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  • いとおしい、それぞれのオリンピック

    満薗文博
    1950年、鹿児島県いちき串木野市生まれ。鹿児島大学卒業。中日新聞東京本社(東京中日スポーツ)では88年ソウル、92年アルベールビル、同年バルセロナ、96年アトランタなどオリンピックを現地取材したほか、各種大会...
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    難局を鮮やかに滑り抜けるか、力強いペダリングでまくるか。橋本聖子さんに、勝負の「2020TOKYO五輪」がやって来る。 豪腕を振るった大会組織委員会会長の森喜朗氏が、セクハラ発言の責を問われて突然、辞任。7月に迫ったオリンピック、その後に続くパラリンピックの大会組織委員会会長に就いた聖子さんに、かつてのアイアンウーマンの勝負師の顔は戻るのか。スピードスケート、自転車競技で冬・夏計7度のオリンピックを戦った人が、コロナ禍でも揺れる「世界のお祭り」を、いかに牽引するのか。 結果はどうあれ、僕はひとつの物語を書く。かつてオリンピック記者として、聖子さんの奮闘を見てきたが、今回の騒動のさ中、ある情景が甦ったのである。

    オリンピックの申し子

    1992年冬季オリンピックは、フランス・アルプスの小さな町、アルベールビルで開催された。もう一昔前、今から29年前の2月、彼の地で歓喜した橋本聖子の笑顔を思い出す。 冬のオリンピック史上、最後となった屋外リンクで行われたスピードスケート1500メートルで、聖子は力走した。そして銅メダル。これは、日本女性が冬季五輪のスピードスケート史上初めて獲得したメダルだった。 現地で取材した僕は、およそ500メートル離れたプレスセンターから、寒風の中、凍てついた道を歩いて行き来した。屋外リンクはコンディションが一定しない。悪天候になると、スケジュールの変更を余儀なくされることもあった。「延期」「時間変更」になると、再びプレスセンターへ歩いて帰った。そのたびに寒かった〝はず〟である。 だが、零下数度になっていたはずの道の寒さを、不思議と僕は覚えていない。理由は間違いなく「聖子効果」。それと、後で書く、ある少女との出会いだったと、今も思う。細々と五輪研究を続けて来た僕だが、現実に「快挙」と「奇遇」を味わった喜びは、寒さどころか、何ものにも代えがたい宝物になったからである。 聖子さんは、1964(昭和39)年10月5日、北海道の牧場の生まれ。その年、10月10日の東京オリンピック開幕が迫っていた。間もなく灯される聖火にあやかり、付けられた名前が「聖子」だった。この、オリンピックの申し子は、成長して、スケート靴をあやつり、そのトレーニングの一環として始めた自転車でも日本のトップ選手に躍り出た。 オリンピック出場は、女子では夏・冬合わせて国内前代未聞の7度である。まさにオリンピックの申し子と言っていい。 ○冬(スピードスケート)  1984年 サラエボ  1988年 カルガリー  1992年 アルベールビル  1994年 リレハンメル ○夏(自転車)  1988年 ソウル  1992年 バルセロナ  1996年 アトランタ

    聖子さんのメダルに涙ぐんだ少女

    自転車でも、スピードスケートでも、世界の檜舞台で戦い、生涯手にした、たった1個の五輪メダルが、92年アルベールビルの「銅」だった。 ここに書いた7回のオリンピックで、僕が現地取材したのは、ソウル、アルベールビル、バルセロナ、アトランタの4つの大会だった。いずれも、それぞれに思い出を残しているが、聖子さんが唯一のメダルを獲得したアルベールビルにも忘れ得ぬ思いが残っている。 屋外のスケートリンクから、およそ500メートル。多国籍ジャーナリストが取材拠点にしていたプレスセンターの一角。日本人記者たちが詰める大屋根の下で起きた出来事を、僕は忘れられない。 現場に出動し、連絡、執筆に追われる日々を、笑顔で支えてくれた少女がいた。褐色の肌を持つ、地元の18歳の女子高校生、アンドリアミアード・タントゥリー・アリジョさんだった。 いま日本では、オリンピックを前にした混乱で、幾多のボランティアたちが辞退を申し出て問題が大きくなっている。ここで書くのは、そんなボランティアに志願してプレスセンターで身の回りの世話をしてくれたアリジョさんのお話である。 笑顔を絶やさなかった彼女は、どういうわけか、いつも僕ら日本人記者たちの近くにいた。日本語は話せない。英語もたどたどしい。笑顔が彼女の言葉だった。ある日、手の空いた僕は、いつものように、チョコレートをあげながら、へたくそな英語で話しかけた。 「君はいつも、僕ら日本人記者の近くにいるよね?」 「日本人に会いたかったから、ずっと日本人記者の近くにいるんです」 そして、続けた言葉が衝撃的だった。 「私には日本人の血が流れています」。旧フランス領マダガスカルから13歳の時、この地に移住してきたのだという。 「私の母の、そのまた母の父は日本人でした。子供の頃から聞かされて育ったのです」と、彼女は続けた。 小柄、黒い瞳の目元を僕は改めて見直す。そして、どこかに同胞を感じたのだった。いかにして、この日本人がマダガスカルにたどり着いたのかは分からないという。 「いつか、先祖の国、日本に行きたい。それはまだ無理だから、このオリンピックを機に、プレスセンターで日本人のお手伝いをしたかったのです」 アリジョさんは、そこまで話すと、ニコリと笑った。 そして、ついに、彼女が、僕ら日本人記者と歓喜を共にする日が訪れた。始めに書いた「橋本聖子の銅メダル」である。いつもは、おとなしく、しとやかにぞうきんがけをしていたアリジョさんが、スケートリンクから戻った僕らを白い歯と涙ぐんだ目で迎えたのだった。 アルベールビルは、人口わずか2万人ほどの町だった。そこで出会った衝撃を僕は忘れない。アンドリアミアード・タントゥリー・アリジョさん、どこかで47歳になっているはずである。 橋本聖子さんは56歳。時は流れた。29年前の2月のあの日、銅メダルを見届けた日から老記者もずいぶん歳を頂いた。だが、忘れ得ぬ日のページは色あせない。