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  • スポーツを通して愛する二つの国の架け橋に チャン・リナさん

    満薗文博
    1950年、鹿児島県いちき串木野市生まれ。鹿児島大学卒業。中日新聞東京本社(東京中日スポーツ)では88年ソウル、92年アルベールビル、同年バルセロナ、96年アトランタなどオリンピックを現地取材したほか、各種大会...
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    この記事は弊誌月刊ゴルフ用品界(GEW)2019年8月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 月刊ゴルフ用品界についてはこちら

    「WE PRAY FOR JAPAN」(日本のために祈ります)。

    フェイスブック(fb)の画面にこの文字が現れたのは今年の7月4日のことだった。背景には水浸しの町の写真、そして、日の丸とカンボジア国旗が置かれていた。 投稿したのは、チャン・リナその人である。南九州を襲った記録的な豪雨を憂うものだった。 1982(昭和57)年、カンボジアのコンポンチャム生まれ、リナは37歳になった。何ゆえに、彼女は日本のために祈ったのか。その生まれ年にさかのぼれば謎が解ける。カンボジアは、1970年代後半から80年代にかけて、大規模な内乱が起きていた。 ポル・ポト政権下で行われた未曾有の大量虐殺を覚えている人も多いはずだ。殺害された人々には多くの知識人、インテリが含まれていた。 リナの父親は高校教師だった。当然、殺りくの対象者である。父と母は、まだ乳飲み子だったリナを連れ、タイ国境の難民キャンプに逃がれ、そこから翌83年、難民として受け入れを決めた日本へと渡った。まだ、リナ、2歳にも満たない時だった。 以後、難民受け入れセンターのあった神奈川県で、幼稚園、小学、中学時代をこの地で暮らす。国籍はカンボジアのまま、日本の永住権を持つ。だから、リナには「二つの愛する国」がある。 身長154センチと、彼女は小柄である。だが、生来、運動神経は優れている。高校に進んで、すぐにソフトテニスで頭角を現し始めた。だが、好事魔多しである。2年の時、肘を壊して挫折、退学した。 しかし、リナは再起する。「自分探しの旅」に出たのは18歳の時だったという。鹿児島の南端・与論島でしばらく過ごし、目と鼻の先の沖縄に渡る。眠っていたスポーツの虫がうごめき始めたのは、この地でだった。手にしたのはゴルフのクラブ。用具を使って球を打つ。かつて味わった感触だが、軟式テニスとゴルフは違う。ゴルフ場で働きながら、新感覚にのめり込んで行く。当時、練習している中に「私と同じ様な体型で、すごく飛ばす少女がいました」。宮里藍だった。 やがてリナは「カンボジア初の女子プロゴルファー」として認定される。ゴルフが復活した16年リオデジャネイロ五輪では、祖国の強化指定選手になったが、実績が伴わず断念した。

    大人になるまで生きたい

    3年前の、2016年冬。「奇跡」は起きた。過去4度、オリンピックを現地取材した私は、曲がりなりにも五輪記者である。ある日、2020年東京五輪のメイン会場となる新国立競技場の工事状況を取材していた。ポイントを定めてシャッターを押すと、わずか2秒後、すぐ近くでも「カシャリ」と音がした。驚いて見ると小柄な女性がいた。彼女は近づくと言った。「私はカンボジア人のチャン・リナと言います。ここで20年東京オリンピックが行われるんですよね。私は国のゴルフ強化選手ですが、陸上でも出場を目指しています。外で、このことを話すのは、あなたが初めてです」。 現在、彼女はゴルフと並行して、陸上でもカンボジアの強化指定選手である。 リナは、10歳で初めてカンボジアに里帰りした時のことを忘れない。「同じ様な年ごろの子どもたちに聞いたんです。大きくなったら何になりたい?」。一人の子どもが答えた。「大人になるまで生きていたい」。恵まれた日本で生きる自分と、将来の見えない祖国で生きる子どもたちの存在に衝撃を受けたのである。そこから、リナは成長するにつれ、ある一つの思いを強くする。「私はスポーツを通して、日本とカンボジアの架け橋になる」。 16年秋から始まった、東京に本拠を置く陸上クラブ「ゆめおり」での本格的なトレーニングは現在も続く。指導する堀籠佳宏氏は08年北京五輪短距離代表、コーチには88年ソウル五輪同代表の松原薫氏らがいる。 学校には体育の授業もない、クラブ活動もない。本格的な陸上競技場は、首都プノンペンにあるナショナル・スタジアムが一つだけ。「二つの愛する国」を行き来しながらリナがまいた種が結実したのは昨年8月29日である。 インドネシア・ジャカルタで行われたアジア最大のスポーツの祭典・アジア大会の400メートルリレーに、カンボジア史上初の女子チームが出場を果たしたのである。予選で「あこがれの日本チーム」と同組で走り、最下位だった。だが、リナをはじめ「歴史的快挙」を遂げた4人の顔は輝きに満ちていた。「私だけではない。リレーなら複数で国際舞台を踏める」という願いはかなった。
    歴史の扉を開いたカルテット。左か2人目がリナ
    祖国では貴重なバトンなどを贈ってくれたのは、ゆめおりクラブである。アシックスグループからは、ナショナルチームのユニホームが届けられた。ほかにも、多くの「JAPAN」がリナを後押ししてくれた。「日本には感謝の気持ちでいっぱいです」と、リナは話す。 チャン・リナ、37歳。昨年11月に右膝前十字靱帯を損傷、この冬手術を受け、現在はリハビリから再起を目指すが、気力は衰えない。来年の東京に意欲を燃やし、現在は100メートルハードルと向き合っている。ゴルフの仕事、さらには、外国人を多く抱える稲川素子事務所に所属してタレント活動もこなす。「私が露出することでカンボジアをもっと知って欲しいから」。 7月4日のfbには「WE PRAY FOR JAPAN」の下に、小さく「WE ARE CAMBODIAN」と書かれていた。