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    ハッシュタグ「訃報」記事一覧

    有賀園ゴルフ創業者で代表取締役会長の有賀明氏が9月10日、老衰のため89歳で逝去した。葬儀は近親者のみの密葬にて執り行われた。(本葬・お別れの会については後日、改めて告知される見込み) 北関東の一練習場から始めた事業を、首都圏を網羅するゴルフ量販チェーンへ育て上げた人である。昭和36年(1961年)に北関東で初の本格ゴルフ練習場を開業、翌昭和37年に有賀園ゴルフを設立し、用品販売と会員権売買の専門店として足場を築いた。昭和57年に多店舗展開の1号店「太田店」、昭和60年に高崎本店、昭和63年には埼玉1号店の川越店へと進出した。平成4年にはゴルフショップとして異例の250坪大型店「草加店」を開いた。 商才が端的に表れたのが、平成6年3月に業界に先駆けて走らせた移動販売型バス『デカチタン号』である。翌年には2台体制とし、ゴルフ場での試打販売会を年間500回以上敢行して、チタンドライバー普及の一翼を担った。後年、長男の史剛社長が「かつて“デカチタン”という言葉が流行りましたが、今こそ有賀園が流行を作る」と語ったのは、この記憶があってこそだろう。 平成9年、東京へ進出する。環八沿いの杉並店(計430坪、在庫含め投資11億円強)を10月8日に開業、同月22日には錦糸町そごう内に都内2号店を出店した。オープニングセールの売上は5日間で1億8000万円、初日の4500万円は当時の同社最高額を更新した。 当時社長だった有賀氏は本誌に、「不透明な時代に積極策を敢行するのは勇気がいる。しかし、ゴルフ業界全体の活性化を考え、なおかつ当社の長期戦略を実現するには必要な決断だった」と述べ、「安売り、乱売の時代は終わった」と続けている。千葉店には18億円超を投じ、首都圏30店舗・物販150億円を中期目標に掲げた。平成12年には楽天市場店を開設し、用品業界では早期のネット参入組となった。 積極出店の人でありながら、意思決定は慎重だった。史剛社長は本誌に、「とにかく慎重なタイプです。経営、取引、対人関係など、すべてに関して、『このぐらいでいいか』ということは絶対にない」と語っている。引き際も潔く、2011年12月に社長を譲り、2015年6月の創業55周年・新本社ビル落成式典では式次第に自らの挨拶を入れず、会長室も新社屋に移さなかった。「もうね、78だから。若い者の時代ですよ」——有賀氏はそう語ったという。 本誌は当時、親子の事業継承が円滑に運ぶ稀なケースとして記録している。 練習場から用品販売へ、用品販売から会員権へ、店舗から移動販売バスへ。ゴルフとの接点を増やし続けたその商法は、業界がいま課題として語る「入口の多様化」を半世紀前に先取りしていた。心よりご冥福をお祈りする。
    (公開)2026年09月16日
    5月14日、三浦技研代表取締役会長の三浦勝弘氏が逝去した。享年84歳。昭和17年10月生まれ。森田ゴルフ、児島鉄工所、共栄ゴルフ工業を経て、1977年2月に三浦技研を創業。ジャック・ニクラウスを始め、多くのプロゴルファーのアイアンを創ってきた。近年では全米女子オープンを2度制した笹生優花のアイアンが記憶に新しい。生涯現役だった勝弘氏は、亡くなる数日前まで研磨作業を行っていたという。葬儀は5月17日、兵庫県神崎郡市川町で250名超の参列者に偲ばれながらしめやかに執り行われた。心よりお悔やみ申し上げます。 動画は2018年取材時の三浦勝弘氏の研磨風景。
    (公開)2025年05月24日
    ササキの会長である佐々木チカヨ氏が、12月15日に逝去された。享年83歳。 心よりご冥福をお祈りいたします。
    (公開)2024年12月18日
    ダイヤの創業者である会長の豊澤學氏が、10月4目に逝去された。 享年89歳。葬儀は故人の遺志により10月7日に家族葬にて執り行われた。 心よりご冥福をお祈りいたします
    (公開)2024年11月20日
    和宏エンタープライズ足立忠雄社長が、2024年2月19日に肺炎ため逝去された。82歳だった。通夜、告別式は家族葬で執り行われた。 心よりご冥福をお祈りいたします。
    (公開)2024年02月26日
    故人の略歴は以下の通り。 1946年8月 美津野株式会社入社 1980年2月 スポーツ施設部長 1982年5月 取締役就任
    (公開)2015年07月21日
    故人の略歴は以下の通り。 1951年3月 美津濃株式会社入社 1977年2月 大阪宣伝部長就任 1978年8月 大阪宣伝部長兼宣伝販促本部副本部長就任 1980年2月 広報宣伝本部長就任 1980年5月 取締役就任 1987年5月 常務取締役就任 1994年6月 専務取締役就任 1996年6月 相談役就任 1998年6月 相談役退任
    (公開)2015年04月08日
    1981年10月にフォーティーンを設立。創業の目的は、ゴルフクラブの設計会社を立ち上げることで、横浜ゴムがゴルフ市場へ参入した当初、ヘッドスピード理論を搭載したクラブ開発に多大な貢献をした。また、杉原輝雄が使用して爆発的なヒット商品となった国際興業の『モメンタム』も、竹林氏の設計思想を取り入れている。そのほか、長尺アイアンへの挑戦などで、個性的な商品を世に問いつづけた。近年はウエッジ市場で高いシェアを獲得するなど、存在感のあるニッチメーカーとして地歩を固めた。 同社の転機は2008年10月で、グローブライドへ株式を売却、完全子会社となった。その理由について竹林氏は、「会社の成長性を高めるには、あらゆる意味で中小規模では限界がある」と話していた。以後は同社の特別顧問として経営の一線から退き、商品開発に専念。ドライバー市場への捲土重来を期した2013年は『ゲロンディー』が人気を呼び、「脱ウエッジメーカー」の糸口を見出したばかり。あまりにも早すぎる逝去だった。 葬儀等は未定だが、後日「お別れの会」が行われる予定。巨星墜つ、合掌――。
    (公開)2013年12月27日
    昨年12月28日に逝去された杉原輝雄氏(享年74歳)の「お別れの会」が、下記のとおり行われる。2月13日(月)、場所はリーガロイヤルホテル タワーウイング3階「光琳の間」(大阪府大阪市北区中之島5‐3‐68 電話06‐6448‐1121)。13時から近親者及び関係者による式典を執り行い、一般献花は14時30分~15時30分の予定。葬儀は日本プロゴルフ協会、日本ゴルフツアー機構、ジャパンゴルフツアー選手会の合同葬となる。
    (公開)2012年01月30日
      プロ入りは1957年で、初優勝は「日本オープン」(1962年)だった。以後、「日本シリーズ」3勝、「関西オープン」9勝、「関西プロ」9勝など、レギュラーツアー54勝の活躍をみせた。シニアツアーも「日本プロシニア」3勝など6勝。1984年に発足した「選手会」の初代会長も務めており、ゴルフ界の発展に貢献している。1997年末に前立腺癌の宣告を受けながらも、手術を受けず、競技への出場を優先した。2006年の「つるやオープン」では68歳で予選を通過し、ツアー最年長予選通過記録をマーク。また、2010年の「中日クラウンズ」では同一大会51回連続出場の世界記録を樹立している。恵まれない体格ながら、粘り強い小技の妙で数々の名勝負を演じたことから、『マムシ』の異名をもつ。歯に衣着せぬ独特の語り口にはファンが多い。   日本プロゴルフ協会の松井功会長は、「小さな体をものともせず、並み居るトッププロや海外選手を倒していく杉原さんの姿に、同じプロゴルファーとして憧れと共に尊敬の念を抱いていました。そして、ガンと戦いながらも試合に出続け、数々の記録を樹立されるなど、不屈の闘志には頭の下がる思いでした。心からご冥福をお祈りいたします」と、哀悼の意を表わしている。   一時代を築いた名選手が、またひとり永眠された。心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
    (公開)2011年12月28日
    島田ゴルフ製作所会長の島田浅夫氏はここ数年、健康を害して入院中だったが、9月7日逝去された。享年90歳。11日に親近者による葬儀が行われた。 島田氏はゴルフ界の草分けで、昭和5年に国産初のゴルフ用シャフト、スキー用スチールストックの製造に着手。体育文化の発展と発明の新興が認められ、昭和43年に(社)全国日本学士会より業界ではじめてアカデミア賞を受賞。平成8年勲五等瑞宝章受賞。(社)日本ゴルフ用品協会副会長、相談役を歴任しゴルフ業界の発展に尽力された。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
    (公開)2010年09月16日

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