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あの鉄の棒は?柿の木は?人が道具を創る。道具が人を創る

満薗文博のPenぺん草紙 満薗文博

この記事は弊誌月刊ゴルフ用品界(GEW)2020年3月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。
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そして、厚底シューズの時代

あの長い鉄の棒はどこへ行ったのだろう。鹿児島の片田舎。県立普通高校の汗臭い陸上競技部室に、そいつは置かれていた。新入生の僕らは、この棒をまたぐことがはばかられた。「魔法の棒」は、特別の輝きをもって存在していたのである。高校を出て幾十年、数年前に講演で呼ばれて帰ったが、母校の部室は元の場所から消えていた。あの長い鉄の棒はどこへ消えたのだろう。

それは、棒高跳びのポールだった。入学早々、2級上の先輩が、この棒を使って空中に舞い上がるのがまぶしかった。映像や写真の世界では知っていたが、そのとき、初めて生で棒高跳びなるものを見た。バーは、いま思えば3メートルの少し上あたりに掛けられていたのだろう。

長い間、特に戦前において、日本の棒高跳びは、世界のトップレベルにあった。豊富な竹林から、使い勝手のいい竹のポールがいくらでも手に入ったのが、その背景にあったのだ。ちなみに、1936年ベルリン五輪。西田修平、大江季雄(すえお)が銀・銅メダルを獲得、半分ずつにしてつなげた「友情のメダル」で知られるが、竹のポールを操り、記録はともに4メートル25だった。棒高跳びは、1896年第1回オリンピックから行われているが、初期に使われていたのは木の棒だった。

しかし、あっという間に、まぶしかった鉄の時代も去って行った。鉄の棒は、日本全国の陸上部室でほこりをかぶり、やがて記憶の外へと追いやられて行った。大学に入ると、グラスファイバー全盛の時代が待っていた。

いまや、棒高跳びは、オリンピックや世界選手権など、国際大会では6メートルの空中戦が行われている。空を飛びたい人間どもは、木−竹−鉄−グラスファイバーへと、道具を編みだし、それにさらに手を加えて「より高く」を希求するようになっている。人が道具を創り、道具が人を創る。そうして、スポーツは時代を切り開いてきた。

と、ここまで書いたら、ふと、ゴルフが思い浮かんだ。本誌がゴルフ専門誌だからと、無理して書くのではない。長い記者生活のうちには、思いがけないことも起きる。世が平成になったばかりの1989年4月、僕はオーガスタにいた。

その後に行われるボストンマラソンも兼ねて、マスターズゴルフの取材をしなさいという指令だった。大会を連覇したニック・ファルドが、最初の優勝を決めた大会だった。世界の青木、ジャンボ尾崎、中嶋常幸……、世界のマスターたちが次から次へとラウンドを始めたが、ほぼ全員手にしていたのは「パーシモン」のクラブだった。あれからおよそ30年。トーナメントから柿の木は消えた。こうして、ゴルフもまた新しい時代にある。

本当に人が飛んでいる

いつの間にか、近所のおじさん、おばさんまでが走る時代になって久しい。市民マラソン・ロードレースが隆盛を極める兆しを感じて、若い頃、何度か地方の大会に足を運んだ。「フツーのおじさん」たちが会話していた。「おまえ、いくらで飛んだ?」「ここは坂が多くて、よく飛べなかったさ」。「うん? えっ?」であった。僕は地方の出だが、本州の真ん中あたりに「走る」ことを「飛ぶ」という地方があるのを初めて知った。

しかしいま、おかしいことではない。日本列島、いや世界中で、ホントに「人が飛んでいる」のだ。米国に本拠を構えるナイキ社が、厚底シューズを編みだし、世界のトップが、いとも簡単に世界記録やコース記録を作り、あっという間に、優位性は世界に流れ出た。いまや、日本でも「世間」の評判となっている。友人に60歳を過ぎた「走るおじさん」がいる。千葉で農業を営む傍ら、方々の大会で走ってきた人だが、昨年、内臓を病んで入院、ランニングにドクターストップを食らった。やっと、退院して散歩が許されたが、早速やったことは、ナイキの厚底シューズ購入だった。

「お父さん、そんなにほしいのなら、僕が半分出してやるよと言われ、3万円したけど買った。ハハハ」。リハビリの散歩で使っているが「履いているだけで、走り出しそうな感じだよ。早くレースに出たい」と、おどける。

二足歩行を宿命づけられた人間は、本能の中に「より高く」「より速く」を希求しながら生きてきた。広島県中央部の世羅町に、禅寺「修善院」がある。住職で友人の神田敬州さんは、駅伝でおなじみの世羅高校OBで、50代半ばのいまもランナーである。年に一度、靴供養を行うことで知られ、本堂には、国内有数の、例えば君原健二、瀬古利彦、高橋尚子らの活躍時のシューズが奉られている。すべて、軽量化を追求した結果生まれ、一世を風靡した「薄底シューズ」だった。神田さんは言った。「最近、2足、厚底が並びました」。世羅高校OBのカロキ選手と、マラソンで日本記録を作った大迫傑選手のものである。2年前に僕はこの寺を訪れたが、厚底シューズが並ぶなど夢にも思っていなかった。

だが、ここで声を大にして言いたい。それは、過ぎ去ったものへの尊厳を忘れてはいけないということである。1964年、東京五輪のマラソンで、薄底の円谷幸吉は銅メダルを得て英雄となった。そのタイムは2時間16分22秒8である。厚底で出た現在の女子マラソンの世界記録は2時間14分04秒である。だからといって、円谷の記録を笑ってはいけない。「飛ぶ」ことなく、甲州街道をひた走った円谷の輝きが鈍ることはない。

4メートル時代の棒高跳びも、パーシモン時代の飛距離も、現代へと続くカタパルトになったのだ。あの鉄の棒はどこへいったのだろう。柿の木のヘッドも消えた――。僕らは、時代に漂いながら生きている。それでいいのだ。


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ライター紹介 ライター一覧

満薗文博

満薗文博

1950年2月6日、鹿児島県いちき串木野市生まれ。鹿児島大学卒業。中日新聞東京本社(東京中日スポーツ)では88年ソウル、92年アルベールビル、同年バルセロナ、96年アトランタなどオリンピックを現地取材したほか、各種大会を取材。報道部長、編集委員を経て、現在スポーツジャーナリスト。大学講師。

著書に「オリンピック・トリビア」(新潮社)、「オリンピック面白雑学」(心交社)、「オリンピック雑学150連発」(文芸春秋社)、「小出義雄夢に駈ける」(小学館)、「ゴールへ駆けたガキ大将」(東京新聞)、「羽生結弦あくなき挑戦の軌跡」(汐文社)など。執筆協力作品に「見つける 育てる 生かす」(中村清著、二見書房)、「小出義雄監督の人育て術」(同)など。

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