設備投資の判断に悩むゴルフ練習場業界~シリーズゴルフ練習場ビジネス1~ 嶋崎平人
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練習場建設ラッシュの年代と背景
日本にゴルフ練習場が登場した最古の記録は、1929年、霞ヶ関カンツリー倶楽部(埼玉県)内の練習場だ。1952年には現在の関東ゴルフ練習場連盟の前身となる東京ゴルフ練習場連盟が加盟9場で誕生する。その5年後、1957年霞ヶ関CCで開催された第5回カナダカップ(現ワールドカップ)で日本が個人・団体で優勝、テレビ中継されたことで第一次ゴルフブームが起きた。 その後押しを受け、この年60場に増えた同連盟は関東ゴルフ練習場連盟と改称し、同年に関西ゴルフ練習場連盟、1961年に中部ゴルフ練習場連盟、西日本ゴルフ練習場連盟と設立が相次ぎ、1962年には全国652の練習場を数えている。1964年の東京五輪開催でスポーツへの関心が高まり、練習場数は1063場となり、利用者数も750万人。この年、ゴルフ場数は382で利用者数も1000万人の大台突破。この流れは70年代に入ると加速していく。 1971年、2年前にプロ入りした尾崎将司が年間5勝し、高度高度経済成長との相乗効果で第二次ゴルフブームへ。翌1972年には練習場数は3066と激増したが、同年は「日本列島改造論」を掲げた田中角栄内閣が登場した年。日本全国を高速道路網でつなぐ「改造論」がゴルフ場開発に拍車をかけ、1974年の練習場数は3970に。しかし、中東戦争による第一次オイルショックで高度経済成長は終焉した。 次のエポックは80年代にバブル経済で、きっかけは1985年の「プラザ合意」だった。過度なドル高の対策として、ニューヨークのプラザホテルに先進5か国の大蔵・財務大臣・中央銀行総裁が集まり、ドルに対して、参加各国の通貨を一律10~12%切り下げるもの。この合意を受けて急速な円高が進行した。 プラザ合意前日の東京市場では1ドル242円で、年末には1ドル200円を切るまで円高が進み、1988年の年初には1ドル128円となった。その円高対策として公定歩合が引き下げられ、当時戦後最低の2・5%に。融資への敷居が極端に下がり、マネーは土地、株、ゴルフ会員権等への投機に向かう。いわゆる「バブル」の登場である。 日本ゴルフ場経営者協会がゴルフ場利用税から算出する「延利用者数」は1986年前年比+6・1%、1987年+7・4%、1989年+9・5%とプレー人口が急伸し、ゴルフ場も毎年100コース近く開業。同一歩調の練習場も総計5000の大台を伺っている。 が、1991年のバブル崩壊を契機に市場は急激にシュリンクして、練習場市場は現在、アウトドア、インドア含めて3445まで減少した。原因はバブルの崩壊だけでなく、少子高齢化に伴うゴルフ対象人口の減少も深刻だ。深刻化する練習場の設備老朽化
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この記事は弊誌月刊ゴルフ・エコノミック・ワールド(GEW)2021年6月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 月刊ゴルフ・エコノミック・ワールドについてはこちら


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