかとの話が持ち込まれた。父親の紀男氏は、先祖伝来の土地を貸すつもりはなく断ったが、税金対策を含めて農地や遊休地の活用を思案、自らゴルフ練習場を経営する決断をした。練習場が1㎞圏内にないことも理由の一つだったという。 「当初は、ゴルフの練習をしている間に、ガソリンスタンドで洗車してもらうことも考え、ガソリンスタンドと練習場を両立できるはず」 と考えたが、準備を進める中で両方の経営は難しいと考え、土地を広く使えるゴルフ練習場に経営資源を絞ることにしたという。 紀男氏は大学時代を含めて、ゴルフは未経験だったが、人づてを頼りながら2年かけて準備を進め、1974年に開業。2階建て、32打席70ヤードで、現在と同じ規模である。9ホールのショートコースも併設した紀男氏は、ガソリンスタンド経営時代から、モノを販売することが好きで、ベンホーガンの特約店となりクラブ販売にも注力した。 練習場の創業時の名称は「蕨ゴルフクラブ」で紀男氏が命名。近隣に「蕨ゴルフ練習場」が在り、ショートコースも併設したので「蕨ゴルフクラブ」とした。貫井支配人が当時の記憶をこう話す。 「ゴルフブームもあり、昭和から平成に向かう時代でお客様がどんどん増えました。午前中は練習場、午後はショートコースで『一日遊べる』と好評だったようです。私が子供の頃、待合室には人が溢れ、たばこの煙で白かったことを覚えています。お客様は店屋物で味噌ラーメンを注文して、休憩の合間に食べてショートコースへ行ってました」 地域の憩いの場となった。しかし父親の紀男氏は、現在に至るまでゴルフを一切しないという。 <h2>「桜花」と「謳歌」</h2> <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/10/warabi2.jpg" alt="" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-79146" /> そのショートコースは、1996年から段階的に縮小していった。コース管理の大変さと越球問題があったからで、売上も含めて土地効率が悪かった。最初にショートコースの3ホールを廃止して、スポーツクラブとした。その後、1998年に4ホールをスーパーにして、土地活用を推進した。貫井氏は1995年に大学へ入学、理学部であったが、卒業後経済学部に学士入学して、「街づくり」をテーマに学んでいた。 父親の紀男氏が、蕨駅前再開発の役員をしており、父親との会話のなかで街づくりに興味を持ったことがきっかけであった。2002年に会社に入り、他の練習場経営者との交流や情報収集して、ゴルフ練習場を改革していく。最初に取り組んだのは営業時間の拡大で、営業開始を朝9時→6時に変更。その後、打席の塗り直し、ボール、マットの更新などを進めていった。 また、ショートコースの残り2ホールをアプローチエリアや試打イベントに活用していたが、2010年にドラッグストアに変えて経営効率を図る。現在は貫井氏が実質的に経営をして、父・紀男氏に報告する体制となっている。ただ、開場当初から、打席間は天井までの仕切りネットがあり、お客様安全第一主義は変わっていない。 貫井支配人がポリシーを語る。 「練習場経営では、日々の『生活の場』を意識しています。誰でもゴルフを始められるよう、レッスン、レンタルクラブ、二木ゴルフの中古クラブを販売したり。仲間ができる仕組みづくりとして、スクールやコンペなどを用意。また、練習場はどうしても敷居が高いので、スポーツクラブ的な雰囲気を心掛けているんですね。『楽しさふくらむ』の想いを表現したロゴマークやキャラクターなどで、親しみやすい雰囲気づくりを目指しています」 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/10/warabi3.jpg" alt="" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-79148" /> 現在の名称「WOWCA蕨ゴルフクラブ」は、2010年に貫井支配人が考えた。 「WOWCAは『おうか(桜花)』と呼びます。練習場の入り口にある枝垂れ桜であり、蕨のWを意識し、人生を『謳歌』してもらいたいとの想いを込めました」 正直読みづらいが、そこに込めている同氏の想いが伝わってくる。事業継続については、 「練習場は設備産業なので、クラブハウスは1997年に建替え、打席は自分の代の責任として2016年に建替えました。鉄塔は安全調査を実施していますが、創業当時のままなんですね。ただ、鉄塔の建替えは次の代にかかわるので慎重に考えています。生涯スポーツとしてのゴルフは、街づくりを考える上で大切な役割を担っていくと思います」 WOWCA蕨ゴルフクラブは、年間入場者7万人を超え、地域の生活の場として根付き、街づくりの中に溶け込んでいる。 <hr /> この記事は弊誌月刊ゴルフ・エコノミック・ワールド(GEW)2023年9月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <a href="https://bt3.jp/url/ts/g/z9lenol2">月刊ゴルフ・エコノミック・ワールドについてはこちら</a>
    (公開)2023年10月15日
    都心から車で20分、東急多摩川線の沼部駅から徒歩6分。多摩川に架かる新幹線の橋の下流側に、東京多摩川ゴルフ練習場はある。場所は東京都大田区田園調布南で、河川敷なので番地はない。開場は1951年11月。 翌52年には東京ゴルフ練習場連盟が発足しているが、当時加盟した9ゴルフ練習場の1つで、現在まで残っているのは東京多摩川ゴルフ練習場のみ。都内で最も古いゴルフ練習場で、36打席250ヤードの屋外練習場である。 その成り立ちについて、同練習場の2代目田中誠氏と、田中氏の孫にあたる株式会社東京多摩川ゴルフ練習場の取締役・池田陽太氏に話を聞いた。田中氏の娘・成美さんの子供が陽太氏である。田中氏は1936年生まれで今年84歳、1960年の日本アマチャンピオンで、世界アマに出場し、ジャック・ニクラウスと戦った経験もある。 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/09/2023092202.jpg" alt="" width="1000" height="666" class="aligncenter size-full wp-image-78831" /> この練習場を創業したのは、田中誠氏の父・光義氏である。光義氏は渋谷で指物師(家具職人。箱、机、椅子、たんすなどを、板材をさし合わせて組み立てる職人)をしていた。ゴルフクラブの修理ができないかとの相談を受けて、修理をはじめたという。そんな折り、田園調布在住のゴルフ愛好者から、練習場をつくりたいとの話が持ち上がった。戦後すぐの時代とあって、近隣に練習場はない。現在の多摩川河川敷の場所は畑だったが、前述のゴルフ愛好者に銀行関係者や企業のトップなど富裕層がおり、出資して、光義氏が管理をまかされた。東京多摩川ゴルフ練習場の誕生である。 距離は現在と同じで250ヤード。その後、堤防が拡張されて左側の打席はなくなったが、当時は今より多く50打席程度だった。場所は現在より100mほど上流側で、公共のグラウンドができて現在の場所へ移動した。田中氏は、 「開場当時はボールがなく、ゴルフ場のキャディさんから1個50円前後で買い上げたり、当時代々木にあったワシントンハイツに行ってボールをもらって運営していました」 と振り返る。田中氏の父・光義氏は、明治38年(1905年)生まれで創業時は41歳であった。「東京多摩川ゴルフ練習場」の名称は、創業時からのもので光義氏が命名した。田園調布にあるため、今であればその名称を使ったら良いと思うが、当時は何の迷いもなくこの名称に決まったという。 創業時は近隣の田園調布在住のゴルファーが徒歩で訪れたり、中村寅吉プロが練習に来たりして、経営は順調であった。創業から10年ほど経過して、出資金を返却し、株式会社東京多摩川ゴルフ練習場となった。 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/09/2023092203.jpg" alt="" width="1000" height="666" class="aligncenter size-full wp-image-78833" /> 対岸にはショートコースの多摩川ゴルフ倶楽部があるが、練習場が出来て10年後ぐらいに親族が開場した。当時は、川を渡ってショートコースに行ったとのことである。気楽にゴルフを楽しめる環境で、多摩川にあるゴルフ天国の様相であった。現在、ショートコースの経営は変っているが存続している。 <h2>無人インドアも新たに開設した</h2> 東京多摩川ゴルフ練習場は河川敷に位置するため、河川法の対象となる。設立された1951年当時は旧河川法が適用され、河川敷の利用に関しては緩やかな時代であった。1964年の法改正により、新河川法の適用となっている。 多摩川は一級河川で国交省の管轄だから、同省に占用料を支払って運営している状況だ。河川敷なので、建築物を建てられず、受付も簡易な小屋である。防球ネットの柱は木製で、簡単に取り外しができるとのこと。打席は創業から土を使用しており、打撃部分にはショットマットを置いている。以前は土から打つこともできたが、現在は整備の関係からショットマットを使用する。 フィールドは天然芝で、バンカーやアプローチエリア、天然芝のパッティンググリーンも備わっている。また、池田氏が経営にかかわるようになってから、ボールの綺麗さにこだわっており、 「3か月に一度、ボールの塗装を塗り直しています」 池田氏は、河川敷にあるゴルフ練習場ならではの苦労、特に水害についてこう話す。 「2019年10月の台風19号の時は、ゴルフ場横の堤防ギリギリまで水位が上がり、練習場にあった全ての設備や藤の木が流されて、1か月近く閉鎖しました。ブルドーザーで流れ込んだ土砂をどけるなど、本当に大変な作業でした」 ただ、この洪水を機に、アナログで受付していたものを、デジタルの会員証にして、LINEで会員にリアルタイムで情報を流せるなどのシステムに変えた。 河川敷練習場特有の制約から、屋根を付けることが出来ないので、雨天の場合はクローズとなる。 「今までは、雨が止んだら数時間後に再開していましたが、LINEで再開時間などを知らせて利便性を高めています。ただ、台風や大雨のときは常に水没の危険があります」 もう一つの難題は、河川敷の占用について3年ごとに更新があり、国交省に使用許可の書類を提出する必要があること。池田氏は、 「書類は細かく、内容も厳しくなっていますが、前職でメディア関係の会社にいたので、慣れている分、対応できています」 一方、河川敷ならではのメリットもある。およそ2万3000m2の土地を国交省から借りて営業しているが、田園調布の私有地であれば相続税は莫大となって、事業継承は厳しくなる。占用許可が継続できれば、都市部で課題となっている事業継承問題はクリアできる。国がこの河川敷を水防や公共目的など、別の用途を考えた場合は問題だ。 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/09/2023092204.jpg" alt="" width="1000" height="666" class="aligncenter size-full wp-image-78834" /> 「最近、近隣の屋外練習場4~5か所が閉場したため、開放的な広い場所で打てる屋外練習場は貴重です。自分の代で開業100年を迎えることが可能なので、この仕事を続けていきたい。そのためには、現在年間4万人以上の来場者をさらに増やすこと。スクール事業を伸ばしていきたいですね」 そのため、同練習場の近隣にある事務所の1階に、新しく無人インドア練習場とパーソナルジムを併設した施設をつくった。 「時代のニーズに合わせ、若くて新しい顧客を取り込んでいきたい」 と、次代を見据えている。 東京の田園調布にある250ヤードの屋外練習場が継承され、100周年を迎えることを期待したい。 <hr /> この記事は弊誌月刊ゴルフ・エコノミック・ワールド(GEW)2023年8月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <a href="https://bt3.jp/url/ts/g/z9lenol2">月刊ゴルフ・エコノミック・ワールドについてはこちら</a>
    (公開)2023年09月24日
    JR蒲田駅の西口から徒歩15分、東京大田区新蒲田の住宅街に囲まれて「加藤農園ゴルフリンクス」はある。1966年開場、今年で57年の歴史がある。 「農園」の名称から田園地帯の練習場をイメージするが、実際には住宅地に位置している。このゴルフ練習場の成り立ちについて、事業会社である有限会社NOUENの代表取締役加藤賢治氏、夫人の亜弓取締役に話を聞いた。 加藤家は、この地で400年以上前から農業を中心に営んでいた。歴史的にはそれ以前から居住していたというが、近隣の菩提寺「大楽寺」の過去帳が焼失して不明とのこと。代々農業を営んでいたが、途中、籠生産や畳屋などをしていた時期もあったようだ。 明治以降も農業を続け、戦前戦後も、大消費地に近接していることから、桃、梨、ぶどうなどの果実、野菜、コメなどを栽培していた。昭和に入り宅地化が進み、1960年頃には近隣で農業を営むのは加藤家だけとなってしまった。 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/08/kato2.jpg" alt="" width="1683" height="1164" class="size-full wp-image-78415" /> 加藤農園ゴルフリンクス 創業時栄一会長・打席 ちょうどこの時期、東京電力の変電所をこの地域につくるとの話があり、土地の一部の売却を迫られた。加藤社長の父・栄一氏(現会長)が農業からの転換を考え、親族の官僚のアドバイスも得て当時流行っていたバッティングセンターやゴルフ練習場などが候補にあがった。 バッティングセンターは使用する土地の面積が少なく、また、親族が横浜の日吉でゴルフ練習場を始めており「風呂屋の番台に座っているのと同じで、現金収入で楽な商売」との話を聞いた。それで農業をやめてゴルフを選んだが、栄一氏はゴルフ経験が全くなかったという。 開業にあたり、クラブハウスは地元の工務店に建ててもらい、1階11打席40ヤードの土の打席で、スタンスマットとアイアンマットを土の上に置いた。フェアウェイは天然芝。ボールは人が手作業で拾い、回収したボールはイモ洗い機を使って洗浄、乾燥させて箱に入れ、来場者に提供していたという。 開業時から天然芝の練習用グリーンを備えていた。さらに地元の来場者から「バンカーを造ったら」との発案を受け、開業1年足らずで練習用バンカーも設置した。当時3歳だった加藤社長は、 「バンカーで砂遊びをした記憶があるんですよ」 と振り返る。 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/08/kato4.jpg" alt="" width="788" height="525" class="size-full wp-image-78417" /> 加藤農園ゴルフリンクスバンカー ネットの高さは15mで、当時は建築許可がいらない構造物で、ネット柱も知り合いから建設業者を紹介してもらった。開業から比較的順調なスタートを切った。 蒲田地域には町工場の経営者でゴルファーが多く、この練習場に仲間とともに集まってくれるようになった。当時はまだ、栄一氏もゴルフを知らない中で、顧客が練習場を支えてくれたという。開場は10月、その翌月の11月には顧客が役員会をつくって月例コンペ「栄会」が発足した。現在は解散したというが、400回以上の回数を重ねた。 栄一氏は当時、ゴルフ場にコンペを予約する方法がわからず、顧客が主体となって予約、開催してくれたという。栄一氏は、 「設備に不具合があると、蒲田の工場の常連さんが直してくれたり、あれよあれよという間にスムーズに立ち上がった。地域に支えられ、賑わいのある練習場となりました」 と、当時を振り返られているとのことである。 地元を愛し愛され 「加藤農園ゴルフリンクス」の名称は創業時から変わらないが、そこには2つの想いが込められている。親戚が、自分たちのルーツを忘れてはならないと「加藤農園」を提案。また「リンクス」は、知人からのアドバイスで人と人のつながりを大事にする「輪・和」から取った。 筆者は、名前の由来を知る前にこう考えていた。「リンクス」はゴルフ発祥のセントアンドリュース・オールドコースに代表される「ゴルフリンクス」から取ったもので、「農園」との組み合わせも、現在のSDGsの考えに近く、モダンな名前だなと。しかし、今回改めて由来を聞いて、ルーツや「輪・和」を大事にする意図を知った。地域のゴルファーが栄一氏を支えてきたことを含めて、色褪せない本質の価値を再認識した次第。 1983年、加藤社長が大学3年の時に、事業継承を前提に現在の2階打席にリニューアル。1997年には、やはり「地元の工務店」に依頼してクラブハウスを全面改修。2003年に今後の事業継続・継承を考え、事業を会社組織とした。 都市型の屋外練習場が継承できない最大の問題は相続である。事業を継承するためには、法人化も含めて長期的な対策が必要だ。東京の環状八号線に近い大田区にある「加藤農園ゴルフリンクス」では、20年前からその準備をしていたことになる。 社長夫人の亜弓取締役も、 「法人化の目的を明確にすることが大切です。事業を次の世代につなぐことを含めて考えています」 現在、他社で社会経験を積んだ2人の子息が入社して、3世代の経営体制が整っている。 経営ポリシーは「若者からシニアまで、みんなが楽しんでもらえる練習場」だが、実際、そのとおりの来場比率になっている。20代:21%、30代:15%、40代:15%、50代:28%、60代:12%、70代:9%と、各世代が満遍なく訪れる。 特に若い世代の来場比率が、他の練習場に比べて明らかに高い。この点について加藤社長は、 「息子達が経営に加わって、携帯アプリなどSNSの活用で若い世代を取り込めました。その一方、シニア世代が弱いので、自分たちがその課題を解決する必要があります」 2018年、新たな取り組みを始めている。近隣の蓮沼駅近くの商業ビル2Fに、4打席の屋内練習場「インドアスクール Choccoto」を開業。ちょこっと練習できる利便性を重視したもので、不動産会社からの提案を形にした。 「将来のゴルフ練習場はどうあるべきか。課題を常に考えて、トライしています」(加藤社長) 地元のゴルファーに支えられ、地元に仕事を発注し、地元の声を形にする。「加藤農園ゴルフリンクス」の名称と思想は、栄一会長から脈々と受け継がれている。 <img src="https://cms-backend-gew.com/wp-content/uploads/2023/08/kato3.jpg" alt="" width="1753" height="1203" class="size-full wp-image-78416" /> 加藤農園ゴルフリンクス 開業時ハウス入口 <hr /> この記事は弊誌月刊ゴルフ・エコノミック・ワールド(GEW)2023年7月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <a href="https://bt3.jp/url/ts/g/z9lenol2">月刊ゴルフ・エコノミック・ワールドについてはこちら</a>
    (公開)2023年08月27日

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