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  • コロナ自粛で甦った〝不死鳥シェビンスカ〟

    満薗文博
    1950年、鹿児島県いちき串木野市生まれ。鹿児島大学卒業。中日新聞東京本社(東京中日スポーツ)では88年ソウル、92年アルベールビル、同年バルセロナ、96年アトランタなどオリンピックを現地取材したほか、各種大会...
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    この記事は弊誌月刊ゴルフ用品界(GEW)2020年6月号に掲載した記事をWeb用にアップしたものです。なお、記事内容は本誌掲載時のものであり、現況と異なる場合があります。 月刊ゴルフ用品界についてはこちら

    「物言えば唇寒し秋の風」

    季節は、これから夏へ向かうというのに、何をとぼけたことを言うのだと馬鹿にされるのは承知している。釈迦に説法だが、そもそも「物言えば…」は誰が言い出したのかをひとくさり。 元を正せば、江戸時代の俳聖、松尾芭蕉の俳句である。「口を開けば、唇に秋の風が感じられる季節であることよ」といったようなものだったのが、いつしか「余計なことを言ったら、自分に跳ね返って災いをこうむる」といった人生訓に転じ、現在に至っている。 さて、いま、軽々しく口を開けば、寒々しい思いをしなければならないワードに「オリンピック」がある。昨秋、2020年東京オリンピックのマラソン・競歩コースの札幌移転で、お茶の間までが沸騰した。しかし、いまにして思えば、そこまではまだ序の口だった。ひとしきり騒がれた後、今年に入るや、新型コロナが大会の存続そのものを直撃した。当初「なあに、そのうち下火になるさ」のムードもあって、国際オリンピック委員会(IOC)と東京(日本)は1年延期の道を選んだ。そのころ、と言っても最近の出来事だが、オリンピックを待ちわびる人たちは「中止にならずにすんだ」と胸をなで下ろしたものである。 だが、下火になるどころか、コロナは逆に猛威を増し、世界中を脅威のるつぼに巻き込んでいる。誰にも終息が予断できない状況が続き、世の中は沈黙のただ中にいる。そんなとき「オリンピックがやってくる」などと言えるか。オリンピックの理念が「世界平和」にあるとしても、とても大っぴらに言えたものじゃない。1年の延期は、至る所に影響を及ぼし、そのために3000億円といわれる巨額が新たに投入されなければならないという。IOCが持つのか、日本(東京)がどれほどの負担を強いられるのか、一度は大問題になりかけたが、いつの間にか、この問題は姿を潜めている。 人々が困難にもがく状況で、オリンピックの新たな経費負担など、口が裂けても言えないではないか。言い出そうものなら「世の中でいま、何が起こっているのか分かっているのか。オリンピック?何、それ」と、蔑まされるどころか、怒りを買うのが現状である。 「物言えば唇寒し…」の時世に「自粛」が世の常識になった。かつてオリンピックを4度、現地で取材し、大学の頃から細々とオリンピック研究を続けてきた身には少し寂しいが、大っぴらに「オリンピック」を自ら言い出すのは止めた。仕事がら、求められたらしゃべるが、余計なことを言わない。ああ「物言えば唇が寒い」。

    ああ、不死鳥シェビンスカ

    飲み屋の多くが店を閉じ、やっていたとしても早い時間の店じまいである。このコロナウイルスでは、特に高齢者の致死率が高いという。カミさんと娘たちが、ノコノコ居酒屋に出かけていた私に「自粛を要請」してきた。もう、1ヶ月も酒は口にしていない。なーに、団塊の世代の尻尾に生まれ、ここまで生きてきたんだから、後はおつりの人生だよと思ったりもしたが、志村けんさんがコロナに命を奪われると他人事とも思えなくなった。志村さんとは同じ、1950年2月生まれである。 自粛生活を通してきたが、ヒマも楽ではない。過日、ハタと思い立って始めたのが書棚いじりだった。すると、背表紙の字が薄れ、ほぼ判読不明の一冊が出てきた。手にすると、それは、ポーランドが生んだ「陸上界の女王 不死鳥・シェビンスカ」(ボグダン・トマシェフスキ著、小原雅俊訳。ベースボール・マガジン社)だった。44年も前の1976年に出た初版の表紙をめくると、最初のページに黒々と鮮やかさを残してシェビンスカさん直筆のサインが現れた。仕事の縁あって、その年、モントリオール・オリンピックの400メートルに世界新記録で優勝した彼女と、来日中の東京でお会いする幸運に恵まれたのだった。 この時、シェビンスカさん、30歳。4歳下の若僧で、田舎出の三流選手に終わった私には、遙か雲の上の人だった。1964年東京を皮切りにオリンピック5大会に出場。3個の金メダルを含む7個のメダルに輝いたスーパーウーマンである。そんな人が、私ごときに書いてくれたサインだったのだ。 整理などそっちのけである。おぼろげだが、あの日、シェビンスカさんが話した言葉を思い出す。「64年東京オリンピックの時、私は18歳でした。東京で過ごした日々、出来事は夢の中のようでした」。あの56年前の東京で、彼女は200メートル、走り幅跳びに銀メダル、400メートルリレーで金メダルの大活躍を見せたのだった。その東京にいま、暗雲が垂れ込める。 シェビンスカさんは親日家だった。浅からぬ縁は、近年まで続いていた。母国のオリンピック委員会の幹部となり、IOC委員も務めた。2017年には、ポーランド委員会の代表の一員として来日、群馬県高崎市を同国五輪代表の「2020年東京」基地とする契約を結んだ。まだある。IOCでは、20年東京の開催準備状況を監督する調整委員に就いていた。まさに「思い出の東京」との関わりを楽しみにしていたと聞く。このコラムを過去形で書かなければいけないのは悲しい。シェビンスカさんは2年前の2018年6月29日、ワルシャワで生涯を閉じた。72歳の若さだった。 彼女が楽しみにしていた20年東京五輪は、コロナの仕業で1年延期となった。そしていま、1年後の開催を言い出すのは「物言えば唇寒し」のご時世である。コロナから逃れて本棚整理に手を付けたが、結局私は、オリンピックに出会い「物言わず」オリンピックの感慨に浸ったのである。