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  • 月刊GEW2月号 米国三大メーカー同時発売 どうなる巳年のクラブ市場

    ハッシュタグ「堂湯昇」記事一覧

    1本18万円のチタンウッド 専門店と量販店を比べた時に、ある種の思惑違いと言いますか、我々が専門店を過大評価したことは否めません。 ミズノはゴルフ専門店がなかった時代に、スポーツ店と一緒になってゴルフの売り場を作ってきた。そのとき私らが強く言いつづけたのは「ゴルフはほかのスポーツとは違うんです、専門性を磨きましょう」と。そういった経緯があったので、ゴルフショップは専門性が強いんだと、我々自身が思い込んだのかもしれませんな。 前回でも述べましたが、二木ゴルフさんとの取り引きで感じたのは、量販店の力強さであり、対して専門店の脆さだったような気がします。 そのうちメーカーは大型店に翻弄されて、コントロールできなくなってしまった。新規出店が相次いで、その都度オープニングセールをやるわけですが、特価チラシを見るたびにぴりぴりしとったもんですよ。 ただ、それが時代の熱気でもありましたなぁ。小売りの競争に煽られる形でね、商品開発が活発になって、新しい商品、魅力ある物がどんどん出た。平成2年に業界初のチタンウツド(ミズノプロTi)を1本18万円で発売したのが代表的な例ですよ。 もっとも、その頃私は全社の営業を見る立場で、ゴルフ事業は片山君(彰氏、元専務)に譲っておったんです。会議には出席するけれど、ほとんど口を出さないようにしましてね。20名ほど集まるゴルフ会議で個々の意見を提案させて、「1本18万円」も全員の合議で決めました。 チタンウッドの18万円は他の商品よりも掛け率を低くして、お店に儲けてもらうんだと、そんな狙いもあったんです。ただし、当初の販売目標は少なかったはずですよ。たしか年間5000本程度かな。それが最終的には3万本に届いたわけで、勢いというのは凄いですなあ(笑)。 <h2>目指せ5000億企業</h2> <strong>当時、ミズノは全社的に活気があった。『ミズノプロTi』を上市した平成2年は年商1768億円(単体決算)、翌年以降1922億円、2003億円と飛躍的に伸ばし、これが同社のピークとなる。</strong> <strong>世界はビッグニュースに溢れていた。東西ドイツの統一(平成2年)、湾岸戦争やソ連の解体(同3年)。バブルの崩壊も同年で、証券会社の損失補填が社会問題になっていた。</strong> ちょうどあの頃、ミズノは21世紀に「5000億円企業」を目指すんやと、そんな構想がありました。社内の総合企画室を中心にいろいろ立案するんですよ。政府の資料、銀行の意見とかを集約して、物販じゃどんなに頑張っても2000億が限界だろう、残り3000億を上乗せるには物販以外に何ができるか事業部別に考えろと。 いま思えば、一種の熱病だったですよ。バブルの怖さと言えばそれまでですが、経済の実態を見誤った、ミスがあったということを、とても反省しております。私にも責任あると思ってます。 で、当時なにをしたか? 最初は勉強のために西田辺の社員寮を潰しましてね、上はマンション、下はフィットネスクラブを作りました。MARV構想の一環ですよ。 <strong>施設産業を中核に据えたMARV(ミズノ・アクティブ・リゾート・ヴィレッジ)は、同社の新機軸として大いに期待された。フィットネスクラブ、テニス施設、ゴルフドームやゴルフ場経営など、施設産業を意欲的に立ち上げた。</strong> <strong>平成4年にはミズノの新たな象徴となる南港の新本社ビル「ミズノクリスタ」が落成している。総工費300億円を投じた地上147m(地下3階、地上31階)で、1~4階に「光のオプジェ」、1、3、4階にスポーツ博物館、31階にはスポーツバーを設けている。</strong> <strong>「スポーツ文化新世紀への再創業精神」と謳った一大事業の背景に、5000億円構想があったことは言うまでもない。</strong> 初めて「ミズノクリスタ」を見た時には、へえ〜っ、派手なもんやなあと、正直びっくりしたもんですわ。あの頃は真面目に仕事しとれば売り上げを伸ばす自信があって、全社員が自信と昂揚感に包まれていました。 <h2>ゴルフ場が大失敗</h2> 最大の失策は、ゴルフ場ビジネスに乗り出したことですよ。私の記憶では、四国でゴルフ場やりましょう、滋賀県でどうや、岡山にもいい物件ありますよと、業者の売り込みは本当に頻繁でした。当時、日本全国で3000コースはできると言われていて、事実、私もそう思ったもんです。 日本全体が浮かれとったからしょうがない、とは言えません。景気の波は必ずある、その認識を誤ったということです。 営業を続けている月山(山形県)のコースは、苦戦してるようですな。思い出すのは地元代議士だった加藤紘一さんと月山のオープニングでゴルフやりましてね、これからは地方の時代やと、そんな話をしましたかねえ。 ゴルファーが増えて、高額商品が売れる中で、市場の成長を信じて疑わなかったわけですよ。 だけど、危機感を覚えたのは早かったんです。ミズノは平成4年のピークから売り上げがガタッと落ちましてね、平成5年が1894億円、その翌年が1727億円…………。こういった過程を見るにつけ、こりゃあかん、ゴルフ場やっとる場合じゃない、と。大ケガしてからじゃ遅いので、即座に方向転換したわけです。 近年、大幅なリストラをやりましたなぁ。1回目で350人、2回目で300人だったと聞いてますが、これも早めの決断でしょう。企業はヒトやと思うにつけ、まぁ、いろんなことを考えますが、私が口にすべきことではありません。 <h2>三者協力で立ち上げた「電波塔」</h2> ひとつ言えるのは、市場育成の大切さです。そりゃね、資本主義社会やから、個別の競争はあって然るべきです。だけどその一方で、業界が手を携えて大同団結しなきゃいかん。団結すべきは団結する、そうじゃないと市場は大きく育ちませんから。 かつては団結がありました。今は薄れている。そんな印象はありますなぁ。 ひとつの例を申し上げると、住商さんが中心になって立ち上げた「ジュピターゴルフネットワーク」(CS放送)があります。これね、「ゴルフ界初の電波メディアを持つんや」と、ダンロップの大西さん(久光氏、元住友ゴムエ業常務)が奔走されたんですよ。 それで大西さんは「ミズノさん、BSさんも株主になってくれないか」と。「そりゃええことや」と息投合したものの、BSとダンロップはボールで激しく戦うライバルでしょ。大西さんからは話し難いということで、私が山中さん(故幸博氏、元ブリヂストンスポーツ社長)を口説いたんです。 ミズノは以前から、ダンロップやBSの代理店でした。両社のボールをミズノが販売するという関係やから、早くから親しく付き合っていたんですよ。そんなわけで、山中さんとも肝胆相照らす仲というか、あちらがゴルフクラブ事業を始めたときは「お手伝いしましょうか」と申し入れたり、電話で話すことも頻繁でした。 内容は、まあ、いろいろですよ。「あそこのボール安いやないか」「まいりましたなあ」とかもあったけれど、そんな商売の話だけやなくて、業界に対する考え方、こうすべきじゃないですかと、事あるごとに意見交換をしたもんです。 ダンロップとBSの関係を見るにつけ、ミズノが接着剤をしましょうと、そこで三者協議が成立したんですな。ジュピターへの出資に山中さんは二つ返事だったです。「よし、分かった」と。それで業界の電波塔というか、ジュピターゴルフネットワークが立ち上がりました。 大西さんも山中さんも、人間の度量が大きかった。たしかに商売敵ではあるんやけど、ゴルフ界はこうあるべきだと、見ている世界が大きいんですよ。そのためには目先の競争だけじゃなく、協力すべきは協力する。度量が本当に大きかった。 要はお互いを立てる、ということですよ。エンタープライズを作ってトーナメントの隆盛を築かれた大西さんはダンロップの代表的な存在でしたが、こちらを立ててくれるんですな。他人の意見に耳を傾けて、出来る出来ないをしっかり言う。それが信頼関係につながったんです。 それにしても、山中さんは早くに亡くなられて残念でした。二木さんも山中さんも五十代の早世でしょ。仮にご健在だったなら、ゴルフ市場の風景は今とかなり違ったものになっていたでしょうなぁ。 私が業界を離れてだいぶ経つので、今、どんな状況かを詳しく知ってるわけではありません。だけどゴルフの楽しさを啓蒙するためには、一致団結が絶対に必要。これだけは強く言いたいですね。 若者の参入をどうするか、女性対策やジュニア育成についてもね、大局観が必要です。老婆心ながら、改めて業界のご多幸を願ってやみません。あなたも大いに頑張ってください(笑)。
    (公開)2023年05月29日
    急成長は二木との取り引きで始まった 量販店さんの登場がゴルフビジネスの景色を変えた、今もそんな印象が強く残っておるんですよ。先鞭を付けたのは二木ゴルフさんで、昭和58年の2月に取り引きが始まりました。 一言でいえばオッ!という驚きでしたな。なんせ取引金額が半端じゃない。具体的な額は言えませんが、一般の専門店さんとは桁が違ったわけですよ。 それだけではありません。二木さんは年間の供給計画をきっちり提示されてくる。仮に数億としましょうか、すると何月にこの商品をこれだけ欲しい、次に中押しでこれをいくら、何月にはあの商品でつなげましょうと………、実に緻密でダイナミックなんですよ。 二木さん以前にこういったやり方はなかったし、だからミズノにもきっちり供給する義務が発生する。いい加減と言っちゃ語弊がありますが、生半可な気持ちじゃ対応できんわけですよ。 多少の自負を交えて言えばですね、当時ミズノは商品力が強かったしブランド力もありました。ミズノを置いてあることで、二木さんの信用力やショップとしてのブランドが高まった効果もあるでしょう。つまり小売りとメーカーの相乗効果です。値段もきちんと適正を守って、相互理解が深まりました。 ミズノはこれをきっかけに、量販店との取り引きを加速します。二木さんと取り引きを始めた4カ月後、58年の6月にはアルペンさん、翌年の7月にヴィクトリアさんとも始まった。 アルペンさんとはスキーを巡る駆け引きというか、スキー用品の販売力は半端じゃない。一方、ミズノのスキーは強くない。だから我々はスキーを売って欲しい、逆にあちらさんはミズノのゴルフが欲しい。そんなやり取りで取り引きが深まりました。 シントミゴルフさんとは平成4年の11月に契約して、実際に商品が並んだのは12月からです。他社と比べて遅かったのは、シントミさんの経営方針が大きかった。 というのも、あそこは自社ブランドの商品を積極的に販売して、ナショナルブランドには前向きじゃないという姿勢があったからです。それでなかなか取り引きに至らなかったわけですよ。 まあ、今では大半の量販店さんとお付き合いがありますが、例外的にはつるやゴルフさん、こことは未だにご縁がありません。 <h2>カーボンヘッドでヤマハと競う</h2> いずれにせよ、二木さんと始まった頃はゴルフ事業部の隆盛期でしたね。前年の57年にはカーボンヘッドの『ヴァンガード』を発売しました。カーボンヘッドはゴルフ市場に参入したばかりのヤマハさんと我々が、どっちが早く発売するかで競い合った商品ですが、これが爆発的に売れました。 この年、ミズノの販売本数は230万本で、前年比40万本も増えましてね、今となれば信じられん伸び率ですよ。ゴルフ市場が急拡大して、量販チェーンとの取り引きで一気に増えた。そう考えれば両者の取り引きには必然性があったと思いますね。 <strong>昭和50年代の後半は、第二次異業種参入が相次いだ。代表的なのがヤマハ、ヨネックス、横浜ゴムで、これらは一様にカーボンヘッドの新規性で消費者への訴求を目論んだ。</strong> <strong>これにより大手企業の資本力を背景にした大量宣伝が勃発して、大量生産・大量販売も加速する。こういった市場の近代化を支えたのが量販店グループの存在だった。</strong> <strong>二木ゴルフはミズノと契約を結んだ58年に10店舗を構えていたが、61年に20店舗、63年に30店舗、平成3年に40店舗、翌4年には50店舗まで拡大した。当初「アメ横との取り引きに躊躇していた」(前号詳述)ミズノはしかし、量販店との連携を急速に強めていった。</strong> <strong>これは第一次異業種参入(マルマン、ダイワ精工、ブリヂストンスポーツ等)の企業群と、第二次異業種参入の企業群が激しく衝突した結果でもある。好景気と大量宣伝が社会の世間の注目を集め、ゴルフ人口を拡大し、昭和が幕を閉じる63年には、ゴルフクラブの世帯間普及率が31.7%に達していた。</strong> <h2>2週間の催事で4・5億売った</h2> 昭和60年代の熱気が如何に凄いものだったか、これを物語る材料には事欠きません。 例えば名古屋の松坂屋さんです。「中日クラウンズ」「東海クラシック」という地元の大きな大会があるときは、強烈な売り出しをやるわけです。61年の「クラウンズフェア」は2週間で4億5000万円も売りましたよ。 これ、ミズノだけの実績です。ウチだけの商品でそれだけ売れたということは、トータルの売り上げはもっといく。フェアに合わせてオリジナルクラブ(ゴールドノバ等)も作りましたし、松坂屋さんの仕入れ責任者で西脇さん(友彦氏、元松坂屋常務)という豪快な方もおりましてなぁ。 西脇さんとウチの養老工場(岐阜県)で落ち合って一緒に倉庫に入っていく。在庫をざあっと調べてね、よしっ、今度の売り出しはこれで行こうってなもんですよ。数億円のビジネスが瞬時に決まる。その代わり「売り出しはミズノ中心でやってくれなきゃ困りますよ」と、しっかり条件を付けましたがね(笑)。 その後スーパーの台頭もありました。ニチイさんやダイエー系のパシフィックスポーツさんが中心だったですが、こちらへの商品供給は、ゴルフ専門店に出す商品とは別のブランドで対応しました。 ミズノはそれこそ、物凄い数の商標を持っとるでしょ、そのリストをバンッと出して「こん中から好きなの選んでください」と。社内に特販部というのを設置して、今はチェーンストア事業部という名前やけど、完全な縦割りで対応しました。 こういった流通別のブランドを合わせると、かなりの数になりましたが、特に混乱はありませんでしたな。 ただし、スーパーとの関係は長くは続きませんでしたよ。最盛期でも売り上げの1割に届かなかったし、売れなきゃ引き上げるのがスーパーでしょ。そもそも長続きする関係じゃなかったんです。 <h2>メーカーと小売りの力が逆転</h2> 同じことは百貨店にも言えますな。デパートはいわゆる百貨です。なんでも置いてある。売れるとなれば力が入るし、売れなくなると縮小する。大阪はミナミで心斎橋の大丸さん、キタは阪急イングスさんという両巨頭がおられたわけですが、今ではゴルフの停滞が否めませんな。 その意味で専門店、ここはゴルフだけで飯を食う、ゴルフが唯一の生命線だけに、メーカーとしても共存共栄の本陣と見るわけです。専門店がなければ業界は立ち行かない、本来はそんな役割を担っているはずなんです。 あのぉ、このあたりで一度、きちんと総括する必要があるかもしれませんなぁ。単独系の専門店と、チェーンの専門量販店の役割を、我々メーカーはどう考えたか……、この点についてです。 今、専門店が弱体化してますが、ひとつには量販店との比較において、専門店はそれほど強くなかった、そんな印象があるんです。 小売市場全体の動きで象徴的なのは、ダイエーの売り上げが三越を抜いた頃から大規模小売りチェーンが強大になって、スポーツの世界もどんどん食われ始めた。公正取引委員会が「再販価格の維持はいかん」と物凄く強く言い始めて、流通における競争がどんどん活発になったんです。 つまり、メーカーと小売りの力関係が目に見えて変わってきた。 メーカーの数が増えて競争が激しくなれば、我々も売り上げと利益の確保に走らざるを得ませんね。専門店としっかりやらなきゃいかんと思いながら、数字が欲しいから量販店にも供給する。そういった流れで、いつしか専門店に来るお客さんは道具にこだわる自営業者、量販店のお客さんはサラリーマンという形が出来上がって、大衆が量販店を支持したわけです。 ただね、量販店が強すぎるとバランスが悪くなるじゃないですか。ですから我々も、専門店支援を試みました。一例が『マスターズ』という商品です。これを専門店用のブランドとして量販店には卸さない、だからしっかり売ってくださいと、宣伝も沢山しましたよ。 だけど結果的に失敗したのは、期待したほど量が伸びなかったからですよ。なんぼ知恵を絞っていい物作っても、量が出なけりゃ続きません。専門店の在り方に、多少首をかしげました。 概して専門店は、底が浅い。言う意味は、財力的に問題ある、あかんかったらすぐにやめてしまう。根強いファンを持たれていたグリーンウェイの保国さん(隆氏、故人)も、一時は工房に特化しました。小売りの大資本化に着いて行けんから、あの道に入らざるを得なかったわけです。 もちろんプライドを持って努力してる専門店も多いです。だけど一方では、努力が足らんお店があるのも事実でしょう。
    (公開)2023年05月22日
    昭和40年代半ばからは、いろんな会社がゴルフ市場に入ってきて、それこそ群雄割拠の様相を呈しました。特にホンマさん、マルマンさんは個性的な社長が旗を振って、「それ行けッ」てなもんですよ。だけどこっちは、まがりなりにも市場を開拓してきた自負がある。簡単には負けられんという気概がありましたなあ。 そこで、他社に負けないために一計を案じます。何かと言えば、販促予算の作り方です。ゴルフ事業がスポーツジャンル別の「専品制」、つまり事業部をベースにしていたことは前回も話しましたが、これをより明確にするものです。 ゴルフの場合は養老工場の出荷本数に対して小売り1000円、卸売りで700円の広告費をプールして、これを元に年間の販促予算を計上した。つまり、売れるほどゴルフ事業の販促予算が潤沢になるというわけです。 メーカーの宣伝はかなりの販促効果が期待できる。ゴルフ用品を宣伝することは、ゴルフそのものを宣伝することと同じです。異業種の参入が相次いで世間の注目が集まったことも相乗効果になったでしょうし、我々だけではなく、各社が積極的に宣伝しました。 国民の目がゴルフに向いてきたという実感はもの凄くありましたし、昭和48年頃はちょうどオイルショックでしたけど、この時ミズノの生産量は年間226万8000本で、ひとかどのビジネスになっていました。 48年といえばカーボン素材を使ったシャフト、色が黒いからブラックシャフトと呼んでましたが、『プラズマ』が印象深いですね。ウッドが4万9800円、アイアンが1本4万円、フルセットで47万円、これがむちゃくちゃ売れましてね、社内は俄然、沸き返ったものですよ。 ゴルフ場の開場ラッシュ <strong>昭和48年は、ゴルフ産業にとって一大エポックの年に位置付けられる。この年にオープンしたゴルフ場は104コースで、前年の49コースを大幅に上回り、初の「年間100コース増」を達成した。延べゴルフ場入場者も3000万人の大台を突破、昨対17.6%増を記録している。</strong> <strong>翌49年は更に拡大の足を速める。新規ゴルフ場154カ所、延べプレー人口3800万人台(13.9%増)、50年には166カ所が開場している。国内ゴルフ場数が1000カ所の大台を突破(1093カ所)したのもこの年だった。</strong> <strong>時代の後押しを受けたミズノは51年に契約プロ51名を抱え、他社の追随を許さぬ地盤を造った。52年にはセベ・バレステロス、ナンシー・ロペス、ローラー・ボーなど世界のビッグネームと契約を交わし、看板プロの樋口久子が「全米女子プロ」を制覇したのも同年のことだった。</strong> あの頃は、本当にビッグニュースに溢れていましたなぁ(笑)。特に樋口プロのメジャー制覇は小野・中村組のカナダカップ優勝に匹敵する大記録でしょ、ゴルフ場の開場ラッシュと相俟って象徴的な出来事でしたよ。 ただ、ゴルフ事業が安定して売り上げや利益を確保するようになったのは、昭和55年以降です。それまでは市場作りを急いだ時期だけに、やはり持ち出しというか、先行投資の部分も多かった。55年から平成5~6年までが、社業としても急速な成長を記録した時代です。 <h2>1本8万円のシャフト</h2> この間、私自身が肝に銘じたのは、量の商売に走ることなく、品質や技術開発を疎かにするなということです。初代・利八社長の社是に「良品安価」がありましたが、良品とは何か、それはひとえに品質ですから、このことは物凄くこだわりましたね。 やはり商売だから「相手をやっつけろ」という競争心は当然ある。だけど物量が増えれば不良品の問題も発生する。その可能性が高まるから、浮かれず王道を歩むんだと、率先垂範したわけです。   苦情に対しては真っ先に私自身が動きました。ある朝9時に浜松のお医者さんからクレームが入った。私、直後に代品を抱えて、昼過ぎにはお客さんのご自宅へ到着しましたよ。そりゃ、先方さんも驚きますな(笑)。私が素早く動くことで、社内の意識を徹底させたつもりです。 ブラックシャフトに保険を付けたのもミズノが初めてなんですよ。あの頃アルディラ社の『アルダエイト』というシャフトを採用しましてね、飛ぶけど折れた。不良率はたしか1~1・2%じゃなかったかな。 何回もアメリカへ飛んでアルディラの幹部と話し合い、結局は保険で対応しようと。だから高い、1本8万円ぐらいで売りました。ミズノは品質で王道を行く、この意識はあらゆる細部に徹底したもんですよ。 <h2>アメ横に好印象はなかった</h2> <strong>「王道」にかけるミズノの意識は流通面にも及んでいた。ひとつにはアメ横(上野御徒町)との取り引きに難色を示したことだ。それは、アメ横の大型店が戦後のPX(米軍基地内の売店)の横流れ品から発祥し、以降、あらゆる生活物資を大量に安く販売して、荒々しく勢力を伸ばしたこともある。</strong> <strong>この地に創業した「二木の菓子」は昭和46年にゴルフ市場へ参入し、54年には系列初の郊外店(大宮店)を出店。58年には10号店を達成するなどチェーン展開に拍車を掛けたが、それでもミズノは静観して、安易に取り引きを始めなかった。</strong> <strong>が、新興勢力の台頭は二木にとどまらない。マルマンゴルフは56年、記録的ヒットとなったメタルウッドの『ダンガン』を発売し、二木ゴルフをメインパートナーに販売攻勢を仕掛けてきた。</strong> <strong>大量生産が可能なメタルウッドと、大量販売の専門チェーンは相性が良く、大量生産・大量販売を確立した。そのため、当時東京支店の責任者だった片山彰氏(元専務)は堂湯氏に対し、二木ゴルフとの口座を開くよう矢の催促を送ったという。</strong> ミズノは大阪出身の企業やから、やっぱり西が強いんですよ。私がやっとった頃は東西のクラブ売り上げが4対6で西が強かったと思いますが、だから「東を攻める」という考えは、正直言えば強くなかった。関東でシェアを上げるんだと、そういった使命感はそれほど強くなかったんです。 あと、私自身、アメ横という商圏には好印象がなかったんですよ。ある出来事があって、それが何かは言えませんが、個人的には躊躇していました。東京はたしかに大きいんやけど、それより北の東北部はさして大きくないですよね。日本列島をきっちり東西で分けて戦略を考えることに、さして意味も感じなかったし………。 <h2>二木さんは「男やなぁ」</h2> だけど、東のシェアを上げようと思ったら二木さんを避けて通るわけにはいきません。東京の片山君からも矢の催促を受けましてね、「まだですか! 早く決断して下さい」と(苦笑)。もう、毎日のように急かされて。 それでも躊躇していたのは、ミズノが二木さんと取り引きしたら専門店さんへの影響は半端やない。大袈裟ではなく、ミズノ製品のボイコットを予想したし、あの頃はそんな時代やったんです。 ただ、いつまでも返事を引き延ばせない。結局、東京でシェア取るには二木さんしかないとなりましてね、片山君に山の上ホテル(東京御茶ノ水)で食事をセッティングしてもらって、初めて二木社長(故一夫氏)とお会いしたんです。 こちらの考えは、ミズノにはミズノの立場がある、過激な売り方されたら困るという腹があったんですが、そんなことゴチャゴチャ言う必要はありませんでしたなぁ。多くは話さなかった。 初対面で椅子に座って、二言三言………、それで「分かりました」と手を握った。この人は「男やなぁ」と思いましたね。随分早く亡くなられて………、51歳だったですか? 本当に惜しい人物を亡くしましたし、業界にとっても大きな損失やと思ってます。 取り引きは58年の2月からですが、二木さんは当時からゴルフ市場にしっかり根付くことを意識されていた。心配だった専門店さんのボイコットもなく、二木さんとの取り引きで大型チェーンとの先鞭を付けたわけです。
    (公開)2023年05月15日
    ゴルフ専門店はなかった 前回触れましたが、美津濃のゴルフ事業は「専品部」(昭和37年設置)をきっかけに本腰を入れました。 それ以前は自社で作ったクラブを自社のショップで売るという自己完結の商いでしたが、国家復興の一助として新しいスポーツ文化を創造するんだと、そんな利八社長の号令でゴルフが重点種目に選ばれて、専品部の編成となったわけです。 私はゴルフの責任者として、スポーツ店巡りを始めました。当時はね、ゴルフ専門店なんかありませんよ。そこで大阪の担当者4~5人でめぼしい売り場に当たりをつけて、根気強く歩きました。 めぼしをつけたのは、売り場に余裕があって気候風土がゴルフに適してる地域。さらに進取の気性に富んでる店、というところやね。 東京支店は大阪の翌年、昭和38年に専品部ができましたが、まずは「西」で実績を作ろうやないかと。電車を乗り継ぎましてねえ、いま思えば本当に難儀なことでしたなあ。 九州と四国で各10店、東海地方が15店、山陽で10店ぐらいです。雪の多い北陸と山陰は合わせても5店舗ほどだから、全部で50店程度ですよ。皆さん、ゴルフクラブを見るのも触るのも初めてやから、不思議そうな顔をして、首をかしげながらいじってましたなぁ(笑)。 <h2>即席レッスン会</h2> 営業時間が終わってから、店主と膝詰めの商談が始まるんです。商談というか、ゴルフってのはこういったスポーツなんですよと。店の裏庭に簡易ネットを張りましてね、グリップはこうでアドレスやテークバックはこうするんやと。 こっちも褒められた腕前じゃありませんが、まあ、即席レッスンをやるわけです。 私が入社した昭和26年には既に美津濃本店(淀屋橋)のゴルフ売り場にスクールがあって、週2日、商社とかのお偉いさんが習いに来てた。石角武夫さん、上堅岩一さんというプロがおられて、24球で30円のレッスンだったんです。 そんなことがあったので、私らも見様見真似で覚えてる。これを店主にやったわけです。 夜中にああでもないこうでもないとやったもんですわ。それでね、興味を示してくれたのは若い店主が多かった。大半が二代目で、野球が強い学校で選手だったとか、地元のスポーツに影響のある人達です。彼らをまずはゴルファーに仕立て、そこから普及するんやと。そんな狙いもありましたねぇ。 静岡のコハマスポーツさんはゴルフが大好きで、スポーツ店とは別にゴルフ専門店を立ち上げました。熊本では、体育堂さんが前向きに取り組んでくれました。ぽつりぽつりと賛同者が現れて、徐々に「流通」の体を成してきた。 で、これを広げるために一計を案じたんですよ。ゴルフショップに宣伝部の人間を連れて行ってね、映写機で店内を撮影する。4~5店舗の映像を15分ほどに編集して、それを取引店を集めた展示会で上映したんですわ。 「こちらのお店ではこんなふうにやってます。皆さん、参考にして下さい」と。 大阪会場で400店、東京で250店ほど集まって、「ほう、そんなもんかいなあ」と。真剣な顔が並んでいたし、具体例を見ることでゴルフの商いはそんな感じかと、身近になったはずですよ。 <h2>堂湯氏が書いた心得</h2> このとき強調したことは、ゴルフと一般スポーツの違いです。ゴルフは年齢層が高いから丁寧な応対が求められる。そのことを繰り返し繰り返し、粘り強く説明したもんです。 <strong>昭和37年4月1日、ゴルフ用品の物品税は第1種甲類1号の5割課税から、第2種甲類2号の4割課税へと減税された。しかし、スポーツ用品の中でもゴルフ用品は「金持ちのスポーツ」ということで、希有の高額課税だった。</strong> <strong>ゴルフ場には「娯楽施設利用税」も課されていた。当時ゴルフ人口は200万人程度とされ、ゴルフ場数295、延べ入場者数が735万人程度だから、数字面でも数少ない「富裕層の娯楽」であったことがわかる。</strong> <strong>同社が販売店向けに発行していた小冊子「美津濃卸部通信」(昭和38年3月1日号)には、堂湯氏が書いた次の一文が残っている。</strong> <strong>「ゴルフはやはり、地についた知識がなくては効果ある販売は難しいものです。大抵のゴルファーは熱心にゴルフ場通いをされ、ゴルフクラブについても大変なウンチクを傾けます。</strong> <strong>それに対していささかも動揺することなく正しい知識で対応しなければなりません。(中略)特にゴルフは一国一城の主が多いスポーツですから、お客様の自尊心を傷つけないよう注意しなければなりません」</strong> <strong>接客の心構えを事細かく説くところに、当時の時代相が窺える。</strong> <h2>6年で4倍の生産量</h2> このようにね、まずは「ゴルフ」を店主に知らしめることから始めました。昭和30年代の後半は、そこに精力を費やして、その後昭和40年から大掛かりなマーケティングを始めます。 ひとつにはゴルフ品メーカー初のツアー競技「グランドモナーク大会」や、新人プロの登竜門「ミズノプロ新人」の開催です。 イベントによるゴルフの啓蒙は専品部の発想で、いずれも昭和40年にスタートした。特に「グランドモナーク」は、創業60周年の記念行事ということもあって、本社の8階で派手な前夜祭をしたもんですよ。 成果は上々でした。二代目の健次郎社長がスポニチの上層部と懇意だった関係で、毎日放送、毎日新聞の後援を頂いたんですね。これで露出度が高まって一気に弾みがついたんです。 今でこそ、プロ契約やイベントで物を売るのは当たり前ですけどね、多少の自負を交えて言えば、美津濃が「イベント販促」の草分けでした。 昭和43年には樋口久子プロと契約を交わしましたが、この年55万本を生産しています。流通戦略も功を奏して、昭和45年頃からですな、街中にゴルフ専門店が目立ち始めて、取り引き件数も伸びている。 この年は大阪万博が開かれたし、2年後には札幌オリンピックも控えていました。田中内閣の「日本列島改造論」が道路事情を向上させるなど、目に見えて近代化が進むわけですよ。 この手元の資料によると、第1次オイルショックの昭和48年には生産量が226万8600本になっとりますなぁ。僅か6年で4倍の生産量に膨れ上がったわけで、まぁ、物凄い成長を感じたし、天井知らずで伸びていった。 <h2>異業種の大型参入続々</h2> <strong>昭和40年代に同社のゴルフ事業は躍進する。45年に「ミズノトーナメント」を立ち上げ、翌46年に100万本の大台を突破(133万本)、47年に大証一部へ上場し、この時契約プロは27名を数えている。</strong> <strong>昭和49年にジョニー・ミラーと岡本綾子、50年には中嶋常幸と契約を交わした。相次ぐプロ契約は、異業種の大手企業参入が刺激になった面もある。</strong> <strong>46年にマルマンとダイワ精工、47年にはブリヂストンがスポルディングとの合弁を解消してブリヂストンスポーツを立ち上げるなど、業界の様相が一変する。プロの争奪戦にも拍車が掛かり、美津濃は足場固めを急いでいた。</strong> 手元に昭和48年の資料があるんですが、これを見ると当時のシェアは1位ミズノ、2位マルマン、3位がダイワ、4位ダンロップ、5位にBSとなってますなぁ。うちのシェアは3割ぐらいだったと思うけど、最盛期は半分の5割を占めておりました。 それが4割3割と落ちるもんやから、心中穏やかじゃなかったですよ。 特にホンマさんは、いろんな意味で気になる存在だったですねぇ。プロ戦略が上手でしょ、だから上級者のロコミに定評があったし、うまいやり方するなあと。 <h2>王道は品質</h2> ただ、あそこの価格政策には疑問を感じておりましたな。売値をいきなりど~んと下げるから、ゴルフクラブってのは定価からそんなに割引くのかと、ゴルファーが思うじゃないですか。業界全体の信用に関わるわけですよ。 上代もね、うちが5万円ならホンマさんは7万円。「ウチは踏み台にされとるなあ」とぼやいたもんですよ(笑)。 もうひとつ、マルマンさんも刺激的でした。刺激的というのは、あそこの「小売り優遇政策」ですよ。これだけ売ったら海外旅行に連れてきますと大盤振る舞いされていて、まあ、各社ともそれぞれ旗を振って、市場にアピールしとったわけです。 こっちも商売だから、「やり返せッ」という気分がないでもない。だけど「美津濃は王道を行く」という信念があって、それは品質への責任ですよ。 ある朝9時に浜松のお医者さんからクレームが入りましてね。私、その日の昼過ぎには代品を抱えて、ご自宅の玄関をノックしておりました。
    (公開)2023年05月09日
    昭和26年の春、私は福井県の敦賀高校を卒業して、すぐに美津濃(ミズノ)へ入社しました。終戦から6年が経っておりましたが、ひどい就職難だったことを覚えています。 ただ、私自身はさほど就職に苦労しませんでしたな。兄が美津濃に勤めていて、先生もそれを承知していた。「だから行ってこい」「そうですか」ってなもんでね、えらく簡単に決まりました。前年の9月に内定をもらって、田舎から大阪へ出て来たんです。 大海を見たい、その一心でしたよ。父親は三男坊の私を地元に置いときたかったようですが、どうしても行かせて下さいと。一生懸命頼みました。入社は3月15日、今でもよう覚えとります。 だけど、4月最初の日曜日、実家へ「もう、いやや」と泣き言をいったもんですよ。なんせ食料事情が悪かった。敦賀湾の新鮮な魚を食べ慣れた私にとって、社員寮の食事は耐え難く、都会と田舎の食料格差を痛感したものです。 福島区には新入社員の寮があって、50人ほどが寝起きする。麦飯と味噌汁と漬物に、おかずが一品・・・。半月で3キロぐらい痩せたもんですよ(苦笑)。仲間は田舎出の子供が大半だから、寮で酒飲んで語り合うとか、そんなことはありません。何よりも、飯でしたなぁ。 星は十倍、我まず二倍 美津濃は当時からスポーツ用品の日本一で、高いけど良品を作るイメージが強くてね。私も少年野球やってたので美津濃のグラブを使ってました。 初任給は7000円、これは中の下だったでしょう。戦後、国家復興に邁進していたあの頃は銀行、炭坑、繊維、証券などの会社の給料が良かったですな。スポーツ業界も上り調子で、国民の体力向上に貢献しよう、復興の一翼を担うんだと、そんな熱気に溢れてました。 当時の本社ビルは淀屋橋の8階建てで、現在は直営ショップの本店になっています。そこで月1回、創業者の利八社長が訓示をされる。「星は十倍、我まず二倍」……。自分で思う倍働けいうことですよ。 大変プライドの高い方で、天皇陛下への思いも強かった。進駐軍に占領されて、人間宣言をして国民を救って下さったと、そんな話をする時は必ず涙を流されて。国家国民ということについて、強い責任を感じておられた方でした。 大阪の本社勤務は150人ほど、全員で訓示を聞きましたよ。神田には東京支店もありましたが、これと大阪工場、養老工場を合わせても500人程度の会社でね、だからトップの思想が末端の隅々まで染みわたる。 国家観をもって貢献しろ、良品を作れ、プライドを持って仕事しろと、𠮟咤激励されたものです。家族的な会社でもありましたなぁ。 <h2>札束の厚みは30センチ</h2> 私が最初に配属されたのは、小売部の「外売東部」いうところで、御堂筋から東地区の会社や学校へ砲丸、槍、マットや跳び箱、ユニホームなんかを売ってました。 学校以外にも営業しましたが、企業は京阪電車が大きかったぐらいで、大半は中小零細です。野球大会やるからグラブ持って来い、バットはないか。企業にすれば、福利厚生の意味合いですな。 和気藷々とスポーツをやって、労働の活力に変えていく。地方出身者が多くてろくな遊びも知らんから、スポーツが大切な役割を担っていたわけです。 月に70〜80万、場合によっては100万円ほど売れましたね。聖母女学院というのがありましてね、ここは沢山買うてくれましたな。払いはいつも現金だから、帰りの札束は30センチほどの厚みになりましたよ(笑)。 <h2>カナダカップ優勝で一変</h2> 私がゴルフ部に移ったのは昭和32年の4月です。当時は本店の小売りが中心で、営業は松本儀一さん、修理は高木誠一さんが責任者でした。ゴルフ部員は総勢20人、昨日まで砲丸とか売ってたのがいきなりゴルフをやれ、という。最初はワケも分からなかったし、随分苦労したものですよ。 <strong>美津濃の創業は明治39年(1906年)だが、ゴルフ用品の扱いはウイルソンと代理店契約を結んだ昭和6年に始まっている。「新着御案内」という当時のカタログには『ライダーカップ』のアイアン78円、ウッド48円など。ボールは『スポルディングKroフライト』が1ダース14円50銭、『ダンロップ』が11円50銭とある。</strong> <strong>「一九三一年の素晴らしいクラブと用品で御座いますので何卒品薄と相成り申さざる内に是非一度御一覧御用命の栄を賜り度く此段御案内申し上げます」と記述してある。</strong> <strong>その後昭和8年に尼崎工場でクラブ製造を開始(国産1号商品・スターライン)したが、第2次世界大戦が勃発して翌年から「ゴルフ品製造販売禁止令」が公布され、開戦から8年間、クラブ製造の中断に追い込まれる。</strong> <strong>養老工場はプロペラを製造、尼崎工場は戦火で焼失。終戦後クラブ製造を開始するが、鳩山内閣では「官僚ゴルフ禁止令」が出されてもいた。</strong> 当時の美津濃にとってゴルフ品は、微々たる売り上げに過ぎなかったし、相変わらずトレシャツ・トレパンが主力商品でした。 ゴルフ市場が飛躍的に伸びたのは、昭和32年のカナダカップ(現ワールドカップ)からですよ。当時「鍋底不況」ではありましたが、霞ヶ関CCで日本が個人・団体で優勝して注目された。敗戦国が、ゴルフで世界を制したことは、日本人に大きな喜びと自信を与えたものです。 ただ、それにしてもこの年のゴルフ売り上げは、全社の10%強じゃなかったかな。カナダカップ効果で養老の生産も伸びましたが、年間の生産量は1万8869本という記録が残ってます。今の時代と比べるとね、ビジネスというにはあまりに規模が小さかったですな。 <h2>ゴルフ専品部設立</h2> この頃、美津濃のゴルフ部は小売りが中心で、卸はやってなかったんですよ。街にゴルフ専門店がないからやりようもない。うちの淀屋橋本店の3階に60坪ほどの売り場があって、自社で作ったクラブをそこで売っていた。つまり美津濃は、メーカーでもあり、ゴルフショップの老舗でもあったわけですな。 卸売りを本格化したのは「ゴルフ専品部」のスタートからで、昭和37年に体制ができました。ゴルフのメーカーとして「ショップに売ろう」となったわけです。 この時、お前が責任者になれと言われて部長付を拝命し、細々と卸売りが始まります。まあ、地方のお店がたまに買いに来る程度で、ダンロップのボールが1ダース6500円、ブリヂストンで3200円。今と大して変わりませんな。東京支店は翌年、大阪管轄で専品部を設置することになります。 今となれば、スポーツのジャンルによって「事業部」を分けてますが、専品制度は事業部制の走りなんですよ。利八社長が「ゴルフ、野球、シューズ、スキーはスポーツ発展のために力を入れる」と宣言して、市場育成を目指しました。専品部隊はその種目の製造、卸、小売り、広告を一貫してやるんだと。 このあと電器の松下が事業部制を導入したので、うちは他産業に先駆けての英断でした。 <strong>専品部の設置と前後して、同社のゴルフ事業は活発化する。イタリア、豪州へクラブを輸出したり、池田内閣の「所得倍増計画」や貿易自由化で外ブラ流入が本格化するなか、美津濃は大証二部に上場。</strong> <strong>この時クラブ生産は月産約1万本へと達していた。ポリエステルヘッドの開発や、マダガスカルにクラブ輸出も始めている。1964年の東京五輪で近代化に弾みがつき、スポーツブームが到来した。</strong> 専品部になって力を入れたのが、「ゴルフ」そのものの啓蒙活動です。カナダカップの優勝で注目はされましたが、スポーツ市場全体で見ればゴルフなんか微々たる規模でしょ。 まして地方のスポーツ店は見向きもしなかったし、ゴルフビジネスの将来像を描く者もおりません。まぁ、一部の金持ちのスポーツ、社交という意識が大半だったし、そんな現実がね、スポーツ店主がゴルフを扱うのを躊躇させた。二の足を踏ませたわけですよ。 やっぱり地方の売り場は野球が中心で、店主は高校野球の出身者や地域のスポーツ関係者が多かった。こういった人達にどうやってゴルフを知らしめるか、これが最初の仕事だったし、なかなか大変なことでした。(つづく)
    (公開)2023年05月02日
    ■堂湯昇氏の略歴は以下の通り。 1951年3月 美津濃株式会社入社 1980年5月 取締役就任 1984年5月 常務取締役就任 1990年6月 専務取締役就任 1994年6月 代表取締役副社長就任 1996年4月 代表取締役専務就任 1998年6月 相談役就任 2000年6月 相談役退任 ■葬儀については下記のとおり。 会場:加納会館今宮 大阪府箕面市今宮3-2-13 喪主:堂湯弘枝氏 ※故人の夫人 通夜:10月27日(月) 18:00~ 葬儀:10月28日(火) 10:30~ ■今件に関する問い合わせ先:ミズノ株式会社人事総務部 TEL06-6614-8411
    (公開)2014年10月27日

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