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    ハッシュタグ「遠藤淳子の女子プロ列伝」記事一覧

    月刊ゴルフ用品界2016年7月号 『女子プロ列伝』に掲載。 なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 不惑を迎えても、これからやりたいことリストが次から次へと浮かぶ。それが東尾理子の魅力なのかもしれない。 「今の自分があるのはゴルフのおかげ。だから、ゴルフに恩返しがしたい。ゴルフの楽しさを教えるのもいいし、ジュニアにゴルフを紹介するのもいい。障害者もやりやすく金銭的にもハードルの低いスナッグゴルフにも興味があります。解説の仕事も勉強になるし面白い。試合? やっぱり魅力ですね。45歳になったらレジェンズツアーに出られるかなぁ。身体を作って練習して準備して‥‥。大変ですね」と、笑う。 ゴルフ関係だけでもこれだけの夢がある。 <h2>ゴルフへの恩返し。カウンセラーとして、母として</h2> 大学時代に専攻していた心理学の世界への興味も尽きない。仲間(ピア)としてカウンセリングをするピア・カウンセラーの資格を取得。 自ら経験した治療を経て、"「不妊」じゃなくてTGP"まで著していることから「不妊ピア・カウンセリング」の活動を熱心に行っている。本のタイトルになったTGPとは、東尾自身の造語でTrying to Get Pregnantと言う意味を持っている。 これはネガティブなイメージのある「不妊」という言葉の代わりになるものだ。「治療中の人、治療を始めようとする人に対して、私は金銭的な支援も身体のサポートもできないけど、心のケアはできるから」と、いう思いでしているものだ。 東尾自身、英ツアーに参戦していた頃に「子供が2~3人欲しいならそろそろ結婚しないと」と気づいた。30歳を過ぎた頃だった。俳優の石田純一氏と結婚したのが2009年。34歳の時だ。 翌年からTGP治療を始めたことを、ごく当たり前にブログやテレビ番組などで包み隠さず話していたら「なんで(TGP治療を)カミングアウトしたんですか?」と尋ねられ「隠すことだなんて思ってもいなかった」と驚いた。バッシングも受けた経験がある。 <h2>性教育よりも生殖教育を</h2> だからこそ、若い女性たちのことが気になって仕方ない。 「経験上色々勉強しました。結婚は相手が必要だけど自分の意志でできること。でも、子供を持つことは自分の意志だけではできないことを知ってほしい。年齢によって考えなければいけないこともある。養子を取るにしても年齢制限がある。子供が欲しいと言っても、産みたいのか、育てたいのか、遺伝子を残したいのか。よく考えた上で検診を受けて欲しい。そういう意味でも日本の性教育は生殖教育としてきちんとやって欲しいですね。女子プロの後輩たちにも話したい。その啓発もやりたいこと」と力強く語った。 TGP活動の甲斐もあり、現在3歳の長男(2016年7月当時)、3月に生まれたばかりの長女、2人の子育てを優先しながら仕事をしている。一番大切なのは子供たちとの時間。「知識だけじゃなくて、それを行動に移せる人間になって欲しい」という方針で、日々、接している。 「トンビ」のニックネームで知られる名投手、東尾修の長女として1975年に誕生。父は、西武ライオンズの本拠地、埼玉県に単身赴任中。母、タマエさんと2人、福岡県で幼少期を送った。 ゴルフとの出会いは、母のお腹にいる時のこと。出産で太り過ぎた母が勧められたのがゴルフだった。その後、母はアマチュアとして実績を残したのだが、娘にとって最初の記憶は、練習場で遊んでいたというものだ。子守を頼まれたレッスンプロが、せっかくだから、と手ほどきを始めたのがきっかけで、短いクラブを握り始めた。 テニスにピアノ、エレクトーンに英会話と習い事は山ほどしたが、唯一、続いたのがゴルフだった。中学で東京に引っ越してからも、大した練習はしていない。 「私には一度も言ったことがないけど、どうやらプロになって欲しかったらしい」という父が「週1回でいいから練習してくれ」と、レッスンプロを連れてきた。高校生の時だ。娘は、試合の後で夏期講習に通ったりしていた。プロゴルファーの多くが大学出身だが、卒業ではなくて中退ばかりと言うのも気になった。 「あれと同じではイヤ」と、負けず嫌いな性格のまま、勉強も続けていた。ゴルフ中心というわけではなかった。 それなのに、高2で日本女子アマ・マッチプレーで優勝。状況が一変した。「本当に実力ではなく、直前に練習したバンカーショットと、買ったばかりのスワンネックパターの調子がよくて、まちがいで勝ってしまった」と笑う。 成績が出なくても父が有名なため大きく報道され、ねたまれるのが嫌で、実力をつけようとしていた少女が、結果を出した瞬間だった。 <h2>どこまでゴルフがうまくなるだろう?</h2> それでも、プロゴルファーになるつもりはまだまだなかった。日大を経てすぐにスカラシップでフロリダ大に留学。心理学を専攻した。日本とは違い、成績が悪いとゴルフもできない。必死で勉強した。ゴルフもしたが、息抜き程度。 この生活がかえってゴルフへの渇望を生んだ。卒業がほぼ決まった最後の夏休み、米国で初めて、ゴルフ漬けの2週間を送った。そこで「どれだけゴルフがうまくなれるか打ち込んでみたい」と、プロへの気持ちが芽生えたのだから、人生はわからない。 ミニツアーのフューチャーズ(現シメトラ)を経て、日本のプロテストに一発合格したのが1999年のこと。2003年のシーズン終盤、エリエールレディスで古閑美保とプレーオフをして敗れたのが、最も優勝に近かった時。 自分でも、ゴルフがすごくうまくなったことを実感しており、期待でいっぱいだった。ところが、その3日後、両足をねんざしてしまう。2004年から2007年までは米国でプレーしたが、その間にも左肩の靭帯損傷で手術をするなど、故障に泣かされ、今日までプロでの優勝はない。 「あの時、優勝していれば違っていただろうし、肩の手術をしていなければ、そのままアメリカで試合に出ていたはず。そうしたら結婚もしていないし、子供もいないと思います。だって、試合は打ちのめされても楽しいものですから」と、人生の成り行きを楽しんでいる。 貪欲で、そして成り行きに任せることも知っている40歳(2016年6月当時)。まだまだこれから、やりたいことは増えて来るに違いない。 <h2>淳子目線</h2> 取材当日、うれしいことがあったと教えてくれた。TGP活動の流れで、長女出産前の遺伝子検査で染色体異常が見つかった。これを公表するとひどいバッシングにさらされた。 有名人の子供としてこの手のことには慣れている。「タブーに対する問題提起ができてよかった」と前向きに思っていたところ、ある知人から感謝された。やはり異常が見つかり、家族から出産を止められ、責められた経験を持つ人だった。 「何があっても生み育てる」という東尾の意志に励まされたというのだ。「子供を殺さずに済んだのは理子さんのおかげです」と言われた。妊娠、出産と言う節々での正解は、誰にもわからない。 だがバッシングに屈することなく、自分の正解を示した東尾の行動が、一人の子供と母親を救ったことだけは紛れもない事実だ。
    (公開)2018年09月15日
    月刊ゴルフ用品界2016年9月号 『女子プロ列伝』に掲載。 なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 中溝裕子はいつも笑っている。「人間はいつも、自分が見たいものを選択して見る。人生、悩むのが当たり前。でも、その中で1つでもやりたいことが実現できたら楽しいでしょう? だから楽しいほうにアンテナを向けていればいい。悲しく時を過ごすのも、楽しく過ごすのも自分次第なんです」。 こんなセリフがさらりと出て来るのは、何度も死線を乗り越え、苦しんだ経験を持つからこそだ。 <h2>難病のまま、試合に出続ける</h2> 1965年生まれ。本当なら現在、50歳だが「2度目の誕生日」と呼ぶ骨髄移植から18年が経つ。23歳でプロテストに合格。ところが「さあ、これから」というときに10万人に1人と言われる難病にかかり、以来、病気とその後遺症と戦い続けている。 ツアー転戦中に体のあちこちにアザができていることに気が付いたのは、プロ3年目の夏だった。日焼けしているのに顔色が悪く、微熱が出ることも続いた。検査を受けたらトーナメント会場に連絡があり「血液に異常が見られるので、ご両親と一緒に、すぐに来てください」と言われた。 赤血球と白血球が減っており、検査入院の結果、判明した病名は骨髄異型性症候群。「今のところ治療法はありません」という宣告付きだった。 ショックは大きかった。「私は何のために生まれてきたのだろう。私、死んじゃうの!?」という恐怖が頭の中でグルグルと渦を巻く。様子を見ながら、骨髄移植に備え、家族のHLA(白血球の血液型)をチェック。 幸い、下の妹、千佳与さんが一致した。しかし、すぐに移植を受けることはしなかった。「まだ動けるから大丈夫」と、そのまま、ツアーでプレーし続けたのだ。「家でウジウジしていたら精神的に良くないと思ったのと、すぐにクラブを置く勇気がなかったんです」と、6年間も体に無理をし続けた。 「出血したら止まらない状態なのだから」と、止める医者の言葉に耳を貸さず、大反対する家族を置いて彦根の実家を飛び出した。千葉のゴルフ場に行き、ゴルフ漬けの生活を送った。 だが、病気は確実に中溝の身体を蝕んでいた。5月の試合中に発熱。東京女子医大を紹介され、ゴルフ好きの主治医に出会うと「試合に出たいのなら、輸血をしなさい」と言われた。残りのシーズンは、輸血で何とかプレーを続けた。それでも、オフを目の前にした11月に力尽きた。伊藤園レディスを棄権したのが、結果的にこれが最後の試合になった。 それでも、移植にはまだ抵抗があった。迷っているときに背中を押してくれたのが、プロ仲間の奥村久子とその夫で大相撲の元関脇益荒雄の阿武松親方だった。千葉県に開いたばかりの部屋を訪ねると、初対面の親方に、いきなり喝を入れられた。 「話は聞いている。お前には(移植で)生きるチャンスがあるだろう。生きたいのか、死にたいのかどっちなんだ!? 今度、病院に行くときは俺たちもついて行く、そこで移植します、って言うまで見届けるぞ」。これで心が決まった。2人に付き添われて、主治医に「生きたいです。お願いします」と泣きながら言っていた。 <h2>3年間、点滴だけの生活</h2> ドナーの千佳与さんから移植を受けたのは1997年12月3日。血液型がAB型からb型に変ったこの日が2度目の誕生日だ。 「移植したら3か月後には退院してゴルフができると思っていた」という希望に満ちた決断。移植後は順調に思われたが、3か月後に水を一口、口にすると、痛みに悶絶した。医者にも予想できない拒絶反応(GVHD)が出てしまったのだ。 粘膜という粘膜がケロイド状になり、飲食物を受け付けない。点滴だけで生きる日々が3年続いた。襲いかかる絶望。免疫力が下がり、感染症にも襲われ、何度も、命の危機に遭遇した。 母が泣きながら自分の足をさすっているのを、夢うつつで見た記憶もある。それでも、移植の機会もないまま亡くなる患者も多い病棟で、移植を受けて生かされていることを実感していた。 「妹の命をもらって生かされている身なんだから、どんなことがあっても生きなくちゃ」という思いで踏ん張った。「辛くなるんじゃないの?」と言われるのを振り切り「せめて目からだけでも食べたい」と、テレビのグルメ番組や、グルメ本を食い入るように見た。 <h2>笑手紙との出会い</h2> そんな頃に出会ったのが絵手紙だ。母、俊子さんのおば、小林正子さんから届いたハガキを見て。「絵なんて高校時代の美術の時間以来、描いたことなかった」のに、気が付けば憑かれたように描いていた。 「(闘病中に)たまっていた言葉があふれるように出てきて」という作品を見た小林さんは「絵に力がある」とほめてくれた。看護師さんが病棟に貼り出してくれたことで、さらに力をもらった。 同じ血液の病気と闘う小学生の男の子が、中溝が書いた絵手紙を見て、涙を流してこう言った。「僕も頑張って病気を治すから、中溝さんも頑張ろうね」それまで、勝負の世界に生きていた中溝には、自分が人を励ますことができたことに大きな喜びを感じた。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/02/nakamizo3.jpg" alt="あっという間の夏休み" width="788" height="620" class="aligncenter size-full wp-image-40121" /> 「入院したからそのことがわかったんだ。よかった」と、思い、絵手紙を描くことはライフワークになった。笑いを求め、言葉遊びも入る絵手紙を〝笑手紙〟と名付け、カレンダーを作るまでになった。 <h2>rebornで毎日100%</h2> 紫外線を浴びることができないため、コースに出てゴルフをすることはできない。また、右目の視力もほぼ失われているが、中溝は驚くほどに前向きだ。 「移植で私はリボーン(reborn)したんです。一瞬、一瞬、どんな時だって100%でいたいんです。中途半端では命に対して失礼だと思う。だから、やりたいことはすぐにやってます」と言い切る。 夢を見た翌日から始めたと言うドラムにも夢中になっている。主治医との約束から始めたチャリティコンペも、間もなく10年目を迎える。 日本骨髄バンク評議員も務めており、その大切さをアピールすることにも心を砕いている。「ひとりでも多くの白血病患者に生きるチャンスを与えて欲しいんです。骨髄移植は骨の移植でも脊髄の移植でもありません。それを分かって、ドナー登録していただきたい」と移植の大切さを力説した。 同時に「食べることは生きること」と、自己流の食育も伝え続けている。「日本一クラブを持たずに筆を持つ女子プロゴルファー」中溝の日々は、感謝とエネルギーに満ちている。 <img src="https://www.gew.co.jp/wp-content/uploads/2018/02/nakamizo2.jpg" alt="食は私たちのいのちの源です。笑顔と元気をありがとう。" width="788" height="525" class="aligncenter size-full wp-image-40117" /> <h2>■淳子目線</h2> 食べられなかった3年間を経験した中溝の笑手紙↑は食物の大切さがあふれている。また、まだまだ詳しく知る人の少ない骨髄移植にもアピールを続けている。 「ひとりでも多くに生きるチャンスを!」という中溝の言葉に共感した方はこちらへ→<a href="http://www.jmdp.or.jp/" rel="noopener noreferrer" target="_blank">http://www.jmdp.or.jp/</a>
    (公開)2018年02月27日
    月刊ゴルフ用品界2017年3月号 『女子プロ列伝』に掲載。 なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 砂まみれの力士たちから笑顔がこぼれる。朝稽古が終わったばかりの午前10時過ぎ、阿武松部屋。厳しい親方の姿はなく、おかみさんと冗談を言い合う様子から温かみが伝わって来る。おかみさんの名は奥村久子。美人女子プロゴルファーと呼ばれた20数年前に比べるとややふっくらした姿に、充実感を漂わせていた。 10歳でゴルフを始め、20歳でプロテストに合格。優勝経験こそないが、80年代、ツアーで戦う若手選手の一人として存在感を放っていた。そんなある日、一人の男性と知り合うことになる。益荒雄(ますらお)という四股名を持つ押尾川部屋の力士、現在の阿武松親方だ。 運命の出会いは、25歳の時。力士会コンペのテレビ解説をする予定の林由郎プロが直前にキャンセル。あわてたテレビ局が、近くで開催していた女子プロの試合に代役を探しにやってきた。白羽の矢が立ったのが、早いスタートで予選落ちしてしまった奥村だった。 <h2>偶然の出会いは力士会</h2> コンペ会場に行って驚いた。「本当に力はあるんだけどヘタクソばかり。洋芝のティーグランドで素振りをしただけでダフって大きなターフを取る。コースはボロボロになっていき、最初は笑顔だった支配人の顔がどんどん青ざめて行ったのを覚えています」と苦笑する状況だった。 将来の夫の接近は、車で送ってもらおうと関係者を待っているときだった。「プロ、どちらにお帰りになるんですか?」と話しかけられた。偶然にも、名古屋巡業で野部屋の拠点が、奥村の自宅のある尾張旭市の隣町にあることがわかり「訪ねてきてください」と誘われた。 帰って何気なくその話をすると、兄が行きたがった。後日、兄妹で訪ねたが、この時は益荒雄が留守で会えなかった。後日、電話をもらい、食事をした。 故障を抱えていた益荒雄は「引退しようと思うんだけど、どう思いますか?」と、尋ねたが、奥村はあっさり「もう無理じゃないですか」と、答えたと言う。成り行きで引退後の準備をする益荒雄をサポートするうち、一気に距離が縮まり、交際に発展した。 「最初は、私のゴルフをサポートしてくれるって言う話だったんですよ。それが、だんだん部屋を持つって言う話に変わってきちゃったんですけど」と紆余曲折はあったものの、5年後に結婚。益荒雄が年寄株を入手。大鵬部屋の部屋付きから、部屋を開き、現在の千葉県習志野市に引っ越してから、おかみさん生活が始まった。 <h2>180度違うおかみさん生活</h2> 相撲の世界のことなど、何も知らない娘の結婚に、両親は大反対。だが、本人は「逆に何も知らないからやれたんでしょうね。知ってたらやらなかった」と、笑って振り返る毎日が始まった。 いきなり、思春期の弟子の母親代わり兼部屋のマネージャーという日々に放り込まれる。自分の事を最優先に考え、行動するプロゴルファーとは180度違う。弟子のこと、親方のことを優先するのが当たり前になった。 部屋によって全く違うおかみさんの仕事を教えてくれる相手はどこにもいない。乗り越えてこられたのは「教えてくれる人はいないけど、その分、自由にできました」と、前向きにとらえられる性格もあったからだろう。 角界関係者の間では口下手で有名だった親方が、弟子を育て、部屋を運営していくために一生懸命、人と付き合い、勉強するのを全力でサポートした。時にはケンカもしたが、弟子の一人に「ケンカしないでください」と言われてからは、見ていないところでするようにした。 試行錯誤を繰り返す中で特に気をつけたのは「早くプロの自覚を持たせること。プロゴルファーと違って、身長、体重(が大きい)だけでプロになっちゃう子も多いので、早くこの生活に慣れさせなくちゃならないですから。規則正しい生活を身に着けさせ、挨拶をきちんとさせる。(相撲を離れて一般)社会に出てもやっていけるように育てることです」と言う。 ティーンエイジャーを始めとする弟子たちと24時間寝食を共にし、育てる責任は大きい。それを自覚しているからの発言だ。 <h2>故障には慎重に対処</h2> 故障で力士生命を縮めてしまった経験を持つ親方だけに、ケガには慎重に対処して来た。力士本人だけで受診すると客観的な対応ができないことも多いため、必ず、おかみさんが一緒に受診。医師の話を全て書き留め、十分に休ませてから復帰させるようにした。 <h2>女子プロネットワークの力</h2> 力士に多い網膜剥離を少しでも防止しようと、女子プロ仲間のネットワークも役立てた。眼を開いたまま、手術をする網膜剥離の治療にはとてつもない恐怖が伴う。1度、手術を受けた後、恐怖がトラウマとなった一人の弟子が「怖い。もう嫌だ」と、部屋を去ってしまったことがあった。 これに心を痛め「少しでも防止したい」と思った時、同じ女子プロの菅野仁美に相談した。菅野は、旧知の筑波大教授のところへ連れて行ってくれた。もらったアドバイスは「脱水症状は網膜剥離を引き起こしやすくする。朝、起きたら稽古の前に水分を取るようにしなさい」というもの。以来、阿武松部屋では、必ずこれをさせている。「どれだけ効果があるかはわかりませんが、少しでもあの恐怖に遭う子を減らせれば」という思いからだ。 プロゴルファーとしての活動はほとんどできず、プレーするのは年に10回程度。だが、部屋のコンペではもちろん大活躍する。当たり前だがお客さんの相手は誰よりも上手にできる。 「前は思うようなゴルフができなくて頭に来ましたけど、もううまくいかないことに慣れました。楽しくやれればいいと思って」と笑う。女子プロゴルファーであるおかみさんならではの大きな仕事の一つだ。 <h2>強い弟子たちとの絆</h2> 日頃の楽しみは「親方のいないところでみんなと笑うこと」と言って、弟子たちの顔を見た。弟子たちも悪戯っぽい顔で笑いをこらえる。絶妙なこの間は、まさに大家族。 確かに、取材中もちゃんこを食べる弟子たちと交わすやり取りは、本当に温かい。厳しいけいこの合間のやすらぎを、弟子たちがおかみさんに求めているのがよくわかる。OBが訪ねてきてくれるのが何よりもうれしい。「いい思い出があるということでしょう」と、微笑む様子は、本当に母親のように見える。 現在の課題は、9年後に迫った親方の定年(65歳)までに後継者を育てること。「弟子を育てるより難しい」と言う仕事が夫婦の集大成となる。 <h2>「淳子目線」</h2> 阿武松部屋から巣立つ弟子たちは、様々な職業で頑張っている。他の部屋出身者にはちゃんこ料理店を出す者も多いが、ここでは意外に少なく、高校卒業の資格を取って柔道整体師になる者が何人もいると言う。変わり種はパイロット。 「引退後はパイロットになりたい」と聞いた時には、親方もおかみさんも仰天したが、すぐに行動した。近所にパイロットが住んでいると聞いていたので、面識もないのにすぐに訪ねて話を聞いた。偶然、相手も他の仕事からの転職者。 「大丈夫。なれるよ」と、いろいろアドバイスをもらった。本人の努力や両親のサポートももちろんあったのだろうが、見事に資格を取り、今では機長として活躍している。 セカンドキャリアの成功の裏に、おかみさんの力あり。行動力の裏付けには、プロアスリートとしての経験もあるはずだ。
    (公開)2018年02月07日
    月刊ゴルフ用品界2015年11月号 『女子プロ列伝』に掲載。 なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 会心の笑みを浮かべて優勝カップを抱く。細い目をさらに細くした温かい表情。表純子が今年(2015年)、2度目の主役となった。ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン。大会前には肩から背中にかけての痛みを覚える苦しい戦い。優勝争いの相手は大山志保だ。 (2015年)3か月前のヨネックスレディスでも激突し、敗北を喫している実力者とのリベンジをかけた戦いを制し、2年ぶりのツアー4勝目を挙げた。 「本当にうれしい」と笑う横で、そっくりの優しい笑みを浮かべたのはキャディーでもある夫、広樹さん。2人を取り囲み、岡本綾子を師匠と仰ぐ"チーム岡本"の勝利を、妹弟子たちが祝福した。青山加織、森田理香子、若林舞衣子。誰もが自分のことのように喜んだ。仲間との絆の強さ、表の面倒見の良さがにじみ出た瞬間でもあった。 2か月ほど前にも、表の笑顔は明るく弾けていた。(2015年)6月のアースモンダミンカップ。日本女子ツアー最多の155試合連続試合出場という大記録を達成した時だ。2011年ダイキンオーキッドからこの試合まで155試合。表は、シード選手でも出場できないことのある試合も含めたすべてに続けて出場している。 棄権や失格もない完全な記録を打ち立てたのだ。これは今でも更新され続けており、日本女子オープンまでで既に167試合(2015年11月現在)となっている。この時も、後輩たちが祝福した。 (2015年)2月に41歳になった。女子ツアーの賞金シード選手の中で唯一の40代だ。ジュニア出身のプレーヤーが高校卒業を待ちかねるようにしてプロになり、すぐに活躍することが当たり前になって久しい。 当然のようにシード選手の平均年齢は下がり、20代が中心となってツアーを引っ張っている。表は自分の半分程度の年齢の選手が多い中で踏ん張り続け活躍していることになる。 ゴルフは、他のスポーツに比べて競技年齢が長い。それでも、1年間を通して戦うためには体力が必要だ。故障ともうまくつきあっていかなければならない。20代、30代、40代と変化していく女性の身体とも向き合う必要がある。これらすべてをうまくコントロールしていかなければならず、自分との戦いを強いられ続ける。 <h2>夫のサポート</h2> 結婚14年の広樹さんという最高のパートナーが、表をサポートしている。キャディーはもちろん、運転手やマネージャーとしての仕事から家事に至るまでのすべてを引き受け、妻が試合に集中できる環境を整えてくれている。 3歳年上の広樹さんとの付き合いは、20歳の頃から。人生の半分以上を一緒に過ごしているパートナーだ。最初から今のように、妻が稼ぎ、夫がそれを支えるというスタイルだったわけではない。研修生と所属コースの職員という間柄。 一緒に暮らしていてもお互い、仕事もプライベートも、自分のことは自分でしていた。 2001年に結婚した翌年、表が年間を通して試合に出られるようになった時、広樹氏は退職。妻をサポートしていくことを決断した。今の生活スタイルの始まりだ。 ツアーを2人で戦っていく。この決意は夫婦の究極の形のひとつ。それでも、きれいごとだけでは済まないのが人生だ。現実問題として、浮き沈みがつきもののプロゴルファーである妻の稼ぎに、2人の暮らしがかかることになった。この時広樹氏は、何があっても、何をしてでも生活していく覚悟を決めている。 <h2>世界の岡本綾子との出会い</h2> "鉄人"と呼ばれる表だが、息の長い活躍ができるようになった理由の一つとして、師匠の存在を忘れてはならない。1987年、米国人以外で初めて米女子ツアー賞金女王となったホール・オブ・フェイマー、岡本綾子だ。 同じ広島県出身だが、親交ができたのはプロになってから。表はその時のことを鮮明に記憶している。まだ現役としてプレーしていた岡本と、試合中、一緒に食事をする機会を得た。たまたま、どちらも予選落ちしてしまい、週末を一緒に過ごす。これで一気に距離が縮まった。 岡本はそれ以来、素直で飾らない表をかわいがった。「岡本さんに出会えていなければここまでやれていないでしょう」―。そうもらすように、それまですべてを自己流でやってきた表に、岡本は様々なことを伝えた。 ある時、首の痛みでプレーできないというと、岡本は言った。「(クラブが)振れないわけじゃないでしょう?それもあなたのゴルフなの」。自分の肉体と向き合い、付き合いながらプレーする。この言葉を聞いて以来、表は故障を抱えていても、精神的に辛いことがあっても、試合に出続けてきた。 それが連続出場につながった。 36歳で米ツアー賞金女王になり、日本ツアーに戻ってからも試合に出続けた岡本が、故障でそれを断念したのは55歳の時のこと。だからこそ「45歳まではできるよ」と励まし、今では「45歳なんてまだまだ」と、さらに長くプレーすることを応援してくれている。 プレースタイルも岡本から学んだ。それまではやみくもにピンをデッドに狙っていたが、状況に応じてのマネジメントを見せられた。アプローチの技も見て学んだ。 今では、チーム岡本の妹分たちや、若手とのプレーから受ける刺激も大きい。優勝した時にも「私みたいなおばさんに負けないで、と尻を叩きたい」と口にしていた。日ごろからこんな風に、若手たちを鼓舞してもいる。 最高のパートナーと世界最強の師匠を味方に、息の長い選手として活躍を続ける表純子。健康を第一に考え、睡眠はたっぷりとる。平均して8時間から9時間は眠り、昼寝をすることも珍しくない。 「食べたいものを食べ、飲みたいものを飲む」と、徹底的なマイペースこそ、長持ちの秘訣。オンとオフの切り替えもしっかりとする。ともすればゴルフばかりになりがちな若手がびっくりするほど「遊ぶの大好き」―。オフの海外合宿中などは、練習に集中した後は、泳いだり、出かけたりと元気に遊びまわっている。 若手の活躍はツアーを華やかにするが、そればかりではゴルフの奥深さは味わいにくい。ベテランが活躍することで層が厚くなり、本当のゴルフの良さも伝わる。周囲に元気も与えてくれる。本当のゴルフの良さが伝わり、同時に周囲に元気を与えてくれる。表の存在はそれほど大きな意味を持っている。 できる限り長く、ツアーでその笑顔を見せて欲しいものだ。 <h2>遠藤淳子目線</h2> ゴルフで何より大事なのはマイペース。表はこれを見事に貫いている。シーズン中はトレーニングもせず、練習ラウンドを大切にしている。「練習場でたくさん打つより、起伏のあるコースを回りたい」と、口にしている。 後輩たちと一緒に回るが、自分のタイミングで早々に引き上げるのも、自分のペースを守って体力を温存するため。コースを離れればホテルで昼寝をしたり、気晴らしをしたり。本文中でも少し触れたが、上手にオンオフの切り替えをしている。 優勝で最終戦リコーカップの出場権も獲得し、故障さえなければ連続出場記録が伸ばせることも決定。「これで休めなくなりました」とうれしい悲鳴を挙げたが、オフのバカンスを楽しみに、ぜひ、頑張ってほしい。
    (公開)2017年12月22日
    月刊ゴルフ用品界2014年10月号掲載 なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> 「俺が母親になるから、父親になって」――こんな言葉をパートナーからもらったら、バリバリと働く女性はみな歓喜するに違いない。反面、子供の成長につれて、父子の絆ばかりが強くなることに、複雑な思いを抱くことにもなるはずだ。 まるで、子育てを妻に任せて仕事に精を出す一般の父親のように‥‥。 実際、夫からこんな言葉をかけられたのは、日本女子ツアー6勝の茂木宏美。2010年10月に結婚した窪田大輔氏は元スノーボーダーで、現在はマネージャーも務めている。同時に、家事なども一手に引き受けることで支えてきた。 そんな2人は今、小さなもう一人の家族を連れて転戦を続けている。2月12日に誕生した長女、和奏(わかな)ちゃん。窪田氏に抱かれ、女子プロやツアー関係者たちにいつも取り囲まれている人気者だ。 妻が働き、夫が支える。古臭い日本の因習にとらわれることなく、ごく自然に2人は力を合わせ、茂木は日本ツアーのトッププレーヤーの一人となっていた。 カップルにおける男と女の役割分担は本人たち次第。だが、一つだけ、どうしても女にしかできないのが出産だ。男がどんなに頑張っても、これだけは代われない。長期の休養を余儀なくされ、体に変化をもたらす出産は、女性アスリートにとってリスクが伴うものでもある。それでも子供を育て、一緒に歩んでいきたいと思うのは、ごく自然な気持ちに違いない。 日本の現実は、まだまだ厳しい。女子ツアーにもも産休制度はある。それでも肉体的変化に対応し、ブランクを乗り越えるのはもちろん本人の責任だ。葛藤しているうちに年齢を重ねてしまう女性アスリートは少なくない。特にゴルフはプレーできる期間が長い分、人生への影響も大きい。 33歳で結婚した頃、茂木はまだ「いつかは子供が欲しい」と漠然と考えていた。尊敬し、あこがれる大先輩、塩谷育代が第一子を出産したのが36歳だったということは意識していたが‥‥。 子供を持つことへの思いは、すぐにもっと強いものになった。結婚後、初めて迎える2011年のシーズンを前に、話し合った夫妻は「メジャー(公式戦)タイトルを獲って子供が欲しい」という大目標をたてその準備に取りかかった。 ゴルフは順調で、2011年は1勝で賞金ランキング20位。2012年は未勝利だったが安定した成績で、ランキング16位と、毎年、ステップアップした。 <h2>ピンクのゴルフノート</h2> こうしてゴルフと私生活の二本の目標に向かって頑張りながら、茂木は毎日、記録をつけ始めた。ピンクの表紙に『2011年~ひろみゴルフノート』と書かれた一冊。妊娠するだいぶ前から出産、そして復帰を見据え、あらゆることが書き込まれている。 オフを経て臨む開幕戦では毎年、緊張して体が硬くなるのに、産休で約9か月もツアーを離れた後「緊張してひどいことになるだろう」と想定。朝起きてからの支度、コースでのキャディと一部始終。練習、ラウンドだけでなく、何から何まで記されている。 練習日、プロアマ日、本戦日。それぞれ違うルーティンを書き、その時に備えた。 2013年5月、茂木はワールドレディスサロンパスカップで佐伯三貴、森田理香子、リディア・コらを向こうに回して公式戦初優勝。前後して妊娠したことが発覚した。目標の1つをまず達成し、出産という人生の大仕事に向けてもスタートを切ったのだ。 9月の日本女子オープンを最後に産休に入ったが、その間も早い復帰を目指し、体調管理に気を配って過ごした。3480gの和奏ちゃんを出産した時は、ちょうど37歳。先輩だった塩谷とほぼ1年しか違わなかった。   出産の喜び、赤ちゃんのいる忙しくも幸せな時間にどっぷりと浸る間もなく、すぐに復帰への準備が始まった。2週間後には散歩を開始。1か月後にはトレーニング、時を同じくしてボールを打ち始めたが、股関節が硬くなっているのが気になった。 思うような球が打てず、くじけそうになったこともあったが、そんな時、支えになったのが夫と娘、そしてピンクのノートだった。出産後、初のラウンドを前に緊張した時、ページをめくると流れがわかって落ち着いた。ノートを広げるだけで「ああ、こうやればいいんだな」と落ち着いた。 <h2>茂木宏美がゴルフで稼ぐ</h2> 出産から4か月後。6月のアース・モンダミンカップは、自らのスポンサーの試合でもある。ここを復帰戦と決めて努力した。家族、師匠、トレーナー、キャディ。周囲の人々の協力のもと、無事、復帰戦に登場したときには、産休前より少しだけ柔らかい表情で、再びその舞台に立てる喜びに満ちた茂木がいた。 そうは言っても、試合に臨むには、優しい母の顔はむしろ邪魔になる。茂木は家族の稼ぎ頭だ。夫から冒頭の言葉をかけられたのは、まさにこの頃だった。これを聞いて茂木も覚悟を決めた。 「私たちには私たちのスタイルがある。家族が一番だけど、私がゴルフを一番にすることが家族のため」と、和奏ちゃんと過ごす優しい時間とは気持ちを切り替えて、ゴルフに専念することにした。 妻がゴルフで稼ぎ、夫がこれを支えるという道を選んだ2人が、改めて腹をくくり、お互いの役割を確認し、歩み始めたと言い換えてもいいだろう。 「娘が何かを感じてくれる年齢になるまではゴルフを続けたい」というのが現在の茂木の目標だ。塩谷は出産後に3勝しているが、もちろん、茂木の視野にもこの数字は入っているに違いない。 自分同様、プロゴルファーと母の2つ道を求める後輩がいれば『ひろみゴルフノート』を参考にアドバイスを送る気持ちも強い。 自分の道は自分で切り開くもの。この当たり前のようで、実践するのは難しいことを、茂木は見事に成し遂げている。周囲との調和も上手にとりながら、自然体でいる。 和奏ちゃんの存在が、ツアーで迷惑をかけないようにという気遣いもしている夫妻だが、むしろその存在は、周囲を和ませている。それを見て「自分もあんな風になりたい」と言った若いプロも何人もいる。 人に言えない努力や忍耐があるに違いないが、それを笑顔で乗り越えてプレーする姿は、人々に勇気を与えてくれる。それが復活優勝なら最高だ。 <h2>母親記者「淳子目線」</h2> 和奏ちゃんを中心にした笑顔の輪。女子ツアー会場で、こんな光景が当たり前になればいい。出産後に活躍している選手はまだまだ少ない。各自の努力はさておき、ツアーもそれをサポートする環境をつくるべきだ。 生涯スポーツのゴルフと、働く女性。女子ツアーはその2つの“広告塔”という面を持っている。子連れ参戦が増えることは、ツアーにとっても存在をアピールするメリットがある。 20年以上前から託児システムが定着している米女子ツアーに比べ、日本の環境は進化していない。だが、幸せそうな家族の姿にツアーでの輝く選手の姿が加われば、ここに一石を投じることができる。茂木宏美とその家族には、そのパワーが感じられる。
    (公開)2017年08月29日
    月刊ゴルフ用品界2016年11月号掲載 なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 <hr /> <h3>ゴルフがあって救われた</h3> 「私はゴルフがあって救われた思いがある。ゴルフは人生を豊かにするツールの一つ。これを広めたい」―熱くそう語るのは別府有里子。 日本女子プロゴルフ協会(LPGA)A級を持つティーチングプロだ。身長170㎝、体重54㎏ のモデル並みのスタイル。最初は少しはにかみながら、慣れて来ると朗らかな人柄がにじみ出る。 知的でいながらあけっぴろげな素顔で、レッスンだけでなく様々な分野で活躍している。 ゴルフとの出会いは22歳と決して早くない。文化学院文学科でジャーナリズムを専攻し、編集の仕事をするつもりでいたが、母の手助けが必要になって一転。家事手伝いとなった。 17歳違いの2人目の弟の世話と、不動産会社社長という多忙な母をサポートすることになった。専業主婦にもなりたかった娘は、これを受け入れる。 その合間に、近所のゴルフ練習場でアルバイトを始めた。 チラシを見て働き始めたのは学生時代。だが、特に興味もなく、しばらくはただ、仕事をしていただけ。 しかし、恵まれた体格を見た周囲が放っておかない。やがて、勧められるまま、クラブを握るようになる。ちょうど、高校時代からの恋人と別れたばかり。「これからどうしよう」と思っていた頃でもあった。 最初から球も飛んで面白かった。アルバイトだから無料で打てる。。夢中になった。レッスンも受け、2年が経った頃、乗せられて試合に出始めた。 人生で初めてスポーツにどっぷり浸り、いつしか全国レベルの大会に出場するほどにまで成長した。 <h3>意地悪に嫌気。プロ志望に</h3> 積極的に始めたわけでもない競技ゴルフ。これがプロ志望に変わったのは、アマチュア界の空気に嫌気がさしたからだ。 上達するにつれ、飛距離のある若者をやっかむおばさんゴルファーたちに意地悪をされることが増えた。ひとりやふたりではない。「飛ぶだけじゃねぇ」と、皮肉を言うのは当たり前。スコアを書きまちがうと罵声が飛んでくる。 ゴルフがうまくても性格の悪い人間たちと同じ世界にいるのが嫌になった。 「もっと質の違う人の中でゴルフがしたい。プロテストを受けてみようかな」と自然に決めた。この時27 歳になっていた。家事手伝いでは収入はあまりない。それまでにもゴルフをすることを応援してくれていた両親に相談した。 父は1970年代にプロ野球の巨人、太平洋クラブ(現西武)大洋(現横浜)で投手として活躍した関本四十四。1974年には最優秀防御率のタイトルを獲得した名投手だ。 有里子は1973年生まれの長女だから、5歳の頃にはすでに引退していたが、解説者や評論家、コーチなど野球関連の仕事を続けていた。 突然、プロを目指すと言い始めた娘に、最初は目を丸くした。だが「ゴルフを始めたのは遅いけど、球が飛ぶのは有利だから(合格は)不可能じゃないと思う」と背中を押した。有里子の挑戦が始まった。 トレーニングで体を作り、コーチについて練習の質を変え、量を増やす。取り組み方をガラリと変えた。 入会テストと言われる1次を2度目で突破し、2次を3回。最終テストにも3回挑んだ。それでも、プロへの道は険しい。 お金もバカにならない。2007年に不合格となった後、改めて自問した。 間もなく34歳になる年齢と自分の技量を秤にかける。「それでも私、プロになりたいの?」すると、自分に競争心があまりないこと、賞金で食べていく意識が足りないことに気が付いた。 結局、この年を最後にテストを断念した。前の年に父に「合格せずにこのままだと、ただの元研修生でゴルフがうまい女の子だ。それより、ティーチングの資格も取ったほうがいいだろう」と言われ、並行して勉強を始めていた。 2010年にティーチングプロC級を取得。B級を経てA級にステップアップしたのが2013年。以来、ティーチングプロとして活躍を続けている。 <h3>いじめられっ子で読書家で</h3> 神奈川県で生まれ育った小学生の頃はいじめられっ子だった。元プロ野球選手の父を持ち、サラリーマン家庭ばかりの地域で異色だったからだ。 ごく普通にプロ野球選手が家に訪ねて来ると「○○が出てきた」と、やっかまれる。「ジャイアンツが負けた」と言ってはいじめられる。小6ですでに身長が162cmもあり、周囲より頭一つ高く、目立ってしまったのも災いした。 そんな少女の友達が本だった。 「父は引退後、社会人としてやっていくために、とすごくたくさんの本を読んでいました。新聞も全紙、隅から隅まで読む。だからコミュニケーション能力が高い。元選手ですが、原稿は自分で書いていました。私も父の本はみんな読んだし、学校の図書室の本もほとんど読んだ」と振り返る。 中学時代は獣医になりたいと思っていた。拾った猫を度々獣医に連れて行く。ところが、あまりに多いので呆れられ「動物がそんなに好きな人は辛くなるからやめたほうがいい」と言われてやめた。 自由な校風で有名人の子供も多い和光学園高校に進み、狭い世界から解き放たれる。遊んだり、恋をしたり、大学生のような日々を送った。そんな少女が、大人になり、ゴルフを始め、今では人々に広めようとしている。 有里子にとってゴルフは、大事な存在になっている。「私、人を観察したり、気配を感じたりするのが好きなんです。それにおせっかい。だからレッスンは天職かもしれない」と笑う。 会社を立ち上げ、物販やイベント、ツアーの企画をする。他社の経営に名を連ねる。様々な形でゴルフとかかわる経験を積み、思いは深くなる一方だ。 「たくさんの人と出会えて健康にもよく、家族で楽しめる。私はゴルフがあって本当に救われた。みんなに、やることを探しているならゴルフにしませんか?と言いたいですね。そのためにゴルフへのハードルをいかに下げるか、どうやってゴルフを続けてもらうか、どうやって年配の方に今より5年続けてもらうか、を考えたい。 若い人にはこんなことも言いたいですね。人事の方って、履歴書の趣味や特技にゴルフ、の文字があると、どうしても目が行ってしまうんですって。それほど正しい大人の社交なんです」。何となく始めたゴルフの素晴らしさを人に伝える。今はその使命に燃えている。 <h3>淳子目線</h3> 4期目を迎えるBeYour Style99の代表取締役として、ゴルフ普及への夢は広がる。現在も様々な企画をあちこちで提案しているが、根本にあるのは「みんなのゴルフ寿命を延ばしたい」という思いだ。 遅く始めたからこそ感じるゴルフの魅力。これを伝えたい。 だから「個人でできるものと、組織としてしか動かないものの両方があると思うんです人と一緒にいろんなものを作っていくというのは、トレーニングが必要なこと。それが人生の課題です」。 そう口にするのは、不器用だという自覚があるからだ。だが、不器用なのは決して悪いことではない。地に足がしっかりと付き、周囲を見回すことができていることが、話せば話すほど伝わって来る。 人の気持ちに敏感でいながら、自分に正直でいられる。そんな人間が出す企画が、みんなの心に刺さらないはずがない。
    (公開)2017年08月15日

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