月刊ゴルフ用品界2017年8月号
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「それまで一度も何かを頑張ったことがなかったのに、生まれて初めて『やればできる』ということを知った」。もちろん、98を叩いたりもするほどムラはある。それでも「もう少しやってみようかな」と、熱中。経済的に頼るのがイヤで、ファイブハンドレッドクラブ(静岡県)の研修生になり、練習に打ちこんだ。父の教えのすごさを実感自己ベストをどんどん塗り替えるから楽しくて仕方がない。あっという間にプロテストが受けられるまでになった。20歳で挑んだテストで、自己ベストを出して周囲を驚かせたが、そこで感じたのは父の教えのすごさだった。「ジュニア出身とか世界アマ何位とかの中で、父のスウィングだけでここまで来た。極意を教えてくれたんだな」。あと一歩で合格しそうだったが、最後のハーフに大叩きして落選。ジュニア上がりの〝ゴルフエリート〟への反発も感じた。3度目で合格し、プロになったが、父には「稼ぐためにテストを受けるんでしょう。合格なんて途中のことだよ」と言われた。 下秋間CC所属となった時も「(ツアー転戦の)経費も出そうか」と言ってもらったが父がその場で断った。もらったのは10万円の月給だけ。賞金ではなくギャラが出るプロアマもテレビ出演も禁止され「賞金で稼げ」と言われた。 本人もゴルフに夢中で他のことには興味が向かない。「試合に出てシードを取って優勝したい」という一心で練習に明け暮れた。 全国を転戦するツアー生活は性に合っており、楽しくて仕方がなかった。これに暗雲がかかったのは3年目を迎えた頃だ。常陽カートの事故でムチウチになり、調子も落ちて落ち込んだ。同世代の仲間たちが結果を出すことで焦ることはなかったが、自分の不調に周囲が手の平を返すのにショックを受けた。ゴルフがイヤになり、岡本綾子に相談したこともある。「(クラブが)握りたくなるまで握らないことよ」と言われ、その通りにしたら開幕まで全くクラブを握らず自分でも驚いた。30歳になろうとしていた。ゴルフを愛していたここで人生2度目の引きこもり。本を読み、考え続けた。外に連れ出したのは後輩の志村香織だ。心配してやって来て「ゴルフしよう」と何度も繰り返す。「やりたくないんだよ」と言ってから気が付いた。「嫌いだと思っていたのに、私、ゴルフを愛していたんだ」。初心に戻って再出発した。それまでは父に教わったことだけをしていたが、6番アイアン1本を持って試行錯誤。スウィングのこと、クラブのことを自分で考えながらの再構築だ。 34歳の時、QTで結果を出し、すべての試合に出られたが、結果が出ない。父に言われてティーチングの資格を取っていたこともあり、今度こそ、ツアーからのフェードアウトを決断した。 40歳で副支配人として太平洋グループに採用された。突然、管理職で現れた女子プロに、旧態依然とした人々は冷たく当たった。だが、嫌がらせに負けることなく一生懸命働いた。「支配人ではなく副支配人に。そのほうが仕事を覚える」と言う父の言葉はここでも真実だった。知らなかった仕事を次々に覚えていった。「天職だった」が、残念ながら会社の経営が変わり、今度はティーチングの世界に飛び込んだ。 やがて、群馬に帰り、父の後を継ぐように地元でゴルフのために奔走している。LPGAの理事も経験し、LPGA放課後クラブの活動で、子供たちとも接している。「教えることで自分の引き出しも増える」と笑った後で、2つの目標をそっと口にした。「オヤジの夢だったティーチングの資格を国家資格にすることと、プロ達のセカンドステージをしっかりさせたい」ということ。大事な大仕事2つを、自分の意志で成し遂げようとする娘の姿を、父はうれしそうに見守っているに違いない。193遠藤 淳子(えんどう じゅんこ)フリーライター。都立三鷹高校→日本大学文理学部社会学科卒。東京スポーツで10年間、ゴルフ担当記者としてメジャーを始め日米欧男女各のトーナメントを取材。1999年4月よりフリーランスとして執筆を続けている。

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