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    ハッシュタグ「遠藤淳子の女子プロ列」記事一覧

    月刊ゴルフ用品界2014年10月号掲載 なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> 「俺が母親になるから、父親になって」――こんな言葉をパートナーからもらったら、バリバリと働く女性はみな歓喜するに違いない。反面、子供の成長につれて、父子の絆ばかりが強くなることに、複雑な思いを抱くことにもなるはずだ。 まるで、子育てを妻に任せて仕事に精を出す一般の父親のように‥‥。 実際、夫からこんな言葉をかけられたのは、日本女子ツアー6勝の茂木宏美。2010年10月に結婚した窪田大輔氏は元スノーボーダーで、現在はマネージャーも務めている。同時に、家事なども一手に引き受けることで支えてきた。 そんな2人は今、小さなもう一人の家族を連れて転戦を続けている。2月12日に誕生した長女、和奏(わかな)ちゃん。窪田氏に抱かれ、女子プロやツアー関係者たちにいつも取り囲まれている人気者だ。 妻が働き、夫が支える。古臭い日本の因習にとらわれることなく、ごく自然に2人は力を合わせ、茂木は日本ツアーのトッププレーヤーの一人となっていた。 カップルにおける男と女の役割分担は本人たち次第。だが、一つだけ、どうしても女にしかできないのが出産だ。男がどんなに頑張っても、これだけは代われない。長期の休養を余儀なくされ、体に変化をもたらす出産は、女性アスリートにとってリスクが伴うものでもある。それでも子供を育て、一緒に歩んでいきたいと思うのは、ごく自然な気持ちに違いない。 日本の現実は、まだまだ厳しい。女子ツアーにもも産休制度はある。それでも肉体的変化に対応し、ブランクを乗り越えるのはもちろん本人の責任だ。葛藤しているうちに年齢を重ねてしまう女性アスリートは少なくない。特にゴルフはプレーできる期間が長い分、人生への影響も大きい。 33歳で結婚した頃、茂木はまだ「いつかは子供が欲しい」と漠然と考えていた。尊敬し、あこがれる大先輩、塩谷育代が第一子を出産したのが36歳だったということは意識していたが‥‥。 子供を持つことへの思いは、すぐにもっと強いものになった。結婚後、初めて迎える2011年のシーズンを前に、話し合った夫妻は「メジャー(公式戦)タイトルを獲って子供が欲しい」という大目標をたてその準備に取りかかった。 ゴルフは順調で、2011年は1勝で賞金ランキング20位。2012年は未勝利だったが安定した成績で、ランキング16位と、毎年、ステップアップした。 <h2>ピンクのゴルフノート</h2> こうしてゴルフと私生活の二本の目標に向かって頑張りながら、茂木は毎日、記録をつけ始めた。ピンクの表紙に『2011年~ひろみゴルフノート』と書かれた一冊。妊娠するだいぶ前から出産、そして復帰を見据え、あらゆることが書き込まれている。 オフを経て臨む開幕戦では毎年、緊張して体が硬くなるのに、産休で約9か月もツアーを離れた後「緊張してひどいことになるだろう」と想定。朝起きてからの支度、コースでのキャディと一部始終。練習、ラウンドだけでなく、何から何まで記されている。 練習日、プロアマ日、本戦日。それぞれ違うルーティンを書き、その時に備えた。 2013年5月、茂木はワールドレディスサロンパスカップで佐伯三貴、森田理香子、リディア・コらを向こうに回して公式戦初優勝。前後して妊娠したことが発覚した。目標の1つをまず達成し、出産という人生の大仕事に向けてもスタートを切ったのだ。 9月の日本女子オープンを最後に産休に入ったが、その間も早い復帰を目指し、体調管理に気を配って過ごした。3480gの和奏ちゃんを出産した時は、ちょうど37歳。先輩だった塩谷とほぼ1年しか違わなかった。   出産の喜び、赤ちゃんのいる忙しくも幸せな時間にどっぷりと浸る間もなく、すぐに復帰への準備が始まった。2週間後には散歩を開始。1か月後にはトレーニング、時を同じくしてボールを打ち始めたが、股関節が硬くなっているのが気になった。 思うような球が打てず、くじけそうになったこともあったが、そんな時、支えになったのが夫と娘、そしてピンクのノートだった。出産後、初のラウンドを前に緊張した時、ページをめくると流れがわかって落ち着いた。ノートを広げるだけで「ああ、こうやればいいんだな」と落ち着いた。 <h2>茂木宏美がゴルフで稼ぐ</h2> 出産から4か月後。6月のアース・モンダミンカップは、自らのスポンサーの試合でもある。ここを復帰戦と決めて努力した。家族、師匠、トレーナー、キャディ。周囲の人々の協力のもと、無事、復帰戦に登場したときには、産休前より少しだけ柔らかい表情で、再びその舞台に立てる喜びに満ちた茂木がいた。 そうは言っても、試合に臨むには、優しい母の顔はむしろ邪魔になる。茂木は家族の稼ぎ頭だ。夫から冒頭の言葉をかけられたのは、まさにこの頃だった。これを聞いて茂木も覚悟を決めた。 「私たちには私たちのスタイルがある。家族が一番だけど、私がゴルフを一番にすることが家族のため」と、和奏ちゃんと過ごす優しい時間とは気持ちを切り替えて、ゴルフに専念することにした。 妻がゴルフで稼ぎ、夫がこれを支えるという道を選んだ2人が、改めて腹をくくり、お互いの役割を確認し、歩み始めたと言い換えてもいいだろう。 「娘が何かを感じてくれる年齢になるまではゴルフを続けたい」というのが現在の茂木の目標だ。塩谷は出産後に3勝しているが、もちろん、茂木の視野にもこの数字は入っているに違いない。 自分同様、プロゴルファーと母の2つ道を求める後輩がいれば『ひろみゴルフノート』を参考にアドバイスを送る気持ちも強い。 自分の道は自分で切り開くもの。この当たり前のようで、実践するのは難しいことを、茂木は見事に成し遂げている。周囲との調和も上手にとりながら、自然体でいる。 和奏ちゃんの存在が、ツアーで迷惑をかけないようにという気遣いもしている夫妻だが、むしろその存在は、周囲を和ませている。それを見て「自分もあんな風になりたい」と言った若いプロも何人もいる。 人に言えない努力や忍耐があるに違いないが、それを笑顔で乗り越えてプレーする姿は、人々に勇気を与えてくれる。それが復活優勝なら最高だ。 <h2>母親記者「淳子目線」</h2> 和奏ちゃんを中心にした笑顔の輪。女子ツアー会場で、こんな光景が当たり前になればいい。出産後に活躍している選手はまだまだ少ない。各自の努力はさておき、ツアーもそれをサポートする環境をつくるべきだ。 生涯スポーツのゴルフと、働く女性。女子ツアーはその2つの“広告塔”という面を持っている。子連れ参戦が増えることは、ツアーにとっても存在をアピールするメリットがある。 20年以上前から託児システムが定着している米女子ツアーに比べ、日本の環境は進化していない。だが、幸せそうな家族の姿にツアーでの輝く選手の姿が加われば、ここに一石を投じることができる。茂木宏美とその家族には、そのパワーが感じられる。
    (公開)2017年08月29日
    月刊ゴルフ用品界2017年6月号掲載 なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> 「ゴルフのいいところは人をけなさずほめるところ。ジュニアのレッスンでも、相手を認め、自分も認めるように教えています」。そう微笑むのは阿部まさ子。 旧姓の礒村まさ子で臨んだ1979年秋のプロテストは、3ラウンドをパープレーで回ってブッちぎりのトップ合格。当時、放映されていたNHK朝ドラから“マー姉ちゃん”のニックネームをつけられ、スポーツ紙の見出しを飾った。 注目を集めてのプロ入りだった。ツアーでは、シード権まであと一歩のところにこぎつけたことも何度かあったが、惜しくも及ばず。1991年の豪州女子ツアー。大京オーストラリアオープンを最後にツアーからフェードアウトした。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2017/07/170711_abemasako.jpg" alt="" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-1268" /> 「トーナメントは10年できれば」と考えていたこともあり、3年前に結婚し「そろそろ子供が欲しい」と思ってのことだった。 <h3>鬼嫁?主人は話がうまいから</h3> ツアーから離れて久しいが、近ごろはテレビレポーターの夫、阿部祐二氏の“鬼嫁”としての知名度もある。 「家庭は奥さんが主導権を持ったほうがうまくいくでしょう?」と、苦笑した。携帯電話がない新婚時代。 離島に出張中の夫のホテルに何度も電話をし、いるはずの居酒屋をつきとめ、電話口に呼び出したこともある。それをテレビで夫の阿部氏が楽しく話し鬼嫁像ができあがったようだ。 <h3>初ラウンドでハーフ50台</h3> 千葉県市川市で旅行社を営む父、一雄さん、母、登志子さんの第3子として誕生。家族揃ってゴルフを楽しむ家庭で育った。 スポーツ好きで身長も高く、中学ではバレーボール部に入ったが「個人競技のほうが向いているような気がして」と退部。 ゴルフに夢中になった。その頃から毎日、自宅から自転車で30分の中山ゴルフセンターに通うのが日課になった。 「ゴルフの難しいところが面白かった。奥が深いなぁ、と思うようになって。なぜ? って追及していくのが楽しくて仕方なかった」と、練習場のアシスタントプロからアドバイスを受けて1年間、ひたすらスイングを固め、3年の夏休みに日光CCでコースデビューした。 いきなりハーフ50台で回り、さらにゴルフに熱中。ダイエットのために40代後半でゴルフを始めた父を越えるのに時間はかからなかった。 <h3>師匠との出会いは文通が縁</h3> ゴルフを最優先に決めた進学先は、昭和学院高校。自宅と練習場のちょうど中間に学校があり、それぞれ自転車で15分しかかからないのが魅力だった。 早朝、営業前に練習場を開けておいてもらい、日の出と共に”ひとり朝練“に励む。一度、帰宅してシャワーを浴びて登校。放課後も練習場に直行して再び球を打つという生活を続けた。 「ジュニア選手権というのがあると聞いて」関東ゴルフ連盟(KGA)に問い合わせ、試合に出始めた。高校1年の初出場は、浮間Gでの予選で敗退したが、2年、3年は霞が関CCの全国大会にコマを進めた。著しい上達の裏には、熊本の友人が結んでくれた縁がある。 試合でできた同世代の友人たちの中でも特に友情をはぐくんだのは熊本の子だった。携帯電話もメールもない時代のこと。文通を続けるうち、その子のお父さんの縁で柏在住の関水利晃プロを紹介してもらい、師事した。 「修学旅行の週が日本女子アマだったから『そんなとこに行ってる場合じゃない』と、旅行のほうを休んだこともあります」と、ゴルフ漬けでいながら、勉強もする。そんな高校生活だった。 <h3>自信満々で臨んだプロテスト</h3> 高校卒業後、半年間は関水の下に通ったり、実戦を重ねて秋のプロテストに臨んだ。「ここに来ている人の誰よりも練習している自信がありました」と、不安もなく臨んだ結果がトップ合格だった。 師匠の縁で大先輩の中村悦子を紹介してもらい、そのつてで大迫とも親しくなった。合宿に何度も参加させてもらい、教えを乞うこともあった。当時はまだ珍しいジュニア出身プロ。 主催者推薦での出場も多く、風当たりも強かったはずだが「たぶん、中村さんやその後ろにいる二瓶(綾子=当時のLPGA理事長)さんが守ってくださったんだと思います。今思えば、ですけど。私はずっとそういう縁に恵まれていた」と、ゴルフに集中できた。 それでも、プロの生活は厳しい。転戦するだけでいっぱいいっぱいの日々が続いた。 <h3>夫との出会いはジム</h3> そんな中で、後に夫となる阿部氏と出会った。26歳の時、同じスポーツジムに通っていて紹介された。ゴルフに夢中でテレビも見ないから俳優だったことも知らない。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2017/07/2.jpg" alt="" width="760" height="507" class="aligncenter size-full wp-image-1515" /> 東京よみうりCCのワールドレディスに応援に来てくれたとき、大勢のギャラリーの中で阿部氏の顔だけが浮き出て見えた時、運命を感じた。185㎝の身長のせいだけではなく「ゴルフより大切な人になっちゃうかも知れない」と。 それなのに、プレー後、クラブハウスで食事をして「今度いつ会えますか?」と言われて返した言葉は「シーズンオフね」というつれないもの。今でも夫婦の間で笑い話になるエピソードだ。本人には振ったつもりなどさらさらなかったが、それほど、ゴルフに熱中していた。 それでも阿部氏は猛アタック。礒村家の家族にも気に入られ、28歳で結婚した。その後も5年は試合に出るという話になっていたが「私の中で優先順位が変わっていたのかも」と、レッスンに軸足を移す心の準備をし、ツアーを離れた。 <h3>子連れで福井に出張も</h3> 長女、桃子さん出産後も、所属先だった福井の丹生CCでのレッスンの仕事は継続。赤ちゃんと一緒に飛行機に乗り、現地で保育所に預けて仕事をした。桃子さんが小学生になるタイミングで福井の仕事は離れ、千葉に住んで子育てと仕事に熱中した。 母のジュニア教室などからゴルフを始めた桃子さんは、大学卒業後、プロテストの1次を受けたがうまくいかずに断念しており、現在はミス・ユニバース・ジャパンに挑戦中。千葉県代表に選ばれ活動中だ。 それを見守りつつ、現在はLPGAゴルフスクールでレッスンをしたりする落ち着いた日々。「ゴルフは自分を客観視できる」と言う落ち着いた口調こそ、阿部の身上なのかも知れない。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2017/07/3.jpg" alt="" width="760" height="507" class="aligncenter size-full wp-image-1513" /> <h3>淳子目線</h3> 近頃はボイストレーニングに通っている阿部。テレビ番組で家族揃って歌ったのがきっかけだった。持ち歌は3曲。テレビで披露した”糸“の他に”Story”“ハナミズキ”といずれも歌唱力が要求されるものばかりだ。 実は、子供の頃「歌手になりたい」と“スター誕生”予選に出場し、朱里エイコの“恋の衝撃”を歌ったこともあるだけに、子育てが一段落した今、人生を謳歌していることが伝わって来る。 一方でジュニアゴルファー時代、修学旅行より試合を優先させたりしたことを反省。「ゴルフ以外の経験も大事」と、ジュニアゴルファーだった桃子さんには勉強も含めて様々なことを経験させて育てた。 だから、プロテスト受験も「何でも自分でやってみないとわからないから」と反対しなかった。同じように、ミス・ユニバースへの挑戦も応援している。
    (公開)2017年07月19日
    月刊ゴルフ用品界2016年8月号掲載 なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> 2016年4月大地震に襲われた九州、熊本。この地で生まれ、ゴルファーとして成長した青山加織は自宅で被災した。シーズン第7戦、KTT杯バンテリンレディスの舞台は熊本空港CC。その前夜のことだった。 試合は中止となり、自宅は滅茶苦茶。知人宅に避難しながらかって出たのが、故郷のための物資運搬だ。目が覚めると頭の中で一日の段取りを組み立てる。仕分け、積み込みをして避難所に向かう。故郷の惨状を放っておけず「動ける人が動かなくちゃ」と、約2週間、ガムシャラに動いた。 地元の友人たちとの固い結束と、プロゴルファーならではの知名度と、顔の広さを使って、積極的に現状と必要なものをアピール。想像以上の物資が集まったのは、その活動ぶりが信頼され、支援の思いを託されたからこそだったろう。 7月4日、遠征先の函館で31歳の誕生日を迎えた青山は、女子プロの中でもオシャレなことで知られる。キレイな長い髪を、様々なスタイルにまとめ、私服にもこだわりがある。 地震前までは、SNSにもごく普通の若い女性らしい写真が並んでいたが、震災直後はガラリと様相を変えた。スッピンにマスク。バックに写るのは段ボールの山やワンボックスカーだ。なりふり構わず駆け回る様子は胸を打った。 <h3>故郷のために走り回った</h3> 4月14日午後9時26分。最初の揺れが襲ったときは、ひとり自宅にいた。試合に備え、すでにベッドの中。ガッチャン、ガッチャンと音を立てて棚から物が落ちるのを呆然と見つめ「どうしよう」となすすべもなかった。 一番最初に頭の中に浮かんだのは試合のこと。「みんなはコース近くのホテルに泊まっているのに、私は自宅だから遠い。ちゃんと行けるんだろうか」。そう思いながら、姉のように慕う表純子に電話をすると。「大丈夫?落ち着いて」と言われて少し冷静になった。 だが、仕事をしていた母からかかってきた電話には、安心したのか思わず泣いてしまったと言う。 <h3>恐怖に叫び、過呼吸に</h3> 翌晩(4月16日午前1時25分)の揺れはさらに大きかった。気が付くとさっきまで自分がいたベッドに大きなクローゼットが倒れ込んでいた。無意識に立ち上がったことで難を逃れたのだ。恐怖に「ママ~!」と泣き叫び、過呼吸を起こしていた。母のベッドに並んで座り、子供の時のように寄り添ってもらった。 以下の写真は、青山加織プロ提供。2017年1月26日の日本ゴルフジャーナリスト協会のトークショーで使用したもの。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2017/06/170621I4.jpg" alt="青山加織プロ自宅" width="720" height="540" class="size-full wp-image-993" /> さっきまで自分がいたベッドに大きなクローゼットが倒れ込んでいた 怯え、呆然としていた青山がガラリと変わったのは、避難してからのことだ。試合は中止。その後も揺れはなかなか収まらない。母を離れた知人宅に避難させ、自分は避難所となっていた公園へ行った。500~600人もの人々と共に不安な一晩を過ごす。物資は不足。トイレにも困っていた。 最初の物資は、長崎から届いた。先輩の表が、試合に備えて借りていた車を、長崎のスポンサーが引き取りに来ると聞き、こう頼んだのだ。「食べ物などを多めに持って来ていただけませんか」。同郷の井芹美保子と共に受け取った救援物資を、周り中の人に配った。これが第一歩だった。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2017/06/176021I5.jpg" alt="物資が足りていない人に配った車" width="788" height="678" class="size-full wp-image-994" /> 物資が足りていない人に配った 翌日、少し離れた知人宅に避難。阿蘇郡、西原村のあるエリアに手伝いに行った時、衝撃を受けた。市内にはもう自衛隊の救援が入り、物資も豊富に届き始めているのに、そこは忘れ去られたように何もなかったからだ。 <h3>SNSで窮状を発信</h3> 「こういう地域もあると言うことを知らせなくちゃ」と、発信を始めた。SNSで気遣ってくれた人に、個人として「大丈夫です」と書き込んでいたが、そうではなかった。 「全然大丈夫じゃない!と気が付きました。どこまでできるかわからないけど、できることをやろう」と決めた。青山の投稿はどんどんシェアされ、ものすごい勢いで広がっていく。 最初に長崎から物資を運んできてもらった会社に相談して、直接、熊本に届かない支援物資の受け取りと、移送を快諾してもらった。それを青山が避難先で受け取り、友人たちと共に配るシステムができあがった。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2017/06/176021I6.jpg" alt="仲間と奔走" width="720" height="562" class="size-full wp-image-995" /> 仲間と物資を届けて回った ちょうど、『三益式』という〝30歳の成人式〟を行ったばかりだった。「30歳になったら社会貢献をしよう」という志を持つ実行委員の友達が近くにいた。79人いる三益式のグループLINEで情報を共有。避難所となっているそれぞれの学校に電話でも確認した。 所属先の株式会社コンフェックスから「ものすごい量の物資が届いた」のを始め、全国から次々に心のこもった様々な物が届く。毎朝、目が覚めるとすぐに頭をフル回転させて仕分けをし、仲間と共に車に積んで出かける。 人々の思いと若者の連携の素晴らしさで、必要な物が必要な場所に届くようになった。配布の様子をSNSにアップデートしたことで、信頼は大きくなり、知り合いだけでなく、知らない人からも荷物が届くようになる。車で見かけたおばあさんに、水を持って走っていくと涙を流して喜ばれた。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2017/06/170621I7.jpg" alt="避難所に物資を届けてまわった" width="788" height="496" class="size-full wp-image-996" /> 避難所に物資を届けてまわった 中止を含めて3週間、試合から離れた。復帰したのはシーズン最初の公式戦、ワールドレディスサロンパスカップ。周囲に「もう十分やったから。あとはゴルフの成績でみんなを元気にして」と、背中を押されてのことだった。 ようやく故郷も落ち着いたため、練習を再開。最初はシャンクが出たりもしたが、すぐに感覚は戻ってきた。「ゴルフができてうれしい」と言う気持ちがこみあげた。 <h3>岡本綾子の映像と共に育った</h3> 父、政隆さんは大のゴルフ好きで岡本綾子の大ファンだった。だから出産後、ダイエットのためにゴルフを始めた母、眞由美さんは岡本のレッスンビデオでゴルフを覚えた。 毎日、岡本のスイング映像が流れる自宅で生まれたばかりの青山がミルクを飲んで育った。練習場にも行ったし、週末のラウンドにも、カートに乗せられていた。当たり前のようにゴルフを始め、小6の時には史上最年少(当時)でツアーに出場。 やがて、プロになり、岡本に師事するようになる。初優勝に向けて満を持して臨んだシーズン序盤に経験した大きな出来事を経て、青山は、大きく成長した。 「(地震は)2度と起きて欲しくない。でも、貴重な経験ができました。これを今後のゴルフ人生に生かしていきたい」。輝く瞳でこう口にした青山は心身ともにたくましくなった。待望の初優勝への準備は整った。 <h3>淳子目線</h3> 少女から大人へ。女子プロの取材では、その成長の早さに驚かされることが多い。31歳の青山は、すでにツアーでは中堅のお年頃。とっくに大人になってはいたが、今回の経験で一気に変わった。 元々、自分の事をしっかり話すことができ、周りも見えている。それでいて喜怒哀楽も表情に出ていた。いいところはそのままに、パワーアップした感じ。表情にも、一言一言にも、厚みが出た、と言ったらいいだろうか。 人への思いやりや優しさを、照れることなく表に出す。協力を募り、周囲から託された気持ちを確実に届け、そのことを報告する。全体を見て、できることをやる。震災後、熊本で精いっぱいしたことすべてが、青山を人として大きくしたのだろう。 人間としての総合力が必要なゴルフで、それは必ず、生かされるに違いない。
    (公開)2017年06月21日

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